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第75話
芳秀と樋口親子が去り、征一郎が一人残っていた大広間へと、とんとんとん、と軽やかな足音が近づいてくる。
それが誰なのか容易に想像でき、そんなに急ぐようなこともないだろ、とくすぐったい気持ちで口元に笑みを刻んだ。
「征一郎!」
さっと開いた襖から元気に顔を出したのは、予想通りちびだ。
しかし、こちらを見た瞬間笑顔は固まり、そっ……と襖は元のように閉まった。
「……………ちび?」
『あの……お楽しみのところを邪魔してしまって……』
一枚隔てた向こうからの沈んだ声に、ここには自分一人だが、一体何がお楽しみなのかと首を傾げる。
その顔を肩によじ登ってきた黒猫のしっぽがかすめ、己を取り巻く猫たちに思い当たった。
この屋敷にいると、いつもどこからともなくやってきた猫達にたかられてしまう。
今も肩に一匹、左右に二匹ずつ、懐に一匹、膝の上に一匹……と、かなりの歓待を受けていた。
猫好きからすれば垂涎の待遇かもしれないが、征一郎の場合、深く考えると顔を見せない猫のことが気になってしまうので、常に心を無にしておかなくてはいけないのだ。
お楽しみというよりも、精神修行の一環のような時間である。
「お楽しみとかそういうんじゃねえから、いいから早くこっち来い」
促すと、そろそろとちびが入ってくる。
「ほら」
「え?」
距離が縮まったところで、膝の上の小さなぬくもりを慎重に持ち上げ、ちびに渡してやる。
思わず、といった様子で受け取ったちびは、手の中の毛玉を見て表情をぱっと明るくさせた。
「この子、この間の……!」
「元気そうだろ」
ちびを事務所に連れて行ったときに、置いていかれていた子猫だ。
先刻、ここで待ってろと言いおいて芳秀が出ていくと、それを見計らったかのように敷地内を根城にしている猫たちが現れた。
この子猫もそれらにまじってよちよちと寄ってきて、膝の上に登ると寝てしまったのだ。
そう簡単に譲渡先も見つからず、結局この屋敷にいることにはなりそうだが、ここにいれば餓えることや危険なこともない。
子猫は穏やかな気性なのか、突然移動させられた先のちびの膝でも改めて丸くなった。
「本当に元気そう。よかった……」
ほっとして子猫を撫でるちびの瞳は優しい。
この少年の生き物を慈しむ心は、征一郎の目にとても好ましく映る。
「親父には会ったか?」
「うん、元気だって。特に問題ないって」
そう言われることは予想していたが、いつものどうでもよさそうな診断の様子を思うと、本当かよと懐疑的な気持ちになってしまう。
「ちゃんと診てもらったのか?」
ちびはにこにこと頷く。
確かに、調子が悪そうな気配はない。
「征一郎、樋口さん達とのお話は……大丈夫だった?おれのせいで何か嫌なこと言われなかった?」
「今日の親父はどっちかっつーと樋口への嫌がらせがメインだったからな。俺は平気だ」
『いい歳してあんまり人様に迷惑かけるんじゃねえ』などと、生まれてこの方人様の迷惑になることしかしていない芳秀に説教された樋口親子は、憤死しそうなほど怒っている様子だった。
ちびを攫った許しがたい相手ではあるが、それをザマアミロと嘲笑う余裕はない。
何故なら、芳秀への怒りはそのまま征一郎の方に向かうからだ。
どうせ八つ当たりをされるならば、一発くらい殴ってやれば良かったかと思う。
それぐらいは許されたかもしれないが、憎々しげな視線の中には、怯えの色も混じっていた。
月華はどれほどあの二人に恐怖を植え付けたのか。
あの様子ならば、自分に対しても少しの間は大人しくしているだろう。
今回はそれで手打ちにしてやることにする。
「征一郎は、この後お仕事に行くの?」
子猫の頭を指で撫でながら、ちびは今後のことを聞いてきた。
「緊急の呼び出しでもなきゃ、特に至急の案件もねえし、お前に付き合うぜ。どこか出かけるか?」
「あの……それじゃあ、もう少しここにいていい?」
再会できた子猫と別れがたいのだろうか。もちろん拒否する理由もないので、構わないと頷く。
ちびの気が済むまで、ここで猫達と戯れることになった。
月に一度、幹部が並ぶ大広間は、ちびと二人でいるとかなり広く見える。
一枚のガラス戸の向こうには、手入れの行き届いた庭が一望でき、穏やかな時間に征一郎はかつて母がいた頃を思い出していた。
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