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「っ……そ、んなこと……」
想像しただけでゾッとした。
どれくらい掛かるかも分からない。その間、俺に自分を殺せというのか、この男は。
「ま、無理だよな。……そもそもお前にそんな器用な真似が出来るとは思えないしな」
「……っ」
「大人しく記憶を消されるか、それともあいつの記憶を消すか。……好きな方を選べばいい」
好きな方、そう言うがどちらの選択肢にも俺の望んでいるものはない。
あいつのために躊躇う必要はあるのかとメイジは言う。あいつが俺の記憶を消すと決めたこともショックだったが、それでも、あいつの記憶はあいつだけのものではない。
死んでいった村の連中やあいつの家族も、ないことにしてしまうのは耐えられなかった。
「……暫く、考えさせてくれ」
「悩むのは結構だが時間は有限だ」
大事に使えよ、とやつに耳打ちされる。
「実行は明日になるだろう。今晩はその前準備するとは伝えてるからな」
「……」
「決心が着いたら俺の部屋に来い」
何も答えられなかった。肩に置かれたやつの手のひらがやけに熱く、重かった。
一人残されたロビー。
立ち去るやつの足音が遠ざかるのを聞きながら俺はその場から動けずにいた。
本当に他の選択肢はないのか。
一番いいのはイロアスを正気に戻すことだとわかっていた。
けれど、あいつはまるで話にならないのだ。
子供返りしたかのように駄々を捏ねるあいつのことを思い出しては息が詰まる。
あのあと、あいつはメイジの元に向かったのか。
ようやくしおらしくなって、少しは俺の言い分も理解したのかと思っていた。が、その逆だ。あいつは俺の記憶を消し、洗脳という強硬手段に出たのだ。
直接あいつに会いに行ったところで何もかもが裏目に出る気はしていた。
下手したらあいつが自分自身の手で記憶を消そうとしてくるかもしれない。……そうなれば、メイジですらどうしようもないだろう。
ずっと理解していたつもりだった。
けれど、俺はイロアスのことを分かっていない。
俺の知ってるイロアスなら、俺の記憶を消そうなんて真似しなかったはずだ。
そう思いたいことすら俺のエゴだというのか。
「……クソ」
――部屋に戻ろう。
今は一人になりたかった。
足取りが重い。
部屋の扉に入った俺は誰も入ってこられないように内側の鍵を施錠する。
メイジに頼るしかないのか。
シーフは話にならないだろう。ナイトも……駄目だ。それでも一番穏便に済む方法を探してしまう。あいつらの記憶を消す決心が付かなかったからだ。
時間がないというのに。
窓の外を見ようとするが、窓の外は濃い霧がかかったように薄暗い。メイジの結界のせいかはわからないが、ここがどこなのかすらもわからない。石の壁のように頑丈な窓は殴ってもびくともしなかった。
……逃げられないのか、本当に。
――メイジ。
あの男もあの男だ。何を企んでいるのかまるで分からない。それでも助けてくれようとしているのだろうが……どうしてもただの善意だけのように思えなかった。
それでもあの男に頼ることしかできない現状がただ歯がゆかった。
……どれほど時間が経ったのだろうか。
恐ろしく時間の流れがゆっくりと進んでいた。
頭の中、あれほど混乱していた思考も時間が経てばある程度は落ち着いていた。
けれど……それでも俺は決心つくことはできなかった。
窓の外は先程よりも幾分暗くなっている気がした。建物の中は恐ろしく静かだ。それに、俺たち以外の人間がいる気配もない。
ここがなんなのか、考えてる余裕もなかった。
本当はわかっていたはずだ。
何が最善なのか。けれどそれはあいつらにとっての話だ。……俺にとっては最善とは到底言い難い。
メイジの術にかかったフリをすること。
それも、いつになるかわからない旅が終わる日まで。
……俺には自分がそんなことできるのか。
悩んでる暇などないとわかってても頭の中を嫌な想像ばかりがぐるぐると巡る。
こんなとき、いつだってイロアスが助けてくれた。助言してくれた。相談に乗って、俺がついてるから大丈夫だと俺の背中を押してくれたのだ。
けれど、今隣にあいつはいない。
部屋を出れば静まり返った廊下が続いていた。
メイジの部屋に向かって歩き出す。
あんなに会いたくない、関わりたくないと思っていたのに――今はあいつに頼ることしかできない。
メイジの部屋は見つかった。
ご丁寧にあいつは扉の前にいたのだ。
俺の姿を見ると、扉に凭れていたあいつは「早かったな」と笑うのだ。それに答える気にもならなかった。
そんな俺に怒るわけでも不機嫌になるわけでもなく、メイジは「入れよ」と扉を開いた。
この扉の奥へと入ればきっと後戻りはできないのだろう。
俺は意を決した。
――いや、正確にはそんな大層なものではない。こうするしかないのだと自分に言い聞かせるのが精一杯だった。
無言で付いていったメイジの部屋の中、背後で扉が閉まる音が聞こえた。
メイジの部屋には荷物の他に複数の書物が置かれていた。
俺のいた寝台しかない部屋とは違う。既にごちゃごちゃと魔道具で散らかった部屋の中、メイジは俺を部屋の中央に置かれたソファーに座らせるのだ。
「……それで?まさかただ俺の部屋に遊びにきたわけじゃないんだろう?」
普段なら癪に障っていたメイジの言葉も今は些細なものと思うほどだった。
ああ、と答えればメイジは側まで引いてきた椅子に腰を掛けた。
「……お前に、聞きたいことがある」
「へえ?」
「もし俺があいつらの記憶を消してくれと言ったら、お前は……どうするんだ」
「……そうだな、丁度いい機会だ。俺の記憶も消して、どこか手頃な家でも買ってお前と暮らすのも悪くないな」
本気で言ってるのか、それともその場しのぎの冗談か、この男の言っている言葉の真意は分かりにくい。
けれど、この男ならそれが可能なのだろう。
何故この男がここまでするのか、俺は以前その理由は聞いていた。けれどだ、全てを信じるには早計のようにも思える。
そもそも、この男の好意は純粋なものではない。
「……じゃあ、俺がここに残って……術にかかったフリをすると決めたら?」
そう尋ねたとき、ほんの一瞬だけニヤついているあいつの頬が反応した――気がした。
「どうもこうもしない。……俺も掛けたフリをしてここに残るだけだ」
「……っ、けど、もし俺がミスしたら……バレたらどうなる?お前が術を掛けたフリだけしてるとなったら……」
「最悪、俺もお前も記憶を消される可能性はあるだろうな。そんなヘマしたくないが相手は勇者サマだ。……何を仕出かすか分からないからな、癇癪起こしたガキは」
「……お前は、それでいいのか」
ずっと引っ掛かっていた。
この男のメリットがまるでない。俺を助けたところでこの男が得することよりもデメリットの方が大きいはずだ。
それなのに、メイジは「なんだ、そんなことか」と呆れたように笑うのだ。
「前々から思ったが本当に想像力の乏しいガキだな、お前は」
「っ、なんだよ、俺はお前のこと……!」
「言っただろ?俺は、お前のことを気に入ってるって。……お前がただの人形に成り下がる方が俺にとっては我慢ならない」
「そんなくだらないことで……」
「くだらない、なあ?……これだからスレイヴちゃんは」
くつくつと喉を鳴らし笑うメイジ。
やつの手が伸びてくる。するりと頬を撫でる指先に思わず体が反応する。振り払おうと思えば振り払えた。けれど、それよりも目の前のやつから目を逸らすことができなかった。
「っ、メイジ……」
「俺はそんなくだらないことのためにここまで来たんだよ」
「あいつらみたいに世界を救いたいとも思ったこともないし、世の為人の為になろうなんざ思わない」この男がそういう人間ではないことは既に知っていた。寧ろ、何故このパーティーにいるのか不思議なくらいだった。
なら、なんで。なんて言葉は今更出なかった。
この男の言葉が、目が、全てを物語っていたからだ。じっと俺を見据えるその目には他のものは映っていない。
「……お前は、おかしい。変だ」
「変態野郎、気持ち悪い、頭がおかしいんじゃないか……っては言わないんだな」
「……っ、俺には理解できない」
「ああ、だろうな」
「……俺のせいでお前も巻き込まれるかもしれないんだぞ」
「合理的に俺を消せるチャンスにもなり得るわけだ、よかったじゃねえの?……スレイヴちゃん」
こんな男の心配なんかしたくない、そう思うが自分の行動一つで他人の人生を変えるということが改めてここまで伸し掛かるとは思わなかった。
どうでもいい、万々歳だ。そう思うべきだと分かっていたが、どうしても全てを割り切れなかった。
この男のことは利用すべきだ、情を抱くな。……頭の中で繰り返す。
「……っ、俺は、アンタのことが嫌いだ、いつも……勝手なことばっか言ってろくなことをしない。おまけに性悪だ」
「ああ」
「けど……何度も助けられた、契約上とは言えだ。……それは感謝してる」
「それで?」
「……っ、俺は………………忘れたくない」
「……ああ」
「あいつの記憶も、消せない」
メイジの目が俺を見下ろす。
自分がどんな顔をしてるのかわからなかった。
薄く微笑んだまま、メイジは更にその目を細めるのだ。
「お前にできるのか?」
「……ああ」
「好きでもない奴らに抱かれて耐えられるのか?」
「……そうだ」
「……ナイトに犯されてもか?」
「……っ、耐えられる」
こうするしかないのだ。
そうあいつに強く返したとき。
「少なくとも今のままじゃすぐにバレるぞ、お前」
言葉だけではいくらでも強がることは可能だ。
実際そのときになってみればまた違う。
イメージトレーニングとは訳が違うのだ。昨夜の悪夢のような時間を思い出す。それでも耐えなければならないのだ。
そんな俺の本音を見透かすように、メイジは笑うのだ。仕方ないなと言いたげに。
「俺がいるときなら催淫魔法くらいなら掛けてやれる。けれど、他の奴らといるとき――デバフもない状態でできるのか?」
「……や、れる」
「虚勢だけは相変わらず一級品だな、お前」
震えてるぞ、と頬から首筋を撫で上げられ思わず腰が逃げそうになり、堪えた。
この男に試されているのだと分かったからだ。
そして俺が逃げないことに気付くとやつは少しだけ意外そうな顔をして――微笑んだ。
「……本当に耐えられるっていうなら、俺で試してみろよ」
できるだろ?と耳元で甘く囁かれれば鼓動は乱れる。
唇を指先でとんとんと触れるメイジに俺は固唾を飲んだ。
――……全ては自分の未来のためだ。
目を瞑り、なるべく意識しないように俺はぐっと硬く結んだ唇を重ねた。
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