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*** 空気は冷えているが、昨日のような張り詰めた厳しさはなかった。周は路地を歩きながら、羽織ってきたキャラメル色のピーコートの前を合わせる。陽射しも随分と春めいていた。桜の開花も間近に迫っている。 つぐみの作ってくれた二体の雪だるまは、今朝には跡形もなく、溶けて消えていた。 昨日感じた胸騒ぎは、つぐみの具合が悪くなることだったのか……? ピーコートからは微かにつぐみの匂いがした。 『……好き、周さんが好き……、大好き……っ』 先ほどのつぐみの言動を思い返し、胸が締め付けられた。腰の辺りにはまだ、つぐみの体温が残り火のようにくすぶっている。 それに……、どうして、稲荷なんだ……? 周の作る稲荷は特段手が込んでいるわけでもなく、中に詰めるのもただの酢飯で、市販のもののように五目ごはんでもない。 そういえば……。 はた、と思い出した。 つぐみが周の家にやって来てから、初めて熱を出した日。その日の夕飯に周が用意していたものは、稲荷だった。 つぐみは、あの日のことを思い出して……。 だから……? 『みぃは……! ダメなの……っ』 幼いつぐみの叫び声が耳に蘇る。 「……っ」 子供の頃のつぐみとの思い出。大切なそれらの中には、いまだ胸に痛みが広がるものがある。 周の深く吐いた白い息が路地に広がった。 『俺ばっかり好きでごめんね……』 みぃ……。 胸の奥に行き場のない愛おしさが込み上げてくる。 「早く帰って稲荷を作ってやろう……」 思わず呟き、周がスーパーへの足を速めようとしたときだった。 前方から、『コツ、コツ』と硬質な靴音が響いてきて、ふいに顔を上げる。 「………………!」 その瞬間、周は、息をするのを、完全に忘れた。 真っ赤なピンヒールがまた、『コツ、コツ』と音を立てる。トレンチコートの裾が風に翻り、黒いシフォンスカートに描かれた鮮やかな橙色の極楽鳥花が、垣間見えた。手入れの行き届いた指先が赤いショルダーバッグを肩に掛けなおす。左手には丸められた雑誌が握られていた。 すべてが、周の目にはスローモーションに見えた。それに反して、心臓だけはものすごい速さで鼓動を刻んでいる。 「周君、お久しぶりね」 ――光の中で身を寄せ合う、周とつぐみ、ふたりを模した小さな雪だるま。 その声を聞いた途端、なぜか周の脳裏をすでに消え失せてしまった光景が、過った。 「…………鳥子(ちょうこ)、さん……」 この十年、決して口にすることのなかった名前が周の唇から落下する。 「みぃを、返しにもらいに来たの」 肩下まである、流れるような緑の黒髪を掻き上げて、美貌の女が、笑んだ。 ――高階鳥子。 つぐみの、母親だった。

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