91 / 104
第86話
場内には、困惑のざわつきが広がっていた。
それも当然だろう。拳を放った征一郎は客席からは見えなかったのだから。
征一郎が逃げ込んだ(ように見えた)穴に近づいた化け物が、突然吹き飛ばされて動かなくなった。
観客にはそれだけしかわからなかったはずだ。
征一郎は化け物によって破られたであろう溶けた鉄条網をくぐり、リングへと戻る。
あの時。
予想通り、術式とやらは限定的な範囲にしか効果がないようで、リングから一歩でも出ると普段と同じ力が使えた。
吹き込んでくる凌真曰くの陽の気を、これほどまでに有り難く感じたのは初めてだ。
観客同様化け物も征一郎が逃げ出したと思ったのか、すぐに慌てて寄って来てくれたのにも助けられた。
限界まで引き付け、拳を叩きつける。
バチン、と人を殴る時とは違う音と共に、リングのコンクリを割り抉りながら、ぶよぶよの巨体は吹き飛んで行った。
その衝撃のせいか鉄条網の電流のせいか、異形の化け物は気を失っているようだ。
殺してはいない。征一郎の拳は、不殺の拳だ。
『勝者、征一郎!』
凌真のジャッジにも観客席は釈然としない雰囲気だが、歓声がなくとも特に気にはならなかった。
楽しめた部分もあるし、卑怯なことをしたわけでもない。
胸を張り、リングを後にする。
控え室には、既にちびを連れた凌真が征一郎を待ち構えていた。
「まあ、予想された結果とはいえ、俺としては知謀を駆使して闘うのが見たかったんだが」
肩を竦め、呆れ顔をされても、文句を言いたいのは征一郎の方だ。
「それは俺に求められてもな」
「征一郎、大丈夫?怪我してない?」
「ちび、……待て、今汚れてっから」
心配顔のちびが抱きついてこようとするのを押し止める。
付着したままの粘液が、征一郎には効かなくても、ちびに影響がないかどうかまではわからない。
「凌真さん、シャワーはあるだろうが、着替えとか……」
着てきたスーツは無残に溶け落ち、かなり犯罪的な格好になってしまっているので、着替えが欲しいと訴えようとしたとき、控え室の外で大きな音がして、はっとしてドアの方を見た。
すぐに足音が近付いてきて、慌ただしいノックにドアが揺れる。
凌真の許可を得て、スタッフらしき恐慌をきたした男が入ってくる。
「たっ、大変です!あいつが突然…っ!」
それを押し退けるようにして化け物が姿を現した。
戸口に現れた巨体は明らかにドアよりも大きいが、不定形なので問題にならない。
にゅるりと押し入り、部屋の半分以上を占拠してしまう。
「お前……もう一回やろうってのか」
あのリングでなければ、再戦などいくらでも受けて立つ。
だが、拳を握った征一郎を、意外な人物が制止した。
「征一郎、待って」
「おい、ちび、前に出るとあぶねえ……」
突然征一郎と化け物の間に割って入ったちびに焦る。
触手プレイ的な絵面になるのは避けたい。少し見たいとかは断じて思っていない。
だが、征一郎の心配に反して化け物に攻撃的な雰囲気はなく、するりとのびてきた触手がすりっと腕をかすめた。
その力は、猫が足にまとわりつくくらいの強さだ。
「…………………?」
拍子抜けしてぽかんとしていると、凌真がなるほどともっともらしく頷いた。
「なつかれたようだな」
「いや、おかしいだろその展開!」
殴り合って友情とか愛情的なものが芽生えたとでもいうのか。
確かに、母は殴った相手から軒並み惚れられていたが。兄貴的な意味で。
一歩を踏み出したちびがそっと化け物に触れる。
「太郎……一緒にいきたいの?」
お前も誘わなくていい。
というか太郎って。そいつの名前それでいいのか。
名付けてもらえて太郎?も喜んでいるように見える。
拳を交えたからか、悪夢の産物のようの化け物の気持ちがなんとなくわかってしまうのがつらい。
「(勘弁してくれ……クリーチャーをアニマル枠に入れると俺の涙腺が大変なことに……!)」
人は未知の存在をおいそれとは受け入れられない。
こいつの生きる場所を……自分は作ってやれるのだろうか。
「駄目だっ……近所の家畜が食われて疑惑そして異端審問からの逃亡生活の挙げ句にNASAや自衛隊と対決するバッドな未来予想図がー!」
脳内にちびと太郎を連れて人知れず山に逃げたりする悲しい想像が展開され、既に涙目だ。
思わずちびごと太郎をひしっと抱き締めてしまった。
ぬるっとしている。
やっぱりちょっと相容れねえなと、征一郎に少しだけ正気が戻った。
ともだちにシェアしよう!