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desire 1
「これで、何件目だ?」
都会の片隅。
色んな欲望が蠢く歓楽街の路地裏は、その欲望の掃き溜めとなってるかの如く、カスカスに欲望が抜け落ちたものがたくさん転がっている。
割れた酒瓶とか、中身を抜き取られた財布とか、魂が抜け落ちた死体とか。
その掃き溜めとしか言いようのない事件現場で、機動鑑識が証拠採取をしているのを遠巻きに見ながら、僕の隣でラテックスの手袋をかったるそうにはめた澤村が言った。
「5件目、かな………寿町の分まで入れたら」
僕は頭の中で、今まで起きた事件の被害者の遺体の状況を整理しながら答える。
鑑識作業が終わらないことには、僕ら刑事は現場に踏み入ることができないのだが、その掃き溜めはあらゆる物が散乱していて、鑑識作業を混沌の沼に陥れているように思った。
………時間、かかるんだろうなぁ。
「美波は平気?こういう感じのご遺体」
「んまぁ、僕はたいていの損壊遺体でも平気だから。吐いたこともないし」
「………おまえの感覚、どうなってんだよ」
向き不向きで言ったら、僕は意外と向いているのかもしれない、この警察官という仕事。
とりわけ、刑事という仕事が体にあっているのかもしれない。
特に警察官になりたかった、というわけではない。
なんとなく公務員がいいだろうと思って、採用試験を受けたら、受かったのが警察官で。
なんとなく続いて、「美波は刑事に向いてるな」って上司に言われて、あれよあれよという間に強行担当の刑事に引き抜かれて今に至る。
別に、交通の警察官でも、交番のお巡りさんでも、なんでもよかった。
ただ……怖いとか、気持ち悪いとか、嫌だとか。
そう言う感情が湧かない。
ついでに言えば、感情も常にフラットで大爆笑したとか、怒りに震えるといったこともない。
あの時にああ言った上司は、僕のそういう変わった所を見抜いていたのだろう。
似たり寄ったりの今回で5件目の遺体は、見るたびに違和感が半端ないくらい、いつもかなり変わってる。
被害者は、この歓楽街で働く成田祐希、22歳。
華奢で綺麗な顔をした、男娼。
ここら辺では名の知れた男娼だった成田は、聞き込みをせずともすぐに身元が割れた。
その綺麗な男娼は、素っ裸で縛られて、さらに腹部を何十ヶ所と刺されている。
毎回、そんな感じだ。
成田の前に発見された4体の遺体も全部そう。
体内の中のものもはみ出てしまうくらいの滅多刺しに、損壊遺体に慣れている鑑識でさえ、不調を訴える者も続出しているんだ。
………そして、何故か。
動かくなった成田は、その顔に笑みをたたえている。
これが、僕が感じる違和感。
滅多刺しにされてるのに、何故か恍惚とした微笑みを浮かべている。
………痛くなかったんだろうか。
今までの4体もそうだった。
検視の結果で薬物反応すらでなかったから、ラリってそうなったワケでもない。
嬉しそうに、殺されるのが………この上ないくらい、幸せそうに。
中央警察署8階会議室入口に〝特別捜査本部〟と仰々しく書かれたその先に、今回の一連の事件の捜査本部がしかれている。
なかなか解決しないこの連続殺人事件に、とうとう本部長が業を煮やしたらしい。
警察本部の捜査第一課の面々が、所轄の署員を威嚇しながら捜査のやり方の一つ一つに口を出していた。
………そんなこと言われたってさ。
難しいもんは難しいし、進まないもんは進まないんだよ。
「おい!駒高!!」
聞き込みを終えて、量販店の安くて軽いジャケットを椅子の背もたれにかけている僕に、半ば苛立った感じの野太い声が、会議室に響き渡る。
「はい、何でしょうか。松本補佐」
「聞き込みの結果を報告しろ」
………そうとう、ハッパをかけられてんだろうな、この人も。
本部捜査第一課強行犯係を直接統括する立場にある松本は、狂った玩具みたいに同じ言葉を連呼しながら、しょうもない情報一つ一つにしがみつく。
………余裕がない。
人の上に立ってる人じゃないみたいだ。
「はい。成田祐希は、やはりあの店に出入りしていたようですよ」
「………〝desire〟。またか」
1人目のリーマンも、2人目のホストも。
3人目、4人目の工場勤務の男たちも、みんな。
〝desire〟という、バーに入り浸っていた。
そこまではわかってる。
わかってるんだ。
犯人もきっとその中にいるはずなのに。
潜入捜査も、聞き込みもしたのに……ホシのシッポが掴めない。
本当に。
本部長のゲキが飛ぶほど、どん詰まりになっているんだ。
「駒高、おまえ学生のころバーテンのバイトしてたって言ってたよな」
「はい」
………ヤバいな、くるぞ………イヤな予感がする。
「潜入、してくれないか?」
ほら、きた。
「この間、やっぱりバーテン経験者の小林係長が入ってたじゃないですか?また入るとかえって、怪しまれますよ」
「小林は面接でオチてんだよ」
「…………」
「実際は潜入してない」
「………オチたって、バイトに?」
「………ああ」
普通、オチるか?
経験者なら尚更、ああいうとこは即採用なはずなのに。
絶句していると、松本がひきつった笑いを浮かべて、僕の肩に手をかけて言ったんだ。
「このヤマが片づいたら、一課に呼んでやる。だから、やってくれないか?駒高」
別にその言葉に、グラっときたわけじゃない。
本部捜査第一課とか別に興味もないし、どこに行ってもウチの組織の根本は変わらないし。
下が死ぬほど動いて、上が手柄を横取りする。
だけど………。
上からのプレッシャーと下からの文句に辟易していた松本が、かわいそうに思えてしまって。
あろうことか。
僕は今、〝desire〟のスタッフルームにいる。
目の前にはdesireの店長が、僕のスカスカの履歴書を見ながらコーヒーを飲んでいた。
………まぁ、この人なら。
小林をオとすかもな。
上野と名乗ったこの店長、線は細いがかなりの美形だ。
この人と、ガタイが良くてスポーツ刈りの小林じゃ釣り合わない。
オシャレな店の雰囲気がガタガタになる。
「ずいぶん履歴がスカスカだけど、なんで?」
「転々としすぎて、書ききれなくて………なんなら全部書きましょうか?」
「いや、いい…………偏見とか、ある?」
「偏見、ですか?」
「うちはだいたい男同士の出会いの場的なトコなんだけど、その辺は大丈夫?」
「はい。履歴にもありますように、昔、ゲイバーのボーイをしていたので」
「ふーん」と、上野は小さく呟いて手に持っていた履歴書をテーブルに置いた。
………オチたかな。
まぁ、オチても………別に支障はない。
また、会議室に戻って捜査員として働くだけだから。
「採用。今日からでも入って」
「………え?」
あまりにも予想外の上野の言葉に、僕は変なトーンの声を出してしまった。
「だから、採用だよ。イヤだった?」
「あ、いいえ。僕があまりにも怪しすぎるから、不採用かと思って」
上野は、目を細めて笑う。
「スラっとしてるし、キレイな顔してるし。力が抜けてて、人当たりもいい。採用しないわけいかないよ。それに……」
「それに?」
「場なれしてそうだしね。色んなことに」
ドキッと、した。
この人は、どこまで見透かしてるんだ、って。
僕が言葉を失ってると、笑顔を絶やさず上野は続けて言った。
「ちょっと前に、バーテンしたいって人が来たんだけどさ。あまりにも真面目っていうか、堅物そうだったから断ったんだよ。なんであんなタイプのヤツが、こんなとこに職を求めるんだろう、って。怪しすぎるじゃん?まるで権力者の犬が潜入してきてるみたいだったからね」
「美波くん、ジンライムとキールね」
「かしこまりました」
シェイカーに氷とお酒をいれてを振ると、手に伝わる冷たい感覚が心地いい。
久しぶり、だ。
バイトをしていた頃は、とりあえず量をこなさなきゃならなかったから、機械的に作ってた気がするけど。
団体客とか、まず来ないこの店は、カウンター越しに客と話をしながらカクテルを作れる点では、結構楽しかったりする。
まぁ、楽しくても本業が入っているからなぁ。
そこそこ、自由に制限はかかる……。
心底、楽しめないってヤツ?
でも、あれはちょっとヤバかったな。
「バイトに受かりました。今日からお店に入ります」って、松本に報告した時の、子どもがクリスマスプレゼントをもらった時のようなあの顔をたまに思い出しては、笑いを堪えてほっぺたがムニムニ動いてしまう以外は、僕は至ってシンプルに潜入していたんだ。
「美波、サマになってんじゃん」
「ありがとう、澤村。で、何か飲む?」
「じゃあ、ハイボールで」
「あんまり飲みすぎるなよ?」
「なんで?」
こんな所で警戒心ゼロな表情と声音をしている澤村に、僕は顔を近づけて言った。
「お持ち帰りされるぞ?澤村。おまえ、結構モテそうだし」
一瞬、ギョッとした顔をして澤村は辺りをキョロキョロ見渡すと、目の前に出されたハイボールを一気飲みすることなく、チビチビと口に含む。
金曜日の夜は、比較的客足が伸びる。
週休2日のリーマンや、その出会いを求めてくる学生が多いからかもしれない。
僕がカウンターに立って2週間が過ぎて。
最後の男娼の成田が殺されてから、ぱったり事件が起こらなくなった。
だいたい1週間おきに、事件は起こっていたのに………。
僕の潜入捜査がバレてしまったんじゃないか、と不安になるけど………。
まぁ、起きないことに越した事はないし。
しばらくは平穏な、この楽しいバイトを楽しみたい、ってのもあるし。
不意に、松本の強面から溢れた純粋な笑顔を思い出して、僕はニヤケながら客から乾杯をせがまれて、渋々ついだ生ビールに口をつけた。
「疲れた?美波」
同じく客から乾杯をせがまれてついだ生ビールを片手に、カウンターに並んだ上野が柔らかな口調で言った。
「いえ、楽しいです」
「やっぱり、採用してよかった」
「?……どうしてですか?」
「気が利くし、キレイだし。うちには勿体ないくらいだな」
「マスターに、そんなこと言われるなんて思いませんでしたよ」
「おかしい?」
「恥ずかしい……ですね。キレイでデキル人にそんなこと言われるなんて」
上野は「うまいこと言うね」と、照れたように笑うと、気が抜けたビールを口に運ぶ。
「美波くんは、ネコなのタチなの?」
さっきまで店内で今日の相手を物色していたほろ酔いの客が、僕とマスターの間に割って入ると、続け様に自論を展開する。
「背も高いしリードしてくれそうだから、見れクレはタチっぽいんだけど。笑った顔は可愛いし、意外と華奢だからネコっぽいし。本当はどっちなの?美波くんは」
「どうでしょう?ご想像にお任せます」
ほろ酔いの客は、「はぐらかされちゃったなぁ」と照れ臭そうに笑うと、またワイングラスを片手に店内をフラフラ歩き出した。
「美波狙いだったね。あの人」
「まさか。僕なんか、全くモテないですよ?」
「そんなことないよ?」
視線を交わしていた上野の顔が、ふと真顔になる。
………いや、まさか、、な。
上野に惹かれないと言えば、嘘になる。
他を圧倒するキレイな容姿に、澄み切った瞳。
こんな人、今まで生きてきて初めて会った。
店内にいる客のほとんどが、上野目当てで来てると言っても過言ではないくらい………魅惑的だ。
「さっきから、誉めちぎってますけど……誘ってますか?僕のこと」
「だと、したら?」
「………光栄……です」
僕は極力、笑顔を作って続けた。
「マスターにそんなこと言われたら。僕、調子ににのってしまうかもしれませんね」
上野がにっこり笑って。
その顔を、僕によせた……。
想像以上に柔らかな唇が僕のに触れて……重なる。
その柔らかな先からあたたかな舌先が、そっと、割り入って………。
僕のに、絡まる。
「ちょっとマスター!!美波くんに手ェ出しちゃダメじゃないっ!!」
客の、悲鳴とも絶叫ともつかない声が、耳をつん裂くように響いて、僕は慌てて身を引いた。
それは、マスターも同じで。
バツが悪そうにその客にむかって、苦笑いをする。
………たぶん。
人がいなければ、上野の誘いにのっていたかも。
仕事すら、潜入捜査すら忘れて………。
あやうく、僕は、上野に溺れるところだった。
「昨日のアレ………ビックリ、したぜぇ……マジで」
久しぶりに署に立ち寄って、懐かしい僕の席に腰を下ろした途端、開口一番、澤村が僕に言った。
そういえば。
カウンターの隅に座っていた澤村が、僕と上野のキスで口に含んだハイボールを盛大に吹いていた。
「ノリだよ、ノリ。まさか、あそこまでするとは思わなかったけどな」
「………美波さぁ。おまえ表情が変わんねぇから、分かんねぇよ」
「で、ハイボールを盛大に吹き上げていたおまえは、何か収穫あったのか?」
澤村は僕の言葉を頭に入れまいと、耳を塞ぐように頭を抱えて「美波があんなことするからさぁ」と小さく僕のせいにするように呟く。
「店内に変な行動をするヤツなんか、いなかったからなぁ」
「なんだよ、ちゃんと見てんじゃねぇか。どっちかっちゅーと、おまえとマスターの方が怪しかったよ」
「あはは。やっぱり?」
「やっぱり、っておまえなぁ」
この間のかわいい子どもみたいな笑顔とは打って変わって、眉間にシワをよせて一気に老け込んだように見える松本に報告をすますと、バイト用のスマホがブルっと震えた。
………上野から、だ。
「はい、もしもし?」
『……美波くん?おはよう』
「おはようございます、マスター」
『………その、昨夜はゴメン。いきなりキスなんかして』
不安定な………。
いつものクールな上野とは違う、いじらしい……恋をしているような、そんな声。
………ヤバいな、グラつく。
「いえ、気にしないでください。マスター」
『そう言ってもらえると助かるよ。せっかく、スーパーバイトが入ったって言うのに、すぐ辞められたら………明らかに、俺のせいだし』
「……そんなに気にしてたんですか?意外ですね。いつもは………クールなのに」
『いじめるなよ、美波くん。………それでさ、あの……お詫びっつーか、その……。今からメシでも食いに行かないか?奢るからさ』
………いつもの自信満々で、飄々とした上野からは想像もつかない………。
その、中学生が好きな子をデートに誘うみたいな口ぶりに、僕は思わず顔がニヤけてしまった。
「いいですよ。どこに行きますか?」
『本当に?よかったぁ………じゃ、美味しい定食屋に行こうか。呉服町駅の南側改札で待ち合わせしていい?』
「大丈夫です。じゃ、僕今から用事を済ませてから行きますので」
『うん。また、あとでね。美波くん』
少しずつ、上野のとの距離を縮めて………。
事件についてさりげなく知ってることを聞く予定だったんだけどな。
………渡りに船、か?これ。
まぁ、いい。
捜査も大事だけど。
仕事上でも………。
プライベートでも………。
僕は、上野のことが知りたかったんだ。
「じゃあ、また。報告に伺います」
僕はそう言って踵を返すと、量販店の安物のジャケットを羽織って、足早に中央署の会議室を後にした。
「ぅあ……っ、ん……マ…マス……ター」
「……美波………雫って、呼んで……」
なんか、もう……。
なんで、こんなことになったんだか………。
潜入捜査にかこつけて、仕事上の上野もプライベートの上野も知りたかった、そう思っていたのは僕の方だ。
待ち合わせをして、上野の優しげな笑顔を見て少しドキッして。
定食屋でガッツリとエビフライ定食を食べて。
………つい、流れで。
上野の部屋に、ながれこんだ。
いつもクールな上野が、こんな顔するとは思わなかった。
………ひょっとしたら。
僕にキスをした時から、顔を作れなくなってるのかもしれない。
待ち合わせに現れた僕に向けられた、子どもみたいな満面の笑みとか。
キレイな顔で、大きなエビフライを頬張ってガッツクとか。
そして、今。
壊れものを触るような切ない顔をして、それに相反するようなエロい視線で僕を見る。
着痩せでもするのか、服の上からは分からなかった、筋肉質で鍛えられた上野の体が、僕の体に寄せてくる。
………伝わる、熱と鼓動。
誘われるがままに。
僕の体はすでに上野に支配されているかのように、上野をすんなりと受け入れてしまった。
上野が、僕の胸を焦ったく舐める。
上野が、僕の内側に指を入れて、その本数を増やしながら………。
感じるところを、弾く。
………ヤバ……。
もちろん、麻薬なんてやったことないけど。
したとしたら、今置かれてる現状に近い高揚感と充足感に満たされてるんじゃないだろうか。
ラリってんのかな、僕。
「いいカラダしてる………美波くん」
「……っ……ソコ……無…理」
「………初めて?」
「……っあ……マス……ター」
「違う、でしょ?」
「………し……ず、く」
上野が少し驚いたように目を見開いてにっこり笑うと、僕の一番ビクつくとこに指を立てて「よくできました」と、囁いた。
「挿入るよ?」
「………っ!!ぁあっ!!」
焦ったく、ゆっくり。
中を満たすように、ワザと感じさせながら擦るように。
奥まで突かれて……たまらず、上野に回した背中に爪をたてる。
………ヤバい、な。
たかだか潜入捜査のハズで。
そもそも僕は警察官で、連続殺人犯を捕まえるのが仕事なハズで。
上野と知り合って、上野に惹かれて、魅了されて。
感情が昂るのをごまかしていたのに、キスをされたら感情が抑えられなくなった。
いつもは、感情の浮き沈みもない………心など動かされることもないのに。
上野に触りたい。
上野に見つめてもらいたい………。
どうしたんだ。
まるで、そう。
本当に……店の名前のとおり、〝desireー欲望〟に塗れてしまったんだろうな、僕は。
「美波、大丈夫?」
「大丈夫。腰が、たたないけど」
僕の応えに、上野は小さく笑った。
初めて、だ。
こんなに乱れたのも、こんなにのめり込んだのも。
今はまでは、こんなことなかったんだ。
〝好き〟って気持ちも希薄で。
〝嫌い〟って気持ちも湧き上がらない。
なんとなく告白されて付き合っても、なんとなくマンネリとしてしまうのは当たり前で。
いつも女の子とヤってても、淡々としちゃって女の子に「アンドロイドかよ」とか「なめてんの?」とか言われて、さ。
僕はコッチ側があってたんだろうな、きっと。
「今日は、休む?」
「どうして?行けるよ?大丈夫」
「美波、強がってるの?」
「いや?普通だけど?」
僕の頭に指を絡めて梳くようになでると、上野は楽しそうに歯を見せて笑う。
「本当に?」
「なめてる?僕のこと」
「えー、?何?」
「僕、意外とタフなんですよ?」
………仕事も、本来の僕のことも忘れて。
煩わしさも、松本の凹んだ顔も、事務処理や後処理に追われる仕事も、そっちの方が夢みたいで。
僕は本気で、この上野との時間を手放しなくないと。
本気で、上野と関わって行きたいと思ったんだ。
…………自分を偽ってでも、上野が欲しくなった。
「お風呂と着替え準備してくるから、ちょっとゆっくりしててくれる?」
「うん、ありがとう。マ……雫さん」
のそのそ動いて、ベッドの上を這うように移動して床に降りた。
まだ、上野………雫の熱や感覚が、体の内側に残ってる。
タフと豪語しておきながら、熱を宿した体な上に、酷使したくにゃくにゃな腰を庇って移動するなんて、情けない。
ふと、ローテーブルの下がやたら気になった。
酒と焼酎の銘柄が載った雑誌に紛れて、写真が数枚無造作に置かれていたから。
今時、写真なんてスマホに保存する時世に、わざわざプリントまでするだろうか。
だから、感じた最初の違和感。
そして………写真を手に取らなくても、分かった。
その写真には連続殺人事件の5番目の被害者、無邪気に笑った成田祐希が、雫と一緒にその写真におさまっていた。
………それだけじゃない。
1人目のリーマンも、2人目のホストも。
3人目、4人目の工場勤務の男たちも。
みんな、無残な遺体となって発見されるなんて、これっぽっちも想像していないくらい、満面の笑み………。
楽しそうな笑みを、浮かべている。
………なんで、?
感情が、表にでてこない。
さっきまで、雫のことを考えただけで、クスリをヤッてんじゃないかってくらい、あんなに気持ちが昂って幸せだったのに。
写真を目の前にした今、以前の僕みたいに感情が一切なくなってしまった。
フラットな自分に戻ってしまったんだ。
しばらく、遠目からその写真を眺めて。
関係がなかった、とは言い難い。
desireに来た客と撮っただけかもしれない、それとも………。
限りなく、クロに近い人物………。
単純に〝好き〟と言う感情で、仲間を裏切った形で雫のそばにいるだけじゃなくなってしまったけど。
そうじゃなくとも、仕事上にも、表向きにも。
堂々と雫のそばにいられる口実ができたんだ。
本来の姿の美波にも。
雫を好きな美波にも。
美波を介して繋がる人たちにも。
それぞれの嘘と真実が、交差するんだ。
僕は不安定な腰を気力で持ち上げて、風呂場にいる雫に近づいて、あまり身長が変わらないその体に、後ろから腕を回した。
「どうしたの?美波」
「………いや、こうしたくて」
「そろそろ、準備しないと」
「わかってる」
「店が終わったら………来る?」
「いい?」
雫は僕の腕の中で体を反転させると、優しく笑いながら唇を重ねる。
「美波、好きだよ」
「僕も、好きだ……雫」
『………と、いうことだから。desireのマスターの行確(※行動確認)を兼ねて、しばらく署には顔を出さないから。松本補佐に伝えておいてくれる?お願いね、澤村』
プライベート用のスマホでメッセージを澤村に送信する。
こればっかりは、このスマホだけは雫にバレちゃマズい。
僕はそんなに器用な方じゃないけど、要領はいいから。
…………上手く、立ち回らなきゃ。
『頑張れよ!美波!あんまりソコに行くと怪しまれるから、また今度行くよ』
澤村からメッセージを受信すると、僕は電源を切って鞄の奥底にそのスマホをねじ込んだ。
「あれ?新人さん?」
カウンター下で生ビールを補充していると、いきなり頭上から声がして、僕はカウンターの上に顔を上げた。
40代くらいの、身なりがきちんとしたリーマンみたいな人が、僕を覗き込んでいる。
手には一眼レフのデジタルカメラ。
………記者か?
でも、こんなとこで取材って………。
タウン情報誌の人か、ブン屋(※新聞記者)か。
僕は一瞬、身構える。
「はい。初めまして。2週間前くらいから雇ってもらってます」
「名前は?」
「美波です」
「オレ、中山。この店の馴染みでさ」
「その、カメラ。記者さんとかですか?」
中山と名乗った男は苦笑いをして頭を掻いた。
「いや、違うよ。趣味なの、趣味。オレ、ここの店長さん好きでさぁ。よく被写体になってもらってんの。コンテストにも出してるんだよ?」
………なんだ、雫の軽めのストーカーか。
にしても、こんなとこでそんなデジタル一眼なんか持ってたら、ブン屋じゃなきゃ絶対に怪しい奴だよな。
「美波くん、だっけ?綺麗だなぁ。店長さんと比べても劣らないよ?」
「そうですか?ありがとうございます」
「………写真、撮っちゃダメ?」
「いえ、写真は苦手で………」
「えー!?勿体ない!!店長とだったらいい?」
「それも………恥ずかしいので」
自称カメラマンの、僕から言わせればカメラ小僧の中山は、つまらなさそうに水割りを口に含むと、店内に視線を向けて〝獲物〟を物色し始める。
………あぁ、雫の家にあったあの写真。
こいつが、撮ったんだな。
その瞬間、胸につかえていた何かが小さくなった気がした。
雫では、ないかもしれない。
犯人は、雫ではないかもしれないから。
中山に勝手に〝カメラ小僧〟という、なんともカッコ悪いあだ名を付けた僕は、カクテルやハイボールを作りながら、店内の中山の動きを注視していた。
………趣味がハッキリしてんな、カメラ小僧は。
観察していると、雫に感じが似ているキレイな顔をした客によく声をかけている。
まぁ………十中八九、ナンパした相手に素っ気ない態度をとられて、終わり………みたいな。
そりゃそうだろ。
こんなとこ、堂々と「オレ、ゲイでーす!」なんて言ってる奴は来ない。
ひっそり、仮面を被った日常から逃げるように隠れるように、こういう出会いの場に来るはずだ。
写真なんか………。
撮られたいと思う奴なんて、いないだろ?
………と、すると。
雫の部屋にあったあの写真。
堂々と被写体として写真におさまっていた被害者は皆、カミングアウトをしていたんだろうか。
少なくとも、直近の事件の被害者の成田は、男娼だからそれは誰もが知るところだし……。
ホストは少なからずそうだとしても、リーマンや工場勤務の人たちは、聴き込みをしてもそんな話さえでなかった。
………中山で、繋がってる……?
………でも皆、タイプがバラバラだ。
成田は中山の趣味に近いが、他はてんでバラバラ。
事件の糸口が見つかったと思ったにも関わらず、逆に混乱してきて、頭を整理するために軽く目を閉じた。
「……波………美波」
「あ、はい!」
雫の透き通った声に、僕は思わず身を震わせる。
「大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事してて」
「どんな?」
いたわるように僕の背中に腕をまわした雫は、優しく僕に微笑んだ。
「聞きたい?」
「うん、聞きたい」
「カシスオレンジを、ミルクで割ったらどうなるかなぁ、って」
「何それ。でも、おいしそうだね。〝ジョア〟みたいな味がするんじゃない?」
「あと………」
「あと、何?」
「今日、一旦家に帰ってから………雫ん家、行っていい?」
雫がほんの一瞬、目を見開く。
そして、ふわっと笑うと僕の耳に口を近づけて「いいよ」って………脳裏に焼き付いて離れないような、いい声で言った。
空も白みだしたdesireからの帰り道。
「澤村。今、大丈夫か?」
カバンの底から引っ張り出したプライベート用の携帯を耳に付けて、僕は澤村に電話をかけた。
『……ああ、………大丈夫だ……』
………ガサガサ、と。
電波の悪いところにいるのか、澤村の声が、聞きづらい。
「あの店に一眼レフもった中山っていう怪しい奴がきたんだけど、おまえ知ってる?」
『あ………あ、ぁ…………わ、かるよ。聴き込みで………たから』
「そいつ、一連の害者の写真を撮ってたんだ。あとで写真を送っとくから、行確してくんないかな」
『わ……った。………美波』
「よろしくな、澤村」
『あぁ………りょ…かい』
「澤村。おまえ今、どこにいるんだよ」
『あ………聴き込み………』
聞かざるを得なかった。
なんとも不自然感が否めない澤村の置かれている状況を、聞きたかったんだ。
これといった確証もないし、本当に直感で。
普段ならこんな直感なんて、古い上司が「刑事のカンをたよりに、靴底をへらして」っていうのが、常々馬鹿らしく思えて口にすら出さないんだ、僕は。
………胸が、ザワつく。
「本当に大丈夫か?」
『電波………りィな、こ………美波は……っち、頑張れよ』
「………あぁ、わかった。じゃあな澤村」
澤村の口調からして、切羽詰まった感じではなかった。
危険に晒されてる、とか言う感じでもなくて。
いつもの口調、いつもの言い回し。
でも………なんという、か。
………うまい表現が見当たらない。
澤村は僕より器用だし、この僕がキライな〝刑事のカン〟的なものが思い過ごしであればいい。
そう自分に言い聞かせて、僕は再びプライベート用の携帯をカバンの底に突っ込むと、踏み込むスピードを上げて家に向かったんだ。
『美波!ヤツがでた!!』
雫の部屋に行って、盛った猫みたいにいちゃついて、太陽が高くのぼりきった頃。
それまで、雫と過ごした時間を思い返して、幸せな気分でシャワーを浴びてソファーに腰を下ろした瞬間だった。
澤村からの電話で、暖かな甘ったるい幸せな気分は一瞬で吹き飛んで、一気に体温が下がる。
とりあえずその辺にあった服を着て、僕はなりふり構わず走りだした。
繁華街の、雑居ビルの屋上。
昼間は色が抜け落ちてパッとない看板に囲まれた、あまり人も立ち入らないような場所に、犯人が残したいつもの光景がそこにあった。
全裸で、縛られて………全身数十か所の刺し傷があるのに………笑ってる。
そして……。
「中山……!!」
いつもと違うのは、そこに横たわっているのは全くの見ず知らずの人ではなく、昨夜、疑念を持った人であるということで………。
………手が、震える。
怖いとか、悲しいとか、気持ち悪いとか。
そんな感情で震えてるんじゃなくて、昨日まで動いて、話をしていた人のなりの果ての姿に、違和感を感じて………震えてるんだ。
必然的に、中山は犯人じゃなかったことになる。
いや………自殺………ない、絶対にない。
「今朝、おまえから連絡もらってさ。俺、コイツの足取りを追ってたら………せっかく情報をもらってたのに、このザマだ」
澤村が少し悔しそうな顔で、呟いた。
「悪かった、澤村」
「おまえのせいじゃないよ」
「店で……色んなヤツに声をかけてたんだ、中山は。皆に相手されてなくて、閉店間際に一人でフラフラ帰っていったのまでは………誰もいなかった。店の客は皆、常連で顔馴染みばっかりだったから………防げなかった」
「美波……こればっかりは、おまえのせいじゃないよ。犯人を特定できない、俺たち皆の………刑事の責任だ」
いつもは結構な損壊死体を見ても、なんとも思わないのに………。
今は、手が震えてる。
じっと立っていることが我慢ならなくて、僕は両膝に手をついて中腰の姿勢をとっていた。
雫と夢のような幸せな時間を過ごして、頭が麻痺してしまったのかもしれない。
僕の日常はこっち側だったのに、いつの間にか、あっち側にギアが変わって………。
不安定になってるんだ、僕は。
「でも、もうこれっきりにしようぜ。美波」
「…………」
「捕まえんだよ、犯人を」
「………あぁ、わかった。僕は……僕のやり方で」
「俺は、俺のやり方………で」
心に拠り所や、好きでたまらない人ができたら、人は強くなるって言うけど、僕は違うのかもしれない。
………好きな人を突然失う怖さとか、心の支えを無くす危うさとか。
僕はかえって、弱くなる。
一人の方が、いいんだ。
失うものも、何もない。
僕は強かったのに………。
雫を好きになってしまったから。
雫に惹かれて、雫を自分のものにした瞬間、僕は………。
全てが、怖い。
「あの人………中山さん、驚いちゃった」
中山の一件は夕方の報道で世間一般にも知れ渡るところとなり、開店準備をしている最中に、雫が僕に体を寄せながら、戸惑った顔で言った。
「…………うん、そうだね。………僕さ、中山さんが苦手だったから………写真撮ろうとするし、押しは強いし………」
「へぇ、美波にも苦手な人っているんだ」
「いるよ?雫こそ、そんな人いなそうに見えるけど?」
「いる、一人だけ」
少し困った顔をして、雫は僕のシャツの袖をつまむ。
「えー、誰?気になるじゃん」
「うん………あの、この間………カウンターの端っこに座っていた、人。美波と、親しげに喋ってたあの人」
…………澤村?
「美波と、仲良さそうなのがまず苦手」
「なんだよ、それ」
「あと……ね」
「何?」
「結構前から、来てるんだけどさ、あの人。………なんか、見られてる気がするんだよ。あの人にずっと」
「一年半、くらい前からかな………。あの人が来だしたの。毎日じゃないから、あんまり気にも止めてなかったんだ。誰に声をかけるわけでもなく、1人でカウンターの端っこに座って飲んで………。でも、たまに視線を感じる………目は決して合わないのに、視線を感じるんだ」
………なんか、引っかかる。
雫が昨夜言っていたあの言葉が、頭の中を駆け巡って離れない。
一年半くらい前といったら、まだあのサイコパスは現れてないのに……。
情報収集のために、単独であの周辺をうろついていたんだろうか、澤村は。
本部の一課に行きたがってたもんな、アイツ。
誰よりも早くホシを見つけて、引っ張って貰いたいに違いない。
でも、結構ハッキリ言う雫が、澤村に対して何も言わないのも………どうも、スッキリしない。
スッキリしない、まま。
潜入先の店が休みの日である今日、僕は一週間ぶりに捜査本部に顔を出した。
松本の眉間のシワがより深く刻まれて、若干、やつれているような感じがする。
「おつかれさまです、松本補佐」
「あぁ、駒高。おつかれ」
「中山の足取り、わかりましたか?」
「いや………。あの店を出たというとこまでは真向かいのビル防犯カメラでも確認できてんだけどなぁ。それ以降、どこのカメラにも写ってないんだ。直後に店から出た客もいないし………あれだな、神隠しとしかいいようがないな。………いっそのこと、神様が犯人だったらいいんだけどな」
こんなこと、百戦錬磨の一課の松本が言うなんて………。
よっぽど、切羽詰まってんだろうな……。
「僕ももう少し、その〝神様〟の正体を探ってみてもいいでしょうか?」
「あぁ、頼む」
僕は自席に戻ると、量販店の安物のジャケットを椅子の背もたれにかけて、机の上に溜まりにたまった資料に目を通しはじめた。
資料を読んでも、結果は一緒だ。
パズルのピースは、てんでバラバラで。
どれもピッタリ当てはまるものが、1つとして無い。
でも、何か………何か………。
「お、美波!おつかれ!」
「あ、澤村。おつかれ」
連日の聞き込みをした後でも、澤村のその表情はいつも明るい。
………そうだ。
僕はこういう澤村しか知らない。
雫が言う澤村と180度違うから、なんか引っかかってたんだ。
「どうした?久しぶりの刑事で、カンが取り戻せないか?」
「いや……。なんでかなぁ、って」
「何が?」
「店の前のビルの防犯カメラには写ってるのに、その後の足取りが掴めないって。途中のビルとかに入ったのかなぁ、中山は」
「さぁな。でもあの辺は他に入るところないだろ?」
「うん………真向かいのビル以外はね………」
自分で言ってて、ビックリした。
なんで今まで気付かなかったんだろう。
向いのビルが1番の死角だ。
いつになく真剣な表情の澤村が僕に顔を近づけて、静かに口を開いた。
「………それ、上に報告したか?」
「いや………今、閃いただけだから………」
「なぁ、美波。それ、俺に貰えないかな」
「え?」
「俺、どうしても一課に行きたいんだ………。美波も分かってるだろ?」
「………澤村」
「これしかチャンスがないんだ。………な、美波」
僕は澤村ほど、一課に行きたいと思っているわけではない。
澤村には世話になってるし………。
一課に行かせてあげたいと、思ったんだ。
「分かったよ、澤村。でも、無理するなよ?なんかあったらすぐ僕を呼べ。あの店にいるから。いいな?」
「分かってるよ!!明日、店だろ?久しぶりに行くから!!」
「澤村………」
「何?」
「いや………なんでもない、明日………待ってるから」
やっと、手がかりが掴めた。
掴めたのに………。
嬉しいはずなのに………。
終わってしまうと、もう………雫の側にいられなくなる。
雫に………本当のコトを言わなければならない………んだ。
向いのビルは大概年季の入った古い雑居ビルで。
一階は、アダルトグッズを取り扱う店舗になってるけど、複数の闇金みたいな看板が掲げられている割には、その2階から最上階までは真っ暗で皆目見当がつかない。
中からブラックフィルムでも貼ってあるのか、店の窓からその様子を伺っても、人影すら見えないから………。
まぁ、怪しさ満点だよな。
「どうした?美波」
「いや、向いのビル。真っ暗だな、って」
「こんなトコじゃ、当たり前じゃない?それよりさ、店終わったら………家来る?」
「うん、いく」
「………美波?何、考えてる?」
「うん………カウンターの端に座ってるその人と、何かあった?」
「どうして?」
「イヤならイヤってハッキリ言うのに、一年以上も雫が放置していたって思って………。あの人、かっこいいし。雫の………タイプかな、って」
「何言ってるの?俺のタイプは美波だけど?」
開店前の店内で、僕と雫は軽くキスをかわした。
多分、向いのビルから丸見えなんだろう……。
犯人はそのどこからか、形を潜めて獲物を物色しているんだ。
その日、久しぶりに澤村が店に来て、相変わらずカウンターの端っこでハイボールをあおる。
特に雫に絡んでくる客もいなかったし、無事に閉店してシャッターを閉めたところだった。
「あの、すみません」
近からず遠からず、僕を呼ぶ声に思わず振り向いた。
………向いの雑居ビルの4階の窓が開いて、そこから若い男性が僕を見下ろしている。
………ゾワッ、と。
全身の身の毛がよだつ。
「僕、ですか?」
「はい」
「仕事してたら、閉じ込められちゃったみたいで………。オレ、今から飛び降りるんで、布団かなんか準備してもらえませんか?」
「は?!飛び降りるって!?………危ないから、そこにいてください!!今行きますから!!」
「でも、閉じ込められちゃってて………」
「大丈夫ですから!!待っててください!!絶対に飛び降りないでくださいよ?!」
4階から非常にあり得ないことを口にしていた男性に念を押すように叫ぶと、僕は雑居ビルの狭い階段を2つ飛ばしで駆け上がった。
アルコールを少し体の中に入れたせいか、いつもよりかけ上がる足に勢いがつかない。
情けなくも、息まで上がってようやく4階にたどり着いた。
「どこですか?!ドアを叩いてください!!」
古臭いステンレス製のドアを1つ1つ叩きながら、僕は男性に呼びかける。
『ここです!ここですよ!!』
ドア越しのこもった声とともに、一番奥のドアがガタガタ揺れた。
「ドアから離れてください!!」
強行犯係にいながら、あんまりこういった強行突破の経験は、機動隊訓練以外ほとんどないけど、僕は狭い廊下いっぱいにさがって、勢いよくドアに体当たりをした。
ガタガタッ。
ドアの以外な脆さと自分の力加減に驚きつつ、あと数回体当たりすればドアが開きそうだという算段がついて、僕はもう一度、ドアに体当たりすべく勢いをつけて体を弾かせた。
ガチャ。
急に視界が、銀色のドアの色から暗闇に変わる。
かなりの勢いがついていた僕の体は止まる場所を失って、そのまま室内に転がり込んだ。
「いらっしゃい。ハンサムなバーテンダーさん」
………ヤバい……!!
罠だったんだ………!!
よく考えたらおかしなことだらけだ。
僕が店を出たタイミングで声をかけて、飛び降りるって切羽詰まった感じでワザと助けを求めて。
………こいつは、犯人かもしれないっ!!
床に体を強烈に打ち付けて、犯人とおぼしき男性を見ようと体を反転させようとした瞬間、背中に激痛が走った。
「っ!!」
硬い何に殴られたような………。
途端に体に力が入らなくなって、うまく立ち上がれない。
………マズい…………。
制圧、しなきゃ……はやく。
「美波っ!!」
………澤村…?
うまくコントロールできない体をなんとか動かして、ドアの方にようやく目を向けると、澤村が男性と格闘しているのが見えた。
「………澤…村っ!」
「美波!!大丈夫か?!あっ!!待てっ!」
澤村と揉み合っていた男性が、僕に注意を向けた澤村の隙をついて逃げ出して、澤村がそれを追う。
………澤村の怒号と、階段を駆け上がる音。
行かなきゃ………。
澤村に、無理させちゃいけない。
僕は無理矢理、体を引き起こすとヨタヨタしながら、階段を昇った。
屋上……?
なんで、屋上に逃げたんだ?
手すりにつかまりながら、屋上の出入り口のドアに手をかけた。
下から見る、繁華街から見上げる空がとても近くに感じるくらいに、まるで宇宙に投げ出された感覚に陥る。
犯人に対峙していたなんて思えないくらい、澄み切って、吸い込まれそうで。
その空間に圧倒されて、視界の隅に映る澤村と男性の姿が霞んで見えてしまった。
それでも次の瞬間、僕は声が出なくなるくらい男性のその表情に釘付けになったんだ。
今にも、泣き出しそうな………。
怯えたように、目を震わせて………。
………あんなに、残酷なことをする犯人が………。
死をも楽しむかのような、残虐な死体を量産する犯人が………。
あんな、生に執着した表情をするのか……?
たまらず、叫んだ。
「澤村っ!!」
その声が合図だったかのように。
男性の体がグラッと大きく傾いて、そのまま僕の視界からも、おそらく澤村の視界からも消えた。
ドサッ。
鈍い音が、静かになった繁華街に響き渡る。
「………落ちた…」
澤村の声が力なくかすれて………。
悔しさが滲み出る声音で呟いた。
「多分、ヤツだ………終わったよ、美波」
大田聖司 32歳、外資系証券会社勤務。
有名私大卒のエリートで、独身で。
そういった異常を感じさせるような素行は、今まで家族でさえもわからなかったそうだ。
叩いても埃すらでない経歴の持ち主だったのに、大田の自宅からは、一連の犯行と一致するロープやサファイバルナイフが見つかった。
あとは、科学捜査を題材とした海外ドラマのDVDやその手の本まで発見されて、状況証拠ながら決定的な証拠と位置付けた捜査本部は、大田を被疑者と断定して、この猟奇的連続殺人事件は、被疑者死亡のまま検察庁に送致された。
呆気ない、というか。
気が抜けた、というか。
そんなに長くはない警察人生の中で、こんな危ない目に遭うのも初めてだったし、被疑者死亡という後味の悪い事件も初めて経験した。
凝縮されすぎて、あっという間の出来事のようだ。
と、同時に。
雫に本当の事を言わなければならないという、気の重たさが首をもたげる。
雫は………騙していた僕を、許してくれるだろうか。
「美波のバーテンダーも、もう見れなくなるんだな。結構、似合ってたのに」
今回の事件の功績が評価されて本部長賞誉をもらった澤村が、歯を見せて笑いながら僕に言った。
「うん……。ちょっと、寂しいけどね。し……店長の上野に本当のことを話してくるよ。………よくしてもらったし」
「そうだな」
「そういえば、さ。あの店、澤村の行きつけなの?」
「どうして?」
「店長が澤村をよく見かけるって言ってたからさ。情報収集とかしてたんだろ?」
「うん、まぁな。優秀な情報屋がいるんだよ、あの辺は」
澤村は結構、喜怒哀楽がハッキリしている。
裏表のないイイヤツなんだ。
なのに、今。
その真っ直ぐな目が、澤村の本心を隠すように小刻みに揺れている。
………何か、を……隠してる………?
かつて、澤村に抱いた違和感が、再燃した瞬間だった。
「今まで騙してて、ごめん」
開店前のわずかな時間を見計らって、僕はdesireのバックヤードで雫に本当のことを打ち明けた。
嫌われることを、恨まれることを覚悟で、僕は雫に頭を下げたんだ。
「………そんなこったろうと思ってたけどさ。………結構、ショックだなぁ」
少し苦笑いをして、雫は僕と視線を合わせて言う。
「本当にごめん。殴るでも、なんでも。雫の気がすむんだったらなんだってしてくれてかまわない。………本当に…」
「なんでも?………なんでも、するって?」
「………あぁ………なんでもする」
僕が発した言葉に反応した雫の、笑顔が………ゾッとするくらい冷たかった。
「なんでもするってよ、零」
「あぁ、ちゃんと聞いたよ。雫」
この聴き慣れた、声……。
血の気が引く思いで、僕はその声の方向に視線を投げた。
「澤村………なんで………」
澤村はゆっくり僕に近づくと、硬直して動かなくなった僕の体をなぞるように、その手を動かす。
「無駄にカンだけは鋭いからな、美波は」
「零、動かなくしちゃダメだよ?美波は、今から俺たちの玩具になるんだから」
………玩具?
何でもするとは言ったけど………あまりにも、話が噛み合わなさすぎて。
澤村と雫の関係性が見えなくて………僕の体温が一気に下降した。
呼吸も浅くて………頭が、回らない………。
「そんなことしないよ、雫。俺も美波を気にいってんだ。こんな綺麗な玩具………初めて手に入れたよ」
「結構、いい反応するんだよ?美波は。楽しみでしょ?零」
………どれくらい、時間が経過したんだろうか。
店の地下にこんな部屋があるなんて、思いもよらなかった。
窓もない、コンクリートの打ちっぱなしの壁と、小さなベッド。
壁際には小さな棚と、小さな冷蔵庫。
そして、唯一の出入り口のドアにはシンプルなシリンダが見える。
………そして、微かな………電子音。
逃げようと思えば、体当たりでもしてドアをぶち壊すくらいの気力はあるんだ。
ただ、動けないだけ。
小さなベッドから、僕は動けないんだ。
まさか、警察官にもなって手錠で拘束されるとは思わなかった。
僕のと、澤村のと。
それぞれが両手首に絡まって、ベッドヘッドの柵に繋がってる。
上体を起こしたくても起こせないし、何より。
「………っぁ!……」
体を少し動かす度に声をあげざるを得ない、この状況。
微かな電子音の正体………。
僕の中に、バイブが入ってる……。
何度となく雫に弄られた場所を、バイブが休むことなく擦って………恥ずかしいのに………僕は幾度となくイッてしまって………僕の腹の上に、その跡が残る。
寝ることも叶わず、バイブによって快楽を迎えて意識を失ったと思ったら、またバイブによって目覚めさせられて、を繰り返す。
………おかしく、なる。
なんで………?
なんで、こんなことになってしまったんだ?
僕が………僕がきっと………。
秘密を………。
雫と澤村の秘密を知ってしまったからなんだ。
ろくに抵抗も出来ず、澤村に殴られてここに連れてこられた。
動けない僕に、さらに追い討ちをかけるように雫が、何か液体を注射器で僕に注入する。
………体が、言うことをきかない………。
体が、熱い。
息が、苦し………。
「………な、に……した?」
「何って、気持ちよくなるクスリだよ?段々、ヨくなってきたでしょ?」
「何で………こんな」
「分かってんだろ?何もかも」
その冷たい声音が、僕の知っている澤村とは対極にあって、体は熱いのに頭の奥がキーンと冷たくなる感じがした。
「美波が分からない部分を、じっくり教えてやるよ………。時間はたっぷりあるからな」
上野雫と澤村零は、兄弟だったんだ。
2人の両親は離婚して、弟の澤村は父親に、兄の雫は母親について行った。
離れ離れになっても、2人は繋がっていた。
ある共通点………。
天性の、サイコパスという共通点で。
人を魅了し、快楽を与える雫と。
人の痛みに、快感を覚える澤村と。
2人はニコイチで、今までの殺人を実行していたんだ。
執拗に犯されながら僕は2人によって。
全ての被害者の、拉致られてから陵辱を行い、命の期限が切れるまでを、ジックリ生々しく語り尽くされた。
1人目は早く殺りすぎて、楽しめなかったとか。
2人目からはその失敗から学んだことを、試験的に行って。
5人目の成田で、ようやく理想とするところに近づいた。
「まぁ、中山はカンづきすぎたからなぁ」
雫はにっこり笑って言う。
「エリートの太田の弱味を握って、犯人に仕立て上げたんだ。あれでみんな騙されると思っていたのに」
澤村は、反芻するかのような表情で言う。
………2人とも、楽しそうに………。
僕を玩具のように抱きながら言う。
澤村に突っ込まれて、激しく上下する僕の視線の先には雫が僕の口に深く入れ込む。
そして、僕は8人目で………。
………きっと……僕は、この後すぐ殺される。
「……んんっ、ん」
「クスリ効いてきたね、美波。気持ちいい?」
「そのクスリ、普通の薬じゃないからな。美波には速く効いてもらいたくて直接打ち込んだんだ。気分、いいだろ?」
「………んくっ………ん、ん」
頭の奥はヒンヤリしてキリッと冴え渡っているから、雫の甘い声も澤村の鋭い声もハッキリ耳に届くのに。
敏感になった僕の体が、澤村と雫から与えられる全ての熱や感覚を吸収して………。
その快楽に溺れる。
2人が同時に僕を犯す時は、休みの時。
雫が僕を玩ぶ時は大抵昼間で、澤村が僕を奥まで貫く時は夜だ。
2人がいない時は、こうして玩具で休むまもなく僕は体を快楽に浸して………。
逃げたい気力はあるのに、体がもう、言うことをきかないんだ。
「……こんなに濡らして、だいぶキてんじゃないの?美波」
「……っはぁ、………さわむ…….ら」
「そろそろ支給品の点検があるから、手錠、返してもらうよ」
「さわ……たすけて………だして………ここ……から」
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