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縁側と陽だまりとおやすみなさい。

時を刻む秒針の音が、やけに大きく聞こえた。  周は正午になろうとしている床の間の柱時計からノートパソコンの画面に視線を戻した。仕事を始めてから三時間ほどが経とうとしているのに、原稿は一文字も進んでいない。  縁側からは時折、小鳥の囀りが聞こえてくる。一昨日の冷え込みが嘘のように、気温は上昇していた。いつもは春の訪れを待ち侘びる周だが、今ばかりは季節が、いや、時間がとどまってくれないかと切実に願ってしまう。 「周さーん」  やっと目が覚めたのか、つぐみのトタトタと階段を下りてくる足音が聞こえてきた。その軽い足取りと声音だけで、周はつぐみの機嫌の良さを感じ取る。つぐみは襖を開けて和室に入ってくると、滑り込むようにして周の隣に正座した。そしてお気に入りのはちみつ色のカーディガンから覗いた指先で周の腕を掴み、 「ねぇねぇ、周さん! 今週末ね、桜が満開なんだって。だから久遠がね、おばさんがちらし寿司作ってくれるから、一緒にお花見行かないかって! 周さんももちろん行くよね?」  と、一気にまくし立て、期待に満ちた茶色の瞳で周の顔を見つめる。 今週末……。  ズクリと心臓が痛んだ。  その頃には、もう……。 「……身体は、大丈夫なのか?」  つぐみの瞳から逃げるように、周はキーボードに視線を彷徨わせた。 「もっちろん! もう全然平気! 周さんのおかげ」  熱がないことを伝えたいのか、つぐみは周のクリーム色のニットの肩に額を擦りつけてくる。 「それにお花見は週末だし、いいよね?」 「…………」 「周さん……?」  何も答えない周に、つぐみが不思議そうな声とともに顔を上げた。周は小さな息を吐くと、意を決してつぐみの目を見据える。  「みぃだけ、行ってきなさい。俺は……約束、できない」  適当にごまかすこともできた。けれど周は果たすことのできない約束をつぐみとしたくはなかった。  伝えなければならない。  周が下した決断を。 「どうして? あ、もしかして、締め切りが近いの?」  明らかにがっかりとした表情でつぐみが首を傾げる。 「みぃ、実は……」  周が重たい口を開き始めたときだった。左目の片隅で、縁側に影が落ちたのが見えた。朝、掃除をしてから、鍵をかけていなかったサッシ窓がスッと開かれる。 「……っ」  周が振り向くのと同時に、隣でつぐみのヒュッと空気を呑み込む音が聞こえた。 「おじいさまに二度とこの家の敷居を跨ぐなって言われてるから、律義に庭から入って来たわ」  心臓が嫌な音を立てて強く跳ねた。冷たい汗が一気に噴き出る。  鳥子が苦笑混じりに髪を掻き上げながら、庭に立っていた。 「ど、どうして……」  約束は明日のはずだった。  不意の鳥子の来訪に周は軽い眩暈を覚える。  大胆な花柄が配された深紫色のワンピースにトレンチコートを羽織った鳥子の姿は、いつも見慣れている素朴な縁側の風景に馴染むことはなく、庭の木々が調和を乱されたかのように風にさざめいた。 「急に時間が取れたのよ。それに、こういうことは早いほうがいいと思って、ね」  一向に悪びれる様子もなく、鳥子の視線が周からつぐみに移る。 「みぃ、久しぶりね」  周も慌ててつぐみに顔を戻す。つぐみは目を見開いたまま、息をすることさえ忘れてしまったかのように身動ぎひとつしない。 「……みぃ、大丈夫か?」  周が呼びかけると、ビクリと身体を揺らし、空気を求めて喘ぐように、その唇を小さく戦慄かせた。 「……母、さん……?」  それは、周が初めて聞いた、つぐみの母親を呼ぶ声だった。

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