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ノルニ村8(エディ視点)

 フィルをしばらく部屋で待たせ、話し合いをさっさと終わらせて帰ろうと部屋を出たところで、俺はラロに呼び止められた。  部屋の前で話そうとしたが見張りが怪訝な顔をしたので、それとなくワゴンを奪って厨房へ歩くことにする。  俺にワゴンを奪われたラロが、見張りに憐れまれながら急いで追いかけてくる。   「で、殿下!ぼくがやりますから……」   「言いたいことがあるんじゃなかったのか?」   「あ……それは……」   「じきについてしまうぞ」    暗にこの移動中になら聞いてやると伝えると、ラロは意を決したように見上げてきた。   「殿下は……やはり、フィシェルさまのことを?」   「ああ。言っただろう。最初は一目惚れだった。それからすぐに……本当の意味で恋をした」    あの夜……単身ノルニ村に到着した俺は、青い顔をしている村長のラウェとの話もそこそこに、村外れの魔力衝突に意識が向いていた。  一言断ってから外に出て、様子を覗おうとすると、血相を変えた夫妻が物凄い速さで走ってきたのだ。地の魔法で速度を無理矢理上げたそうで、二人は随分と疲弊していた。  事の起こった場所を聞いて、俺はすぐに魔法をいくつか使い、現場の会話を探りながらそちらへ向かって駆け出した。    間一髪燃やされかけたコートに干渉し、持ち主の少年に返そうとして……思わず見惚れた。  整った顔立ちもだが、炎が消えた薄暗い室内で、その少年の色彩はひどく浮いて見えた。真っ白な肌と髪も目を引くのに、白の中に埋もれそうな薄赤の瞳と、震える紅色の唇は、雪の中で咲いた花のようで……一瞬の事だったが、目を奪われるとはこういうことなのだと知った。    半身探しにうんざりしていたというのは本当だ。ずっと、もう止めてくれと暴れたい気持ちだった。  精霊の鏡に祈りを捧げ、あやふやな像を読み解いて読み解いて、やっと至純がいると言われても、俺は半信半疑だった。  同色の魔力を探すことを止めるまで三年かかり、更にそこから四年かかっている。そのたびに俺は精霊の鏡に魔力を捧げ、祈りを捧げ、何だかよくわからないもやもやとしたお告げを得るのだ。馬鹿げている。俺が多重霊格者のせいで鏡が上手く動かないのだろうと貴族院の連中は呑気なことを言う。さっさと諦めてくれたらいいのにと、何度も思った。  流石にここまで何年も鏡が働かない時点で、精霊が俺の半身探しに協力的ではないらしいというのは分かっていた。ルシモスの弟が何も言ってこないのもそれが理由だろう。  フレディアル家の人間が貴族院に圧力をかけているのも知っていた。俺が文句を言えば、従兄弟たちがあの家で苦労するだろうというのも想像がつく。だから大人しく従っていた。至純なんてそれこそ見つかるはずもないと思っていたが……      お触れを出して二年。透明ではなく魔力が全くないだけの者、王家の魔道具を侮って至純だと言い張ってみる者……とにかく、色んな所へ引っ張り回された。使者をやるより、俺がアルアと共に駆けた方が速い。  俺の隊にはヤワな連中などいない。隊長の俺が王子ゆえ、別の公務などでいなくても動けるように鍛えてある。だがそれでも、こんな可能性の低い雑事に何度も呼び出されるよりは、たった一人でも戦場に立ち続けるほうがマシだと思っていた。    フィルの話はそんなときに城に届いた。  国境近くの田舎の、お触れも二年かからないと届かないような山奥で、病弱な至純の少年が一人で暮らしているという。  如何にもありそうで、うんざりする報せだった。この手の話は前に一度あった。王都から遠い領地の村が、お触れをどう読み取ったのかは知りたくもない。まるで生贄を捧げるかのように村一番の美少女を差し出してきたのだ。  確認しに行って、戸惑う少女が「ちゃんと純潔です」と囁いてきた時には、しばし全ての感情が抜け落ちたのを覚えている。この国はまだまだ、民への教育が足りていない……    そんなこともあったのに、俺の確認も待たず「今度こそ本当に違いない」とフィルに迎えを出そうとする貴族院の連中には、マグマの塊をぶち込んでやりたい気分だった。  だから一団を振り切って一人で先駆けてきたのだ。もういい加減、半身探しに振り回されるのはごめんだった。  これで最後だ。この話を確認したら、適当な令嬢を嫁にもらおう。至純なんて王国の歴史に数度登場しただけの珍しい存在が、そう簡単に見つかるはずもない。  一応俺は王族なので、半身が見つからなかった時の為の候補は何人かいたはずだ。断魔材質の避妊具を上手く使えば、俺のような魔力の者でも夜の営みは可能だ。女より戦場だと言って、いつまでも独り身だったから、こんなことになっているのだ。    そう思っていたときに、フィルに出会ってしまった。    念の為確認をしたが、魔力を流されるまでもない。俺にはフィルのような目はないが、不思議と分かっていた。やっと見つけた。本物だ。    しかしそこからが……新たな戦いの始まりだった。    嘘をつくことには慣れている。身体ばかりが頑丈で、頭はあまり回らない子供だった。いつも、できるだけ上手く誤魔化すことばかりに必死になっていた。    だからフィルにも、都合の良い話を押し付けることは簡単だった。田舎の村で、世間知らずなことも幸いした。  嘘をつくコツは、多かれ少なかれ本当のことを混ぜること。    フィルは貴重な至純だ。そもそも保護されることはあっても、見捨てられることはない。  俺にはフィルしかいなくても、フィルはそうじゃない。更にあの目を持っているのだ。まさしくフィルは国の宝だ。  確かに至純として、一度は多重霊格者の俺の相手になることは薦められるだろうが、選択権はフィルの方にある。この国には、多重霊格ではなくとも、未だ半身が見付かっていない強力な魔導師など何人もいるのだ。    だから俺の半身のフリをするのが一番安全だといった。もちろん丸っきり嘘というわけでも無い。  田舎者の少年には国宝なんて言われても荷が重いだろう。野心に塗れ、ギラついた目で半身を探す奴らの手に渡すのが嫌だったというのもあったが、どちらかと言えばフィルへの憐れみが勝っていた。  もちろん自分の半身探しも終わらせたかったのは本当だ。  ……その為、奥底に灯り始めた気持ちはフィルにもバレずに済んだはず。    結局、ルドラに偉そうなことを言っておきながら、俺は立場を利用してフィルを都合よく手元におこうとしていた。  実際、俺が紳士なら、安全ではあると思う。  最初は一目惚れしたものの、俺は一時の感情で身を滅ぼした奴らの話をよく知っている。なので暫く手元で愛で、嫌になればフィルに説明したとおり適当な理由をつけて、静かに暮らせそうな場所へ送ってやればいいと思っていた。  レデ夫妻を交えて話している間は、少なくとも本気でそう思っていた。    だがその思いは、一晩のうちに消えることになった。    不自由をしながらも、ひたむきに、健気に生き、俺に必死に報いようとするフィルが……手拭いに刺された小さな刺繍を見る頃には、すっかり愛しくて仕方がなくなっていた。  素朴で可愛らしい野草の刺繍が、彼そのものを表しているかのようで、撫でるだけで胸が暖かくなった。  これが一時の気の迷いだとはとても思えない。  こんな気持ちは、初めてだった。        共に暮らし、フィルを助け、その度に感激されつつ、一緒に生きていく。  こんな日々がずっと続けばいいと思った。  俺が王子じゃなければ、ここじゃなくてもどこか田舎の村で、二人で穏やかに過ごせるのに。  俺が少し凝ったブラウンシチューを作ってやると、本当に喜んでくれた。  洗濯物を一瞬で乾かしてみせると何度も目を瞬かせていた。  掃除の際に、躓きかけたところを咄嗟に助けてやると、驚きつつも俺を褒め、感謝してくれた。  そうやって、ずっと二人で過ごせたら良いのに。  ルドラという分かりやすい反面教師がいてくれたので、俺は必死に自分の理性を保たせ、恋心を悟られないように気を張った。無理矢理染めようとすることがあれば、フィルは忽ち俺の元から逃げようとするだろう。  立場を利用して閉じ込めておくことなど簡単だったが、それはしたくない。フィルには、俺のそばでずっと笑っていて欲しかった。  長く一緒に過ごしていれば、あわよくばと言う思いも当然、ある。半身らしく振る舞う内に、自分の気持ちに勘違いを起こしてしまってくれてもいい。  とにかく、長く一緒にいたかった。    乗馬に誘ったときは……危なかった。今後乗せることもあるかも知れない為、一度くらいは練習が必要だという思いはもちろんあったが、理性と欲望がせめぎ合ってかなり中途半端な乗せ方をしてしまった。  長年の相棒にはすっかりお見通しだったようで、乗馬を終えて背から降りたときには、アルアが俺からフィルを守るかのようにしばらく側に立っていたくらいだ。フィルには、アルアが心配している感情が視えていたのだろうか。  本当ならば、いくら不慣れでも、しっかり跨って乗せた方がいいのは分かっている。だが俺はそれをしなかった。横乗りにしてしまえば、絶対に縋り付いてくれると思ったからだ。  企みは成功し、フィルを腕の中に抱きながら、俺は必死に自分の魔力を律していた。    フィルの目には本当に驚いたし、苦労させられている。  魔力操作には当然自信があるが、まさか感情の動きまで視えるとは恐れ入った。  嘘をつけないかもしれないと思ったときの、足元からスッと冷えるような感覚は、いつ思い出しても自嘲に笑ってしまう。  俺は嘘を拠り所にしているような、薄っぺらい男だ。熱砂の騎士王子だとか、精霊国の最強戦力だとか言われていても、中身はこんなものだ。    魔力の揺らぎを律することができれば、フィルに感情を読まれることはない。俺は腹の底に気合を入れて、何度もフィルに嘘をついた。    嘘をついて、ついて、これからもつき続ける。  そんなことでフィルと一秒でも長く一緒にいられるのなら、俺の魂が地獄に落ちても構わなかった。        随分と掻い摘んでそう告白すると、ラロは真っ青な顔で俺を見ていた。   「とても……とても正気とは思えません、殿下」  もはや、俺への敬意は関係ないと思ったのかもしれない。それでいい。ラロには、フィルを一番に優先して欲しい。その為に、もしもの時は国を裏切ってでも、命に替えてもフィルの秘密を優先しろと先程言った。陛下にも黙っていろとはそういうことだ。実際、今後陛下にフィルの秘密を言うことになるかどうかはまだ分からないが……あれは最も重い使命の例えだ。もちろんフィルは気付いていないだろうが、ラロには十分伝わっているようだった。  ……そうだ。いざとなればラロには、たとえ俺からでさえもフィルを逃すつもりでいてもらわなくては困る。   「俺はとっくに正気ではないよ。フィルに恋をした瞬間から、狂ってしまった」    ラロは弱々しく首を左右に振った。   「嘘は……嘘は、いつかばれます。ぼくがさっき黙った理由だって、殿下は本当のことをご存知でしょう?ぼくら使用人は主人の機嫌を取るために、その場凌ぎの嘘をついて口車に乗せることもある。でもそれだって、後からならバレてもいいからできることです。殿下が、人間かどうか怪しいくらいに凄い人物なのは知っていますが、それでも……嘘というのは、バレてしまうものです。バレなくとも、己に罰として跳ね返るものです……」   「……よく分かっているな。王都を出たときにはここまで考えていたわけもないが、お前にしてよかったよ、ラロ。流石あの家の出なだけはある。主に仕えることに関してはとびきり優秀だ。何があっても、フィルのことを一番に考えて守ってやってくれ。先程の脅しは本気だ。お前が生涯仕える相手の秘密を、絶対に漏らさぬように」    ラロは再び口を開こうとしたが、もう話は終わりだと俺はワゴンをラロに渡し、広間に戻ろうとした。ラロは釈然としない顔をしながらも、大人しく従い、厨房に消える。   「おっと、ルシモス」    灰に緑が薄っすら混じったような髪と瞳の、スラリとした俺の補佐官は、柱の影からとんでもない形相で俺を睨んでいた。眼鏡の奥の目は殺意が凄まじい。   「なんだ、聞いていたのか」   「あまりにも遅いので部屋へ様子を見に行ったら、見張りがここへ向かったと言うので。途中から追い付いて聞いていました」   「すごいな、全然音がしなかったぞ」    風の魔法の使い手なので、音に関してもお手の物なのだろうが、俺に気付かせないとは。そう思って素直に感想を言ったのだが、ルシモスのこめかみに青筋が追加される。   「大変……大変夢中で話しておられたようですからね。注意力も落ちていたのでしょう」   「ははは、しかしあれを聞かれていたか。照れるな、これは」   「はぁ……照れてる場合ですか、全く……どうするんです?こんなことをして……城での迎え方の指示はもう出してしまいましたよ。貴方の、伴侶としての扱いですよ!」   「だから、それでいいんだ」    ルシモスは唇を噛み締め、血走った目で俺を射殺そうとしてきた。   「よくありませんよ!本人の自覚も同意もあやふやで、こんな騙し討ちみたいなやり方をなさるなんて……それに、黙って聞いていれば至純さまは……なんだかとっても不思議なお話でしたねぇ、まるで魔力や感情が視えるかのような」   「あ」   「あ、じゃありません!とんでもないことですよ、これは!貴方は!この国の、王子なんですよ!?国の為を思うなら、静養しつつ、一生そのお力を生かしていただくべき、尊い存在で…………はぁ。分かりました。戦場と同じ殺気を出さないで下さい。私とエドワード様では訳が違う」    俺が自分よりも殺気立ったのを見て、ルシモスはため息をついて両手を軽く上げた。   「フィルは俺の元にずっと居てもらう。何があっても、最終的に……たとえ閉じ込めることになったとしても、手放す気はない」   「なんて物騒なことを……他の者には間違っても聞こえないようにしておいて良かったです。全く、ラロにもとんでもないものを背負わせて……いくら従者としてはプロでも、あの子はまだ十三ですよ。命を懸けさせるには早すぎる」   「ああ、魔法で断音してくれているのか。ありがとうルシモス。助かる。その調子で王都でも頼む」    ラロのことを黙殺した俺を見てルシモスの目に再び剣呑な光が宿ったが、俺は黙って腕を組み、壁に背を預けた。   「……ラロのことは可哀想だが、あの家はそういうところだ。一人立ちしたら家名まで捨てさせるんだぞ。それにラロだけに背負わせるわけではない。お前にもそのうち、全てを話すつもりだった。フィルには教師が必要だが、身体のこともあるし、医術の心得のある人間が良い。そばにいるなら、お前は適任だ」   「私はまず、貴方の補佐官なんですが……」    ルシモス・ラートルムは、ラートルム男爵家の次男で、非常に頭の良い男だった。あらゆる学問に精通していて、貴族の出なので作法も完璧。  俺は内政が苦手だろうからと、陛下がとびきり優秀な人物を選んでくれたのだが、ルシモスを補佐官にできた俺はかなり幸運だったと思う。    ルシモスは後ろで一つに纏めた、長い緑灰の髪が肩にかかるのを……忌々しそうに手で背後へ払った。   「はぁ。もういいです。分かりました。貴方のそういう部分を何とかするのが私の仕事です。苦労するのは、エドワード様ですから」   「ああ。明日、お前をフィルに紹介する。顔も魔力も、その時に確認するように。今日はもう遅い。皆に声をかけたら、フィルを連れて帰る」   「分かりました。今後ラロとも連携を取っていきます」    俺がヒラヒラと手を払って話を切り上げようとすると、ルシモスが人差し指を立てた。   「もう一つだけ。あのルドラという少年のことですが」   「ああ……ルドラか。本当は、家を燃やされたんだよ。俺と同じでフィルに一目惚れしたらしくてな……あれは俺を殺す気だったんだろうなぁ」   「な、やはり……!いきなり決闘だとか不意討ちだとか、話がおかしいと思ったんですよ!自分を襲ってきた相手を連れて行くなど……しかも今、至純さまがおられるお部屋って」   「静かにできそうな部屋は他になかったんだ。仕方ないだろう。見張りもいるし室内に問題はない。それに……ルドラの心は、一度ちゃんと折っておいた。もう馬鹿なことはしないさ。ああいうタイプは、一皮剥けると面白いように化けるぞ。俺の隊に欲しいのは本心だ」    俺の言葉に、ルシモスは眼鏡を押さえてため息をつく。   「はぁー……今日はもう皆への挨拶は結構ですから、至純さまを連れて早くお戻り下さい。明日、予定通りのご出発でよろしいのですね?至純さまのご様子は?」 「まだ予定は伝えていないが、眠って体調は回復しているようだった。村長宅にこの人数は、何日も泊まれるものではないだろうし……予定通り明日出発でいい。朝、ラロと家に来てくれ。先程の話を聞いていたなら、お前には分かるだろうが……特殊な目で広間にいた大勢の魔力を一度に見たんだ。倒れもする。その辺りも明日から配慮して、隊列を組んでくれ」     やや考え込んでから、ルシモスは納得したように顔を上げた。もうすっかり仕事人の表情だ。   「……なるほど、分かりました。馬車の周りやお部屋の警護の人員は、魔力が比較的少なく力の強い者を少数に致します。幸い、至純さまには不染の風習もありますから、皆も納得するでしょう」   「頼む。俺もせいぜい、周りに魔力の強い者がいると嫉妬するという風を装っておく」   「……それは…………本心では?」  俺はルシモスには一切効果のない笑顔を浮かべた。  ため息をつくな。本心だったら、何だって言うんだ。        フィルが待っているルドラの部屋に引き返すと、ちょうど中からルドラが出てきたので思わず焦りが顔に出た。そんな俺の顔を見て、ルドラが可笑しそうに口角を上げる。   「なんだよ、オレの部屋だぞ。別に入っても良いだろ」   「……見張りがいたはずだが?」   「オマエが呼んでるっつったらどっか行った」   「おいおい……」    一番阻みたい人間を阻んでくれなかった見張りに落胆しつつ、俺はルドラに視線を向けた。フィルの家を出た辺りから妙にすっきりとした表情をしていて、何を考えているのかさっぱり分からない。  つい、フィルのように……魔力が視えればいいのにと思ってしまう。いかんな……フィルはそれが原因で倒れたというのに。   「なんもしてねェよ。オマエの口車に乗ってやることにしたワケだし……騎士学校とやらに入るのは、今後一切会えなくなるよりずっといい。しばらくオマエにフィーを預けておく。ただし……泣かすんじゃねーぞ。フィーのことは、いつか絶対迎えに行く。本人にもそう……伝えたかったんだ」    ルドラはそう言ってドアを見た。  その表情は寂しげで、やはり先程フィルの家で見せた激情はすっかり落ち着いている。俺も肩の力を抜いた。   「でも、迎えに行くからって言ったら、フィーにはまた断られた。まァ、当然だよな」    視線を僅かに落とすルドラだったが、ふと思い立ったようにこちらを見た。   「オレさ……この村のこと、嫌いとまでは言わねェけど、めちゃくちゃ退屈だったんだ。何年か前からは、常にイライラしてた気がする」    ルドラは自分のことを話し始めた。どうして俺に話してくれる気になったのかは分からないが、俺は部下の身の上話を聞く際と同じ心境だった。    ルドラの切り出しは、フィルが聞いたら「どうして?こんなにいいところなのに」とでも言いそうなセリフだが、俺にはルドラの気持ちがわかる気がした。  力も才能もあるルドラに、この長閑で辺鄙な山奥は狭かろう。   「得体の知れないフードの透明と番えって言われたときは、イライラを通り越してめちゃめちゃ腹が立った。退屈なこの村で、一生守り手として生きていかなきゃいけない未来を……改めて親父から突き付けられて、がっかりしたんだ」    ルドラは顔を軽く向けて、フィルのいる室内を示した。   「だからフィーを初めて見たとき、衝撃だった。あまりにも綺麗で……ああ、コイツが隣にいてくれるなら……一生この村でも、悪くねェかなって、思ったんだ。でもそんな気持ち初めてで……」    ルドラはふぅ、と息を吐いてちらりと俺を見た。その先は俺もよく知る彼の失敗談なので、言いたくないのだろう。  しかしこれで分かった。彼はもう過ちを犯すことはない。   「ルドラ」   「……なんだよ」   「大丈夫だ。お前は強くなる」    俺が本心からそう言うと、ルドラは照れたように笑った。初めて、成人前の年相応の少年に見えた。   「フン!いつか絶対負かしてやっから、首洗って待ってろよ!」            俺が部屋に入ると、フィルが所在なさげに立っていた。ルドラの部屋だと聞いただろうから、落ち着かなくなったのかもしれない。   「あ、エディ……」    暗い部屋で更にフードを被っているので、フィルの表情は全く見えない。フィルはへその辺りで手を組んで、指をもじもじとさせていた。  思わず強引に手を取ってそこへ口付けたい衝動に駆られつつ、俺はそれを抑え込んで苦笑をして見せた。   「聞いていたのか?」   「う……はい。そうですね。聞こえてしまいました……」    分かりやすくギクリと身体を跳ねさせる。今度は抱き締めたくなって、俺はこれからの長い戦いに想いを馳せた。何年でも何十年でも、耐えて見せなくてはいけないというのに。   「フィル。もし君が今、ルドラの元へ行きたいと言っても、俺はもう君を離してやれない」   「え、ぁ……僕は、ルドラの元へは、行きません、けど……?」    不思議そうに見上げてくるフィルのフードに手をかけ、腹の底に気合いを入れる。  露わになったフィルの目を見つつ、出来る限り自然に微笑む。   「もう王都へ先駆けも出した。今更引き返すことはできない」   「えと……だって、そもそも僕には他に選択肢がないじゃないですか。頑張ります。そう決めましたから」 「そうか……俺も、もっと努力しよう。さぁ、帰ろうか」    フィルの髪を一撫でしてから、再びフードを被せる。俺の言葉で、無垢な少年は首を傾げた。   「これ以上努力って。エディは十分、凄いんですけど……」    ……いいや、まだまだ我慢が足りない。        フィルの手を取って村長宅の外へ連れ出す間、見送りは無かった。ルシモスが何か言って人払いをしたのだろう。   「フィル、もう遅いから早めに戻りたい。抱き上げてもいいか?」    少し歩いてから提案すると、フィルはフードの下でしばらく戸惑っていたが、やがて頷いた。   「わ、わかりました。お願いします」   「ああ」    フィルを横抱きにして歩く。体勢が安定しないと適当な理由をつけて、首に手を回させた。フードの下で真っ赤になった顔がちらりと見えた。   「フィル。これも練習の一環だと思って我慢してくれ」   「は、はい……」    俺にとっても、できるだけ魔力の平静を装う訓練のようなものだ。腹の底に力を入れて、体内の魔力の揺らぎを止めてしまう。中を取り繕って、フィルの魔力視から逃れることができればあとは簡単だ。    俺でさえ、フィルの目をもし研究すれば……「尋問いらずで情報を得られるのでは」だとか、「魔力欠乏症だと言われている人たちにも、魔力を扱う訓練をさせられるのではないか」などと、色んなやりようを思い付く。フィルが本気を出せば、国内の半身同士の数も倍に増えるだろう。  強力なフィルの力が広まってしまえば、側にいられなくなってしまうかもしれない。  不思議だった。あんなに身を危険に晒して国の為にと戦ってきたのに、今は国にフィルを渡してたまるかと思っている。    ひとけのない夜道の中、フィルを抱えて物騒なことを考える自分の頭を切り替えるためにも、俺は明日の予定をフィルに話した。   「ああそういえば。フィル、急な事だが……明日出発に決まった。朝、ラロが来て仕度を手伝ってくれる」   「あ……そうなんですね。分かりました。ルドラのことで、大事な荷物はまとめて居間に避難させてあったので……ちょうど良かったかもしれませんね」  フィルは口元に微かな笑みを浮かべ、大人しくなった。フードに隠れて見えないが、目を閉じたのだと分かった。  この数日で、フィルのことはかなり察せられるようになったと思う。    それからできるだけ静かに家に戻り、フィルを先に風呂場へ向かわせた。  俺は自分の荷造りをしていたのだが、突如風呂場から大きな音がしたので、慌ててドアを開ける。   「フィル!?」   「う……エディ。すみません。転んじゃいました」    シャワーの中で倒れ込むフィルを、俺は服のまましゃがんで、そっと助け起こした。できるだけ大きく動かさないよう身体を支える。フィルの体が冷えてはいけないので、シャワーは止めなかった。流石に、他人の体温のような微妙な温度調節は、俺には難しい。自分なら多少無理は利くので、自分の身体の体温は少し上げた。   「あ、だめ、エディ!だめですよ!服が濡れてしまいます!」   「構わない。すぐに乾かせる」   「でも……」    「そんなことはいいから。どこをぶつけた?」    できるだけ好色な視線を向けないようにしつつも、フィルの身体の状態は確認しなければならない。   「あ、頭を……」   「頭を打ったのか!?」   「はい……あと、お尻と背中も」    どうも後ろにひっくり返ってしまったらしい。俺は慌ててフィルの後頭部に手をやった。血は出ていないようだ。   「いっつ……ぅ」   「これは……出血はないが、腫れるかもな。目眩は?吐き気はないか」   「今のところない……です。すみません、思ったより踏ん張れなくて……体に、力が入らなかったんです」    非常に目の毒だったが、フィルの背面を確認する。触って痛がるところは、内出血しているのだろう。じきに痣になってしまうだろうが、場所が場所なのであまり冷やすわけにも行かない。   「今日は疲れたから、身体も限界だったんだろう。……ほら、こんな日には、風呂の手伝いも必要だとは思わないか?」   「う……そう……なの、かも?」   「フィル、何処まで洗った?」   「大丈夫です。大体洗えました。流している途中だったんです」   「では支えるから、もう一度丁寧に流して上がろう」    洗い終えたと聞いて落胆しかける自分を内心で殴り付け、フィルの腰をできるだけそっと支える。  脱衣所でフィルにバスタオルを巻き付け、俺は一度風呂場に戻って服を乾かした。俺自身に関してなら、魔法の範囲設定は容易だ。着たままでも自分に熱を伝えず水分を蒸発させた。尤も、俺の体はかなり熱に強いから、多少熱くても問題はない。   「ごめんなさい、エディ」    身体を拭き終え、寝間着を着たフィルが謝ってくる。俺は未だ水滴を滴らせる柔らかそうな白髪を見ながら返した。 「気にするな。それより早く髪を乾かさなくては。治癒はできそうか?」   「……一回くらいなら」   「では、まず頭だな。フィル、今日は俺が魔法で髪を乾かそう。傷むらしいので普段はあまりやらないんだが……やむを得ん。痛い所は避けるので、頭を触ってもいいか?」   「あ、は、はい。お願いします……」    俺は戸惑うフィルの頭の形を確かめるように触った。流石に他人の頭を乾かす機会などそうあるものではないので、慎重に耳の形まで確かめる。 「あ、あの。エディ。乾かすんじゃないんですか?」   「肌に熱が伝わると大火傷だからな。形を確かめて、魔法の範囲を計算している」   「はあ……すごいですね」    ぽかんと返事をするフィルが、全く分かっていなさそうで、俺は思わず笑ってしまった。  効果と範囲を念入りに確かめ、俺は指を鳴らして魔法を発動させる。水分だけを蒸発させ、その熱をフィル自身には伝えないよう細心の注意を払う。が、やはり髪にはある程度熱が伝わってしまう。俺はフィルの髪に指を入れ、手を動かして風を送った。こういうとき風の魔法を使うルシモスがいれば、もっと上手くやれるのだろうが……地肌を熱から守ってやる魔法を使って、手早く髪の温度を下げる。    言霊を用いて精霊に指示を出す他国の魔術師とは違い、精霊国リグトラントの魔導師は、息をするように魔法を使うことができる。  素質のあるリグトラント人は、強い魔力をもつ身体と魂の結び付きが精霊自体に似ている。その為、実際の物理現象を起こしてくれる精霊に意思を伝える際、言葉を必要としないのだ。  だがその反面、自分の魔力の色が合致する属性しか扱えない欠点があった。  それでも俺は多重霊格者としてかなり自由がきく方だし、戦場ではこの言霊を必要としないリグトラント人の特性に助けられることも多い。    フィルの髪から熱を逃がす間、少し長い、不揃いな前髪のフィルは、目に髪が掛からないよう瞼を閉じ、その目元は風呂上がりで赤く、背の高い俺に合わせて顔は少し上を向いているので……俺は何度も腹の底に気合いを入れ直す必要があった。    ベッドに座らせようとすると、フィルは可哀想なくらい痛がった。強く打ち付けた臀部が内出血して腫れている……ようだ。  俺は……俺は自分の中の邪な空想を振り払わねばならなかった。   「エディ、お尻が本当に痛いです。どうしよう……」   「た……体重をかけなければ、そこまで痛くないんじゃないか?ベッドに横になってしまおう。お尻は……辛いかもしれないが、頭部の方が重要だ。魔力が混ざってしまうから、俺が治癒する訳にもいかない。今日は後頭部を治して寝て、明日お尻を真っ先に治そう」    俺がそういうと、フィルは顔を真っ赤に染めながら、俺の理性を金棒で殴り付けるようなことを言った。   「あの……僕、あんまり治癒が上手じゃないので……こういうときの為に、し、湿布を常備しているんです。ええと……その……お尻は、自分じゃ、見えなくて……」   「あ……ああ。フィル……分かったよ。恥ずかしいかもしれないが、俺がやってもいいか?」 「はい。お願いします……エディ。本当にすみません……」    俺は今日、何処まで試されているのだろう。      

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