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「……周君もみぃも、きっと後悔するわよ」  庭から、冷やかな声が聞こえた。 「……母さん、」  つぐみが周に腕を回したまま鳥子を振り返る。 「俺を、産んでくれて……ありがとう。周さんに出会わせてくれて、ありがとう……!」  瞬間、鳥子の瞳が大きく揺らいだ。周は鳥子の動揺する顔を初めて見た気がした。  生まれてきたことを、生きることを肯定したつぐみの声は清々しく、その表情はこれ以上ないほどに眩しく輝いていた。 「鳥子さん……、俺からも、礼を言います」  周も頭を下げると、鳥子は唇をきつく噛み締めて踵を返す。 「……パリに帰るわ」  鳥子は背を向けたまま、深い溜息を吐いた。 「これが、母親として、みぃにできる唯一のことみたいだから」  そう言い残して、鳥子は庭を出て行った。  小鳥たちの軽やかな歌声が耳に戻ってくる。 「……周さん」  つぐみが気恥ずかしげに瞳を細めて、伸ばした指先で周の頬に残る涙の筋を拭う。 「みぃ……」  その温かな手に周も自身の手を添えた。  お互い、それ以上はもう何も言えずに、ただ唇を触れ合わせる。  庭の木々を穏やかに揺らす風は、春の匂いがした。 ***  周が風呂から和室に戻ると、敷いておいた布団の片隅にパジャマ姿のつぐみが膝を抱えて座っていた。 「どうしたんだ、みぃ? もう寝たんじゃなかったのか?」  先に風呂に入ったつぐみは、すでに二階の自室で眠りに就いていると思っていた。 「ううん……、も少し、周さんと話したくって」  つぐみは周を見上げて微笑んだあと、 「お花見、楽しかったね」  そう付け加えた。  今日は久遠とその幼い弟妹たち、そして祖父と一緒に花見をしてきたのだ。もちろん、周も参加した。 「ああ、楽しかったな。久遠君のお母さんの散らし寿司も美味かったし」  周もつぐみの隣に腰を下ろす。  約束通り、久遠の母親は散らし寿司を作ってもたせてくれていた。久遠の弟はこの春から小学二年生、妹はまだ保育園児であり、花見はこのふたりを中心に終始賑やかで笑い声が絶えなかった。 「周さんが作ったお吸い物もすっごく美味しかったよ! 久遠のおじいちゃん、あったかいって、とっても喜んでた」 「そうか? それならよかったよ」  周が気恥ずかしげに首筋に手を当てると、つぐみが満足そうに微笑む。  桜は咲いたとはいえ、花冷えのするこの季節、周は魔法瓶に吸い物を入れて持って行ったのだった。 久遠の祖父である信吉(しんきち)は、つぐみが子供の頃から、川遊びや芋掘り、年末の餅つきなどの年中行事によく誘ってくれていた。今回の花見もその一環であり、信吉の気遣いのお陰で、つぐみは大家族の温かさに触れることができ、周はとても感謝している。そして、久遠の家族に接するたび、久遠のまっすぐな心根や面倒見の良さはあの家族によって育まれたということがよくわかるのだった。 「桜、すっごく綺麗だったね……」  膝頭を見つめて、そう呟いたつぐみの声音に周は僅かな切なさを感じた。  周は重箱に降りしきっていた薄桃色の花弁を思い出す。桜は満開を迎え、すでに散り始めていた。心奪われるほどの幻想的な美しさを持つ反面、桜の散りゆく姿は無性に寂しさや哀しさを感じさせる。 「ああ、綺麗だったな……」  周もしんみりと頷き返す。きっとつぐみも周と同じような想いを胸に抱いたのかもしれない。周はつぐみに手を伸ばし、伸びてきた髪を耳に掛け、心配げにその端正な横顔を覗き込む。 「あ、俺、やっぱりもう寝るねっ」  突如つぐみは我に返ったように周の手を振り切り、立ち上がった。だが周はその腕を無意識に掴んでしまう。 「……? 周さん?」  つぐみが驚いたように振り返った。 「あ、いや、これはその……」  自分の取った行動に思わず視線を揺らす。だが周は観念したようにつぐみに顔を向けた。 「みぃ、もう少しだけ、傍に居てくれないか」

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