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第60話

 部屋着にしている征一郎のワイシャツを脱いで、外に出ても問題のない格好に着替える。  念の為、スマホを掴み、部屋を出た。  廊下にもエントランスにも人影はなく、ちびは足早に自動ドアをくぐる。  外へと一歩を踏み出すと、しとしとと降る雨が体を濡らした。  そういえば雨の時は傘を差すのではないかと今更思い出したが、取りに戻る間に子猫が危険にさらされるかもしれない。  土砂降りでもないので、ちびはそのまま子猫を探すことにする。 「(えっと……こっち……かな)」  一応、周辺の地形は頭に入れているが、実際に歩くのとはやはり違う。  何度か征一郎に連れられて外出した時も、エレベーターで地下駐車場へと降りてそこからは車での移動だったので、近所を歩くのはこれが初めてだ。  恐らくあそこが征一郎の部屋だろうと算段しながら、注意深く周辺を窺うと、すぐに動くものの影を発見した。 「(いた……!)」  小さな毛玉が、雨を避けるようにして、草木の間に身を縮めている。  大きさからして、先日の子猫よりも生まれてから時間が経っているようだ。  その分動きも素早く、ちびが近付いていくと、さっと逃げてしまった。 「あ……ま、待って」  ちびが足を止めると子猫も止まるのだが、ある一定の距離以上に近付けない。  気付くと、エントランスからは大分離れ、マンションの裏手まで来てしまっていた。  周囲は閑静な住宅街であり雨も降っているので人気はないが、前方からジャージ姿の男性が歩いてくるのが目に入る。  男性はスマホを手にしており、それを見てちびも念のためにと持ってきたことを思い出した。 「(……やっぱり、一人じゃ無理だな)」  これだけ逃げるのだから、この子猫は元気なのだろう。すぐに病院に連れて行った方がいいという風には見えない。  篠崎に連絡して誰かに来てもらう間、車道に飛び出さないように見守っているのが一番かと、立ち止まってポケットからスマホを取り出した時。 「っ……!?」  濡れた道に、かつん、とスマホが落ちる音が鈍く響く。  影が差すと同時に唐突に腕を掴まれ、ちびは拘束されていた。  身を竦ませ、何事かと見上げると、もう片方の手にスマホを持っているジャージ姿の男性が、無遠慮にその顔をのぞき込んでくる。 「兄貴、やっぱりこいつ、征一郎のオンナのガキだ」  二十代半ばくらいだろうか。興奮した様子で電話の相手に話しかける男性には、前歯が一本ない。 『本当だろうな。何でターゲット本人が一人で外をうろうろしてんだよ』 「知らねーよ。いいから早く来てくれよ。誰もいねえけど、見られたら通報される」 『すぐ行く。捕まえとけよ』  スピーカーモードになっているので、相手の声も聞こえた。  目の前の男は一体何者なのか。  わからなくても、自分は征一郎の関係者として拘束されてしまったことだけはわかった。 「(そんな……どうしよう、征一郎に迷惑がかかる……)」  ちびはもがいたが、愛玩される用途で作られた身体では、大した抵抗にもならない。 「おい。暴れんなよ。痛い思いはしたくないだろ?」  痛い思いをすることは特に怖くはない。  ただ、力の限りに抗っても、逃げられる可能性はほとんどないだろう。  無闇に暴れると、近くにいる子猫を驚かせてしまうかもしれない。  武力以外でこの状況を打破する方法がないかという僅かな逡巡の間に、白いトールワゴンが近付いてくる。 「乗れ」  拉致される気配に踏ん張ったが、全く意に介さず後部座席に押し込まれた。  ちびを捕まえた歯抜けともう一人、後部座席に乗っていた男二人に挟まれ、身動きのできないまま車は走り出す。  征一郎が朝から出掛ける日は、午前中のうちに必ず誰かが様子を見に部屋にやってくる。  ちびの不在にはすぐに気付いてもらえるだろうが、子猫のことが気がかりだった。 「(征一郎……ごめんなさい……)」  みるみるうちに遠ざかっていく大切な場所。  ちびは非力な自分に絶望することしかできなかった。

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