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第72話

■都内某所 黒崎芳秀邸  降り立った黒崎家の庭には白とピンクのツツジが次々と花開き、その奥にひっそり佇むハナミズキも慎ましいその身を綻ばせている。  日増しに日差しは強くなっているようだが、木陰にいれば爽やかな風が吹き抜けて、とても過ごしやすい。  生き物の活動が活発になる、ワクワクしてくる季節だ。  今日は、先日ちびがさらわれた樋口組との一件のことで呼び出された征一郎について、芳秀の屋敷へとやってきていた。  どうやら征一郎は芳秀にちびを診察させたいようだ。  現在は体調は特に悪くないので、恐らく芳秀には一瞥されて終わるだろう。  結果は見えていても、ちびは征一郎と一緒にいられる時間が長い方が嬉しいので、喜んでついてきた。  屋敷には樋口親子も呼ばれていたので、顔を見ると嫌なことを思い出すだろうと、話をしている間別室で待っているように言われ、庭に出てきたのである。  樋口親子には、されたこと程度の嫌悪はあっても恐怖はないので、別段同席してもよかったが、征一郎が気になるというのならば話は別だ。 「(征一郎はいつも優しいな……)」    ひらひらと舞うモンシロチョウがどこにとまるのかをじっと観察しながら、あの日のことを思い出していた。  正直、樋口の部下に連れて行かれたビルで血を吐いた後の記憶は、他人のことのように薄ぼんやりとしている。  征一郎が助けに来てくれて、その後は……。  思い出すと、ちびはその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。  征一郎には、また迷惑をかけてしまった。  何かどうもたくさん強請ってしまったようなのだが、……よく覚えていない。  ごく断片的に、腰を掴む手の強さや熱さ、灼けつきそうな眼差し、腹を満たされる幸福感などは思い出せる。  自分ばかりいい思いをしたような。  ちびばかり満たされて、征一郎はどうだったのだろう。  愛玩用なのにろくなサービスもできず、いい加減愛想をつかされそうで不安だ。  たっぷり注いでもらった後、満ち足りて意識を失って、それからはずっと夢を見ていた。  最初に見たのは楽園だ。  世界中、四季折々の花々が一斉に咲き乱れ、果実は沢山の種類がたわわに実り、飢えることも苦しみも悲しみもない、神々の暮らす楽園の夢。  『自分達』はそこで神々の寵愛を受ける愛玩用の『人間』だった。  やがて神々は手に負えなくなった人間に愛想をつかすと、似せて作った愛玩品にも飽きて、『自分達』は廃棄された。  これがただの夢なのか、芳秀がちびを作る際に使用した本人曰くの『育成キット』を媒介して受け継がれた『ホムンクルス達』の記憶なのかはわからない。  ホムンクルスとはなんなのだろう。  次の夢は、この屋敷の縁側だ。  日差しが眩しすぎて、少し輪郭のぼやけた視界には、ワイシャツ姿の芳秀の背中がうつる。  すぐそばで口を開けて豪快に寝入っているのは、母親の鷹乃だ。  気持ちがよさそうに眠るその足は、胡坐をかいた芳秀の膝にどっかりと乗り上げている。 『どうした。流石にそれじゃ寝てらんねえか』  自分を振り返った芳秀が苦笑した。  その顔は、今よりも若いように思える。  目が覚めたのは、眠っている間に猫が二匹も体の上に乗っていたせいだ。  ちびは気が付いた。  これは、征一郎の記憶だ。  まだ母親が生きていた頃の、穏やかで優しい時間。  神々の楽園よりも、ずっと幸せな光景だと思った。  猫を撫でていたらまた眠くなってきて、再び目を閉じる。  やがて眠っていたことに気付いたちびは、瞼を開けた。 「ちび!」  征一郎の声が聞こえた。  頭を巡らせると、泣いてしまいそうな顔が目の前にある。 「…せ…ち…ろ……?」  名前を呼ぼうとした声は掠れていて、何故そうなったのか、眠る前のことを思い出そうとちびは記憶を辿った。  洗濯をしたかったような記憶があり、ベランダにでて……? 「あっ、ねこ!」  唐突に叫んだちびに征一郎は面食らい、破顔した。  傍らにあったスマホを操作して、写真を見せてくれる。  そこには、猫の親子が写っていた。  見覚えのある子猫が親猫にじゃれついている。 「……そうだ、おれ、外に出ていって……」  仲睦まじい姿を見てほっとすると、猫を発見した後のことを思い出した。

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