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23※

 眠りは浅く、全身の倦怠感は翌日も続いた。  それでも全く動けないわけではない。それに、一刻もこの空気の淀んだ部屋から出て行きたかった俺は意地でもベッドから這いずって出た。  そんなことをしていると部屋の扉が開き、イロアスが部屋へと入ってくる。 「……おはよう、体は大丈夫か?」  それをお前が心配するのか、俺を抱き潰した張本人であるお前が。  喉先まで出かかったが、言葉を飲み込み「ああ」とだけ応えた。 「メイジから聞いた。悪かった、無理をさせて。……起き上がれそうか?」 「大丈夫だ……っ、ぅ」 「スレイヴ……ッ?!」  起き上がろうとして、久しぶりにまともに地面に足の裏をつけたせいかバランスを保てず転びそうになる俺にイロアスは慌てて俺を抱き留める。 「っ、まだ本調子じゃないんだろ?……今日も休んでろ」 「大丈夫だ、これくらい……大したことない」  こんなことで足踏みしてる暇はないのだ。  大丈夫だ、と体に回されたイロアスの腕を外そうとすればイロアスは何か言いたそうな顔をして「無理はするなよ」と手を離す。  おかしな話だ、まるで昔に戻ったみたいだと思ってしまったのだ。まるで悪い憑き物が取れたように優しいイロアスに心の奥がざわつく。  それはほんの少しの凝りのような違和感だった。  それとも最初から俺がこうして避けなければこいつは元に戻ったということだったのか。  だとしたら、俺は。 「……スレイヴ?」 「……もう、ここを出るのか?」 「いやまだだ。シーフが朝食の準備をしてくれている。お前も食べられるなら、と思って誘ったんだ」  言われて腹が減る。  あいつの手料理に良い思い出はないが、あくまであの時のことも全て忘れていることになってるのだ。……それに、腹が空いていないわけではない。 「……食べる」 「そうか。……じゃあ、一緒に降りよう」  ほら、と手を伸ばされる。一人でも歩ける。そんなの要らない。思いながらも、俺はその手を取ったのだ。絡められる指先にどうしても情事のことを思い出さずにはいられなかった。嬉しそうに、穏やかに微笑むイロアスに俺は何も言えなかった。  お前はただこれがしたかっただけなのか。  なあ。こんなくだらないことのために俺を、ナイトを追い詰めたのか。イロアス。 「……スレイヴ?どうした?」 「……なんでもない」  無性に遣る瀬無かった。何もかもが呆気なかった。こんなことのために俺はナイトの記憶を消して、あいつの思いも全部なかったことにしてしまったのだと思うとただ悔しくて、自己嫌悪と苛立ちでどうにかなりそうだったのだ。  食堂には他のメンバーも全員揃っていた。  出立前ということもあって流石に朝から酒を呑んでいるなんてことはなかったが、それでもバーカウンターの奥。見慣れた背中を見つけた瞬間息が詰まるようだった。  あの夜とは違う、しゃんと伸びた広い背中。  ナイト、と呼びそうになり、飲み込んだ。  俺とナイトは初対面ということになっていることを思い出したのだ。  カウンターの奥にはいつものようにシーフがいた。そして、離れたテーブル席にはティーカップを手にしたメイジもいる。 「朝っぱらから仲いいな。お二人さん」 「シーフ、こいつに朝食を用意してくれ」  揶揄混じりのシーフの言葉も気にも留めないイロアスにシーフは肩を竦め、「はいよ」と頷いた。  イロアスに連れられ、近くのテーブル席に腰を掛ける。向かい合ってこうして食事することになるのも酷く久しぶりな気がする。  テーブルに置かれる料理を見ても食欲は沸かなかった。原因は分かっている。ナイトがいる。それだけで心臓がキツく握り締められ、まるで匂いも感じない。  けれど、フォークに手すら付けないでいると怪しまれる。イロアスに見守られながら俺は料理に口を付けた。  何を話したのかもよく覚えていない。  味がしないわけではない。美味しいのだろうが、食事を楽しむ精神状態ではない。  それでも料理を口にする俺を見てイロアスは幸せそうに穏やかな視線を向けていた。  性行為以外で久しぶりにこいつの顔をまともに見たかもしれない。以前よりも痩せた気がする。 「どうした?……俺の顔になにかついてるか?」  見過ぎたのだろう。少しだけ照れるイロアスに俺は首を横に振り、視線を外した。  この空気に耐えられず、俺は誤魔化すように料理を口にする。  俺が食べ終わるまであいつはずっと俺を見ていた。仕草から何まで確かめるように、ずっと。  人が見ると聞くくせにこいつは自分はお構いなしか。思ったが、もう何も言わなかった。  そんなことよりも一刻もこの空間からいなくなりたかったのだ。  メイジもシーフもあくまでも普段と変わらない。  変わったのは俺とナイト、そしてイロアス自身だ。  表面上全てが元に戻った。  何事もなかったかのように平穏な時間が戻ったのも事実だ。それでも、俺の待遇が変わったわけではない。  ナイトと俺はあれから一度も話せていない。  というのも、常に俺の横にはイロアスがいた。  それでも、以前までのナイトとは違うというのは明らかだった。本当に記憶がなくなってしまったのだろう。  余所余所しい、まだどこか他人行儀ですらあるナイトに俺はこれでよかったのだと自分に言い聞かせることで精一杯だった。  暫く根城代わりにしていた宿を後にし、メイジが手配したという馬車に乗り込む。  広くはないが、狭くもない。その間も隣にはイロアスがいて俺の手を離さなかった。誰もそのことに触れない。俺も、何も言わない。  慣れというものは恐ろしいものだと思う。  最初は体に触れるだけだった。手、指、腰、脚、膝、腿、徐々に触れる場所が増えていく。  遠慮などない。まるで公然のことであるかのように他の連中の前で唇を重ねられたときは驚いた。最初はそれこそ挨拶代わりの可愛らしいものではあったが、次第にそれも大胆になっていく。  人目を盗んでは抱かれる。唇を吸われ、体を抱き寄せられ、縋るように求められる。  最初こそはシーフやメイジに冷やかされたがそれも周知の事実かのようになっていくのだ。  見られてもどうでもいい。寧ろ見せつけるように触れられることが苦痛で仕方なかった。  二人はまだいい、けれど、あいつにだけは――……。 「っ、ぅ、ん、……ッふ……ッ」 「スレイヴ……上手くなったな」  頭を撫でられれば、喉奥まで頬張ったイロアスの性器が喉に当たりそうになり吐きそうになった。それを堪えるように忙しなく舌を動かし、誤魔化す。  汗が混ざったような濃い味にも慣れてしまった。  早くイロアスをイカせるためだけに手や唇全体を使って奉仕する。どんなにみっともない姿だろうが、そんなことを気にする相手ももういない。  馬車の中、他の連中が談笑してる後方でイロアスの性器をしゃぶってる自分がどれほど浅ましい存在なのか考えたくもない。 「なあ勇者サマ、終わったら俺にも貸してくれよ」 「終わったらな。……スレイヴ、大丈夫そうか?」 「っ、ん……ッぅ、……」 「無理はするなよ」  笑い声が響く。ナイトは何も言わない。  最初こそはぎょっとされていたが、それでも『そういうもの』だと教え込まれたのだろう。  あいつは俺を抱くこともなかったが、関わることとしなかった。  俺が好きでやってるのだと知ったからだ。  一度、一度だけ。  俺はナイトと二人きりで話す機会があった。 『スレイヴ殿、体調が悪いと聞いた。……具合は大丈夫なのか?』  三人に抱かれたあと。  体を清めるために風呂を入ったときだ。上がったあと、部屋に戻る途中の通路で鍛錬帰りのナイトと鉢合わせになったのだ。  俺は驚いた。本当は記憶がまだあるのではないか。そんな希望的観測をしてしまうほど、ナイトの方から声を掛けてくれたことを喜んでしまったのだ。それでも、それもすぐに思い違いだとわかった。  その時のナイトは何も知らなかったのだ。本当にただの元前線メンバーである現雑用としての俺に声を掛けてくれたのだ。 『あ……ああ、大丈夫だ』 『一人で何から何まで担うのは大変だろう。俺も手が空いているときは手伝う。何かあれば言ってくれ』 『……ッ、……』  ああ、と思った。  この男は何も変わらないのだと。何度記憶を消したところでその真っ直ぐでお人好しな性格は何も変わらない。だからこそ、余計苦しかった。  笑いかけてくれる笑顔が、眩しくすらあった。 『……っ、ありがとう、ナイト』  いっその事冷たくされた方がましだとすら思えた。  何も変わらないのだ、この男は。  そのときはナイトから逃げるようにその場を立ち去った。  そして、まだ本当に出会ったばかりのことを思い出していた。  ナイトがパーティーに加入して、イロアスに抱かれるようになったばかりの頃。  慣れない行為に対するストレスで体調を崩した日、あの時いの一番に俺の異変に気付いたナイトのことを。  あれがきっかけでナイトは俺のことを目に掛けてくれるようになったのだ。  既に懐かしくすらもある遠い昔のことだ。  ナイトから逃げ帰ってきた部屋の中、俺は布団を頭からかぶり、埋めた。  あいつに好かれる資格など俺にない。俺はあんなに優しくしてくれたナイトを殺したのだ。  溢れる涙を拭ってくれるナイトはどこにもいないのだ。抱き締めてくれるあいつも、いないのだ。  それから間もなくのことだった。  ナイトに俺の本当の役目も知られた。見せられたと言った方が適切なのだろう。  イロアスに犯されてるところを見られたのだ。それでも、俺は逃げなかった。イロアスの背中に腕を回し、舌を絡める。見せつけるように応える。  気付けばナイトの姿もなかった。立ち去ったのだろう。  酷く泣きたい気分になった。それでも、これでいい。これでよかったのだ。あいつはあいつの真っ当な幸せを手に入れればそれでいい。  そう自分に言い聞かせてきた。  あの日からまた何度も犯された。  誰も止めない。それも当たり前の日常となっていく。誰も疑わない。俺自身すら、自分がなんなのかわからなくなっていきそうになる。  その度にナイトのことを思い出していた。俺だけが知っているナイトとの思い出を思い出す。  これから先もずっと忘れることはないだろう。  それが俺を俺として保つための唯一のものだった。

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