16 / 20

★ ぼくだけのひととき ★

* ミントと別れて、僕はひとりで家に向かって歩いている。 できるだけ早足で歩いていたら、ふいに誰かとぶつかっちゃったんだ。 僕は、それが誰なのかすぐに分かった。 《Hare》っていう家の近くに建ってる牛乳屋で働いてる、お兄さんだ。 近くにあるとはいえ、しょっちゅう利用しているわけじゃない。でも、たまにママに言われてお使いする時によく見かけるお兄さんだ。 ひょこ、ひょこと足を引きずりながらお兄さんは一生懸命に配達してる。でも、お店のカウンターで見かけることはほとんどないんだ。 『おい、てめえは表に出んじゃねえ!!』 『店長からも表に出んじゃねえって言われてんだろ?お前を店番させんのは、みっともねえってな』 『もう、やめてあげれば~。そんなこと言ったら、かわいそうじゃない?』 いつだったか、お使いに行った時にお店の隅っこで聞いた言葉____。 お兄さんは、唇を噛みしめながら、ずっとカウンターの奥で俯きながらホウキで床をはいていて、どんな表情を浮かべているのかまではよく見えなかった。 でも、お兄さんの気持ちは分かる――気がしたんだ。 きっと、ものすごく悲しくて――情けなくて、怒った顔をしているんだと思った。 僕もかつて都会に住んでいた頃や、その時ほど酷くはないにしても、引っ越してきて少し経った今だって牛乳屋のお兄さんみたいに周りの人たちから色々言われていたから。 ごろ、ごろと牛乳の瓶が少し緩めになってる坂道を転がっていく。 僕の近くで動きが止まった時、幸いにも瓶が割れて中身が出てはいなかったけれども、牛乳屋のお兄さんは配達のお仕事の途中だ。 しかも、やるべきことをうまくできなかったとなるとお兄さんはきっと大変な目に合っちゃうんじゃないかと思う。 お店で一番偉い人である店長さんから言葉だけで怒られるんじゃなくて、頭をはたかれているのを僕は一度だけ目にしたことがあった。 だから____、 「あ、あの……ごめんなさい……っ____」 少しだけ緊張しながら、お兄さんに声をかけて牛乳を拾い上げると、それを渡すために手を伸ばしつつ謝ったんだ。 「べ、別に……謝んなくてもいい。こ、これはオレが、か……っ……勝手にやっていることだから……店の仕事とは関係ねえんだ。オレが……む、無償で配ってる」 帰り道を急ぐあまり、よそ見をしていた僕のせいで牛乳が落ちてしまったのに、お兄さんは照れ臭そうに笑いながら答えてくれた。 その後に灰色の制服のポケットからハンカチを取り出すとササッと手早く瓶の表面を拭くと、僕をチラリと見てから、すぐ近くにある赤い丸ドアと白い外壁が特徴的な家に向かって歩いて行くと中から住人が出てくるのをジッと待つ。 (まるで、クルスさんみたいに心が綺麗な人だな――今度また、あの牛乳屋さんに行ってみようっと____) ____と、身を翻しかけて再び帰り道を進もうと足を一歩踏み出した直後のことだ。 バンッと大きな音を立てて、家のドアが勢いよく開かれた。 それがあまりにも大きな音だったから、ビクッと身を震わせると、おそるおそるドアの方へと振り返ってしまう僕。 だけど、もっと驚いてしまったのは扉の内側に立っているのが、とても綺羅な女の人だからだ。 てっきり、ドアを乱暴に開けたのはクマみたいな大男だと思い込んでいたのに、無言のま穏やかな目付きで牛乳屋のお兄さんの顔を見付めてくる女の人は、まるで女神様みたいに腰まである美しい金髪を自慢げに手で軽く払いのける。 真っ赤なルージュが目立つ口元には、ミントがいつだったか本で見せてくれた絵画のような微笑____。 「あ、あの……これ……良かったら____飲んで下さい。サ、サービス……です」 と、牛乳屋のお兄さんが身を屈めて瓶を置く。明らかに緊張しているというのが、少し離れた場所から見守っている僕ですら分かる。 「まあ、いつもいつも……大変よね。偉いわあ……まだ、こんなに若いっていうのに。でもね、坊や…………」 その家の住人である女の人は、一度は牛乳を受け取る素振りを見せたんだよ。それは、少し離れた場所にいる僕にも見えてた。 だけど____、 「それと、これとは話が別なのよ。ねえ、これを見てもらえるかしら?ああ、そんなにお時間はかからないから、安心しなさって?」 「…………」 お兄さんの身が、ビクッと震える。 よく見てみると、住人の女の人は手に紙パックの牛乳を持っていた。けれど、それはお兄さんがお仕事しているお店のものじゃない。 女の人の話は、まだ続いていく。 「ああ、これは坊やのお店のものじゃなかったかしら。それでね――ほら、ここ……三人の子ども達の写真が印刷されているでしょう。学のない坊やでも、流石にお分かりかしら?これはね、ミュール――つまり、ここの隣区にある町なのだけれど……そこで起きた連続誘拐事件の被害者なのよ。おかわいそうに、ね。数年経っていても、この哀れな少年少女達は全員未だに見つかっていないのよ。それでね、わたくしがいったい何を言いたいのかというと____」 すうっ――と、ひといきついてから女の人は無情にも手に持つ牛乳瓶を家の脇にあるラベンダーが見事に映える花壇へと放り投げる。 「坊や、あなた……ミュールからこの町に引っ越してきたんですってね。しかも、あろうことか、この連続行方不明事件が起きたちょうど二年前にだなんて。ねえ、あなたが犯人なのではなくって?そんなおぞましい方が配達する牛乳なんて、いくらサービス品だろうといらなくってよ」 そして____、 『わたくしは他の人達と違って野蛮じゃないから……コンクリートではなく花壇に投げて瓶が割れないようにしてあげただけ慈悲があるでしょう?』 そういわんばかりに真っ赤な唇を下品に歪め厭らしい笑みを浮かべると、傍らで困った顔をしている娘を引き連れて家の中へと入っていってしまう。 その時、僕はようやく気がついた。 あの蛇みたいな目をした怖い女の人が引き連れていた娘は、ついさっき公園で遊んでいたリーニャという子だということを。 * 誰も迎えてはくれない家に帰ってきた途端に、僕はソファーへと倒れ込む。でも、いつものようにテレビをつけることは忘れない。 今日は色んなことがあって、疲れちゃったけど。 結局、牛乳屋のお兄さんは花壇に放り投げられた、サービス品だという、それをお店に持ち帰ることはなかった。 とぼとぼと、寂しそうに片足を引きづりながら帰って行くお兄さんに慰めの声をかけることすら僕にはできなかった。 「もしも、僕がテレビに出てくるヒーローなら、足が悪くて気の毒なお兄さんを乗っけて町をさっそうと飛び回れるのに…………」 ぽそり、と誰もいなく静寂に包まれるリビングで呟く。そして、さっきテーブルに置いた牛乳瓶に目をやった。少しヒビが入ってしまっているけれど、完全には割れていないから中身がこぼれることはない。 揺れることすらない白い液体に見惚れているうちに、トロンとした目付きになり、まるで自分がこのまま溶けてしまうのではないかという奇妙な感覚に襲われてしまう。 とはいえ、この感覚を初めて経験したわけじゃない。 単なる眠気、だ____。 ふと、そんな風に思った直後に――いきなり目の前に置いてある牛乳がゆらりと大きく揺らめいた気がした。 (体がぶつかったわけでもないのに……どうして____) 不思議なこともあるものだな、と特に気にすることもなかった。 それに、そのおかげで眠りの世界に誘われかけていた僕の目は完全に覚めたから、今いる場所から左斜め上にある壁掛け時計へと目線を向ける。 15時21分____。 それを確認した僕はワクワクしながら、テレビのリモコンを手にとってスイッチを入れる。 ヴンッ____ザッ……ザザ~………… グニャリとした歪みと砂嵐が数秒間、僕の目に飛び込んできた後にお目当ての【お楽しみ】を飾る人物の姿が目に飛び込んできたのだった。

ともだちにシェアしよう!