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ノルニ村9
僕は自分の情けなさに打ちひしがれていた。
遠慮がちなエディの手がお尻に触れると、恥ずかしさはもちろんあったものの、最終的に申し訳なさが勝ち、羞恥は心の隅に追いやられた。
エディの体内魔力に大きな揺らぎはない。不思議と何も読み取れないのだ。僕はそれで気付いてしまった。さっきラロとの話を聞いていたじゃないか。
エディは、多分我慢してくれている。どんなに嫌なことでも、僕が視て気にしないよう、魔力を制御してくれているんだと思う。
仕事なら嫌なことでもやらなければやらない。エディはそう言っていた。
半身探しも仕方なくやらされていたみたいだし、それから逃れるために必要な事だと割り切っているのだろう。
エディの優しさに甘えていた。僕はなんて馬鹿なんだろう。
お尻に湿布を貼ってもらった時点で切り上げようとしたけれど、背中も既に内出血で色が変わり始めていたらしく問答無用で湿布を貼られてしまった。
泣きそうな気持ちになりながら、なんとか堪えてエディにお礼を言う。
気遣わしげなエディは、本当に本当に、僕なんかが頼ってしまうのは申し訳ない、完璧な王子様だ。
……この人に失望されたくない。
エディがこんなにも頑張ってくれている。僕も恥ずかしいだとか、コンプレックスだとか、そんなことでエディに余計な手間をかけさせる訳にはいかないと思った。
確かにそれならば、お手伝いさんがいるというのは有り難い。僕はどうしたって、完全に一人では生活できず、迷惑をかけてしまう。これから向かう知らない場所なら尚更だ。
彼らは僕のお手伝いをすることでお金をもらっている。向こうが仕事なら、ある程度お互い割り切って付き合っていける気がした。
でもエディは王子だから、僕と一緒にいることは「煩わしい半身探しが終わるから」という精神的なメリットしかない。もしかしたら、将来そのメリットを覆すほど僕に対して我慢ができなくなるかもしれないし、本当に好きな相手が見つかるかもしれない。
確かに僕らは、いつまでかは分からないが期間限定の関係だ。エディが仮の半身を必要としなくなる瞬間。それが騎士としての退役なのか、本物のお姫様との結婚なのかは分からないけれど……その瞬間が来る前に、失望されて終わってしまうのはいけないことだと思った。
僕はルドラと部屋で話し、ちゃんと気持ちをぶつけ合ってみて、当初ルドラに対して感じていた恐怖心が随分と気にならなくなったことに気が付いた。でも僕は、やはりルドラに染められることは未だに怖いと思っている。
僕が僕じゃない何者かになってしまう……自分が自分である一番大事な部分がなくなってしまうようで、どうしても染まるというのは恐ろしかった。自分がその為の存在だと周りから見られるのは苦痛だった。
僕は魔力こそあり、魔法も使えるから魔導師と呼べるのかもしれないが、素質は全く高くなく他人に攻撃ができないので、基本的に誰にも勝てない。ルドラのことでよく分かった。
透明な魔力を直接相手に流し込んで昏倒させることはできる。それは最終手段として有効かもしれないが、複数人に無理矢理襲われたり攫われたりしたらもう抵抗する手段がない。
エディは人攫いや人身売買をする奴らもいると教えてくれた。リグトラントにもそんな人がいるのかは分からないけど、良い人ばかりでないはずだ。そういう人たちを避ける為には、やっぱりエディの……王国の庇護にあずかるのが、一番だ。
だからエディが、今僕に対して感じているメリットを、できるだけ長く持続させなくてはと思った。
エディは本当に優しいから、僕を「もういらない」と言って放り出すようなことは多分……しないと思う。最初に言ってくれた通り、安全なところで暮らせるようにしてくれるだろう。でもできるだけ、いらないと思われないように努力はすべきだ。
だってエディはちゃんとこの関係に対する努力をやっている。もっと努力すると言っていた。まだまだ努力が足りていないのは、僕の方なのに。
昔母さんの読んでくれたお話の中では、お姫様にも、それを助ける騎士様にも、もっと言うなら悪役の魔王にさえ自分の役割や目的があり、皆それを果たす為に、いろんな努力をしていた。
だからこそ物語が成り立っていたんだと、今ならわかる。
お姫様はちゃんと、お姫様として振る舞っていたからこそ、攫われる価値のある人間になった。
もちろん僕は別に攫われたいわけじゃないけれど、ラロが言うようにお姫様としての役割を求められるなら、精一杯やってみなければ、と思った。コンプレックスを気にしている場合じゃないんだろう。
こんな身体だし、何をどこまでできるのか、どの程度頑張ればいいのかもさっぱりだ。それが僕の現状ということもラロに教わって痛感した。でもラロたちは、仕事で僕を助けてくれるのだという。有り難い話だ。
僕だって、どんなに苦手だと思ったことでもちゃんと取り組んで今まで生きてきた。
彼らに上手く助けてもらいながら努力をして……
……できるだけ長く、エディのそばにいたい。
魔法を使うのは、かなり意識を集中させなければならないし、魔力と一緒におそらく気力や体力も持っていかれている。
これを息をするように何度もやってのけるエディは流石王国最強だ。しかもエディがやっているのは僕より遥かに高度なことで、治癒さえへっぽこな透明の魔導師には、到底理解の及ばない感覚だ。
でも……例えそれでも僕は、その時々で僕にできることを精一杯やらなくてはいけない。
手のひらと怪我をした部分に魔力を流し、その手を患部に当て、痛みや腫れのない平常時をできるだけ思い浮かべる。現実が僕の望む形に引っ張られて、少しずつ腫れが引いていく。ここまでの打撲は僕でも中々作らないので、今日の消耗具合では心配だったが、思ったより綺麗に治すことができた。
一応確認してもらうと、エディも少し驚いていた。
「綺麗に治ったな。かなり痛そうだったし、これなら髪を乾かすより先に、治癒をしてもらえば良かったかもしれん」
「……でも、髪が乾いていたからこそ、ちゃんと普段の自分をイメージできました。エディのおかげです。手を煩わせてしまってすみません」
お尻の保護のため、すでにベッドに横になっている僕が身体を起こして頭を下げると、エディは面食らったような顔をして、やがて首を左右に振った。
月光に照らされた笑顔はとても優しくて、格好良くて、僕は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。流石精霊に愛された多重霊格者だ。顔の造形そのものが整っており、あまりにも綺麗なので、男の僕でも思わず魅入ってしまう。
母さんの見事な刺繍を初めて見たときの感覚に、近いかもしれない。芸術に触れると人はこうなるのだろうか。
「フィル。そこはすみませんではなく、ありがとうが嬉しいな。半身というには些か他人行儀に見える」
エディの尤もな指摘に、僕は頷いた。確かにその通りだ。謝罪は悪いことではないはずだが、お礼を欠かしてはならない。半身以前に当たり前のことだった。僕はつい、謝る言葉ばかりが口から出てしまう。
「はい。すみませ……あっいえ、ありがとうございます。エディが的確に助けてくれたおかげで、身体も冷えませんでした」
「……うん。それは良かった。では、俺もシャワーを浴びて明日の準備をしてくるよ。フィルは先に眠るといい」
疲れた体で治癒をした僕は、実はもうかなり眠気が来ていた。ルドラの部屋でも寝かせてもらったと言うのに……情けないが、今は無理をする意味もない場面だ。
エディが僕をベッドにそっと横たえ、掛布を肩まで引き上げてくれる。
「エディ……ありがとう……」
僕は目を閉じると、瞬く間に眠りに落ちた。
それからどのくらい後なのかは分からない。僕は人の気配にふと意識が浮上した。前にエディが「誰かが起きたら自然と起きる」と言っていたけれど、こういう感覚なのかもしれない。きっとエディが寝る為に部屋に入ってきたのだろう。そう思った。
エディが部屋で転んだりしないように、まだカーテンは開いたままで、月明かりは隠していない。
エディの気配はベッドの側でしばらく立ったままだった。何事かと意識が更に浮上しかけたところで、不意に唇に温かくて柔らかいものが触れた。でもそれはすぐに離れて、はぁ、とため息が耳に届く。
今のが一体何だったのかを考えている間に、遮光カーテンを下ろす音がした。それが聞こえると同時に……僕の瞼の裏の世界も、再び真っ暗になってしまった。
そっと髪を撫でられながら、起こされる。
「フィル、いつもよりかなり早い時間だが、そろそろ起きてくれ。ラロとレデ夫妻が来ているぞ」
「う……ん?もうあさですか……?」
遮光カーテンの隙間から見える光は、ひどく弱々しい。夜が明けたばかりなのだろう。
目を開けると、なんともう服を着替えてしまったエディがいて、僕は一気に覚醒した。
「えっ!?まさか僕、寝過ごしたんですか?」
「いや……俺は少々早く起きただけだ。色々とやることがあったからな。アルアを引き取ったり、隊列の確認をしたり……」
「こんなに、早くからですか……」
「一応この一団のトップなのでな。……フィルは気にしなくていい。カーラ殿とラロが仕度を手伝ってくれる。パウロ殿は洗濯をしてくれるそうだ。俺がいればすぐに乾かして仕舞っていけるから、昨日使ったタオル、リネン……置いていきたい洗い物は渡してしまおう」
「わか……分かりました」
「その前に、俺の部下のルシモスを紹介させてくれ。寝間着のままは恥ずかしいかもしれないが、彼は医学の心得がある。昨日倒れたわけだし……着替える前に軽く診察をしてもらおう。呼んでくるから、フィルはその間に臀部の打撲の治癒を試みてくれ。馬車に乗るので、治せるに越したことはないんだ。……慌ただしくてすまないな」
矢継ぎ早に説明され、寝起きの頭でなんとかそれを飲み込む。
「は、はい」
エディが頷いて寝室から出て行くと、僕は一度立ち上がり、寝間着のズボンに手を入れて湿布を剥がした。そのまま手に魔力を送り、治癒をしてみる。湿布のおかげでかなり腫れがマシになったことと、体調は眠りでかなり回復したらしいこともあり、さして疲労感もなくお尻を治すことができた。ベッドに腰掛けてみても……うん、もう痛くはない。
控えめなノックの音が響き、僕がそれに返事をすると、エディと……頭が良さそうな男の人、それからラロが入って来た。
頭が良さそうだと思ったのは、目のところにガラスを着けていたからだ。それが何なのかは知らなかったが、不思議と聡明に見える。灰に緑が混ざった髪と目の色合い、長めの髪を後ろで一つに纏めている辺りも、何というか……そう、仕事ができそうな印象だ。
「お……おはようございます」
僕の言葉でエディ以外の二人が頭を下げ、返事をしてくれた。それを見守ってから、エディが緑灰の男性を紹介してくれる。
「フィル。彼は俺の補佐官のルシモス・ラートルムだ。貴族で、ラートルム男爵家の次男。ルシモスは知識が非常に豊富なので、分からないこと、詳しく知りたいこと、なんでも彼に聞いてくれ。あと……勝手に言ってしまってすまないが、フィルの身体を診てもらうということで、ルシモスにも秘密を話した。その辺りも知恵を貸してくれる。ルシモス。彼が至純のフィシェル・フィジェット殿だ」
僕たちはお互いにもう一度お辞儀をした。
秘密を知っている人がまた増えた。でも僕のことを診察してくれるお医者さまみたいだし、何でも正直に答えていいのは有り難い。突っ込んだことを聞かれたら、どうせボロが出てしまった気がする。
ラロとエディが見つめてくるので、僕から言わなければならないのだと気付いて慌てて挨拶をする。
「フィ、フィシェル・フィジェットです。よろしくお願いします」
「初めまして、フィシェル様。ルシモス・ラートルムです。ルシモスと呼び捨てて下さい。私にも敬語は不要です」
「うっ……はい。分かっ……た、です」
初対面の年上の人に敬語を外すなんてあまりにも難しくて、ヘンテコな言葉遣いになってしまう。ルシモスは苦笑して付け加えた。
「そうですね……とりあえずは、名前を呼び捨てていただければ。私は使用人とはまた別の立場ですから、どうしても難しそうなら敬語でも大丈夫です」
「は、はい。じゃあそうさせて下さい……ルシモス」
「フィシェル様らしくて、これはこれで良いかもしれませんね。ではまず……私の指先に魔力を流していただけますか?」
僕は言われるままに、差し出されたルシモスの指先に触れ、少しずつ魔力を流した。
「……確かに、今までこんな魔力は見たことがありませんね。摩擦痛もなく、ただ薄まる。大量に流せば、痛みはないが気分は悪くなると聞きました。……なるほど、これが透明ということですか……」
僕は自分の指先を見つめて考え込むルシモスを見ていた。このあと軽く説明されたが、今後は魔力色判定の魔道具に魔力を流して見せることもあるそうだ。
「……続いて診察をさせていただきたいのですが……昨日、お風呂場で転んでしまわれたと聞きました。どこを打ち付けたか教えていただけますか?」
ベッドに腰掛ける僕に高さを合わせるように、ルシモスが膝を折って屈みながら、気遣わしげに尋ねてくる。ラロも心配そうな顔をしていて、僕はちょっと頬が熱くなった。恥ずかしい……けれど、ちゃんと伝えなくては。
「後ろに滑って、お尻と背中と、頭をちょっと打ちました。でも、エディがすぐに助けてくれて大丈夫でした。……昨日は疲れていたので、後頭部を治癒してすぐに寝て……お尻には湿布を貼ってもらっていたんですが、さっきそれを剥がしながら、そこも治癒できたと思います。僕はあまり体力がなくて、魔法を何度も使えないので……背中は今日の移動が終わってからか、どうしても必要なときに治癒します」
「はい。詳しく教えていただいてありがとうございます。とても良く分かりました。その調子で、お身体のこともいくつか質問させて下さい。まずは背中の打撲を見せていただきたいので、上の服を脱いでいただけますか?」
僕は頷いて、上の服を脱ぎ、上半身裸になった。ちゃんとしたお医者様のいないこの村では、しっかり診ていただいたことなんて、たまたま医学の知識を持つ旅人さんが来たときだけだ。人生の中で一度か二度しかないが、それでもこういうときに恥ずかしがるものではないというのはわかる。
上半身裸の僕を見ると、ルシモスは僅かに息を詰まらせ、エディが何故かそれに鋭い視線を送っていた。
思わず魔力の動きを詳しく追おうとしてしまって、僕は慌てて瞬きをした。いけない。こういうときに心の動きを盗み視ることは止めなくてはと思ったのに。
それでもラロと違って魔力の多いルシモスが、風の色……鮮やかな緑を内に抱いているのは、部屋に入って来た時点で分かってしまっていた。
背中はそんなに強く打ち付けたつもりはなかったけれど、青痣ができ痛々しいことになっているらしいので、湿布を貼り直してもらう。
それが終わると、しばらく深呼吸をするように言われ、ルシモスの言葉に合わせて息を吸ったり吐いたりしながら、手首を押さえられた。不思議そうにしていれば、魔法で呼吸の音を拾って聞き、手首で脈を確かめていたのだそうだ。
僕は問題ないと言われたので、とりあえずまた寝間着の上を着た。
「……身体の色素がないという事でしたが……」
僕の腕を取って肌を触診する遠慮がちなルシモスの声が聞こえ、僕は我に返る。体の説明をしなければ。
「は、はい。あの……目も、髪も、肌も……全然色素がないんです。目とか唇が赤いのは、血の色が透けているからで……そのせいで光……特に日光に弱くて。肌は日焼けというよりは完全な火傷になって、爛れてしまうんです」
「なるほど……では、目はどのくらい見えますか?遠くと近くでは、どちらがよく見えますか?」
「近くのほうが、よく見えます。遠くなるほどぼやけてしまって……」
「では少しテストをしてみましょうか。何か……ああ、この枕をお借りしてよろしいですか?」
「え、あ……ど……どうぞ」
一体どうするつもりなんだろう。ルシモスはエディが使っていた、僕の刺繍入り枕入れを手に取り、母のベッドの向こう側へ回った。
「ここから、枕入れの絵柄は見えますか?」
「……少しぼやけます」
「なるほど……それではご不快かもしれませんが、私の眼鏡を掛けてみていただけますか?」
ルシモスが使っていたガラスを、母のベッドのこちら側にいるエディに渡す。エディは黙って受け取ると、戸惑う僕にそれを見せてくれた。
「……これ、眼鏡っていうんですか」
「おや……もしや、眼鏡をご覧になるのは初めてですか?」
「はい……これはどういう物なのでしょうか」
「これは、視力の弱い部分を補う器具です。遠くを見るのが苦手な人には遠くを見やすいよう、近くを見るのが苦手な人には近くが見やすくなるように、ガラスを削って……レンズというものに加工してあるのです。私も少々近眼気味なので。ある程度は魔法で見えるようにできるのですが、常に発動させるのはなかなか骨が折れますから、眼鏡を使っているのです」
「なるほど、そんな便利なものがあるのですね。僕もこれが使えれば……」
そう言うとエディが眼鏡をかけてくれたのだが、視界がぼんやりとして上手く見えない。刺繍の絵柄以前に、近くも遠くも良く分からなくなった。目の前にいるエディですら上手く見ることができない。
「……あれ……あんまり、見えないです。エディもぼやけます」
「おや?本当ですか。ちょっと目を見せてください」
エディが僕から眼鏡を外し、枕を戻してこちら側へまわってくるルシモスに返す。エディは眼鏡を見ながら苦笑した。
「度が強かったんじゃないのか?」
「いいえ、殿下。私の眼鏡はかなり度が低い方ですよ。……フィシェル様、失礼致します」
再び屈んだルシモスにじっと目を覗き込まれる。僕は指示されるまま何度か瞬きをしたり、遮光カーテンを少し捲って部屋の明るさを変えたりしながら目を診てもらった。
「ルシモス、なにか分かったか?」
「うーん、そうですね……ここにはなんの機材もないので確かなことはいえませんが……恐らく目の中にある、見たものを映す場所も、肌と同じように光に弱く不安定なのかと思われます。長時間目を使うと他の人より消耗が激しいのも、像を結ぶ場所が光に疲れてしまう所為でしょう。魔力ならはっきり視えるというのも、その器官を使っていないからなのでしょうね。眼鏡のレンズは、目に入る光を調整するだけのものですから……そもそも目の中が光に弱いとなると、眼鏡では意味がないのかもしれません」
僕はがっかりした。目の構造の話は良くわからなかったが、どうも僕には眼鏡が使えないらしい。ルシモスの眼鏡はとても知的に見えたし、僕もそれを掛けるのにちょっと憧れたから、残念に思った。
僕がしゅんとしている間に、ルシモスがラロに何か言いつける。ラロは頷くと、僕の方へ近付いてきた。
「改めましておはようございます、フィシェルさま」
「おはよう……ラロ」
悄気る僕に苦笑しつつ、ラロはずっと抱えていた包を目の前に出した。
「昨日、一団にいた光属性を扱う魔導師さまと殿下がご相談されて、急拵えですがこのようなものを作ってまいりました」
そう言ってラロが包を広げると、中から目の細かな黒いレースのベールを取り出した。結構な長さがある。
「こちらは、ベールに日光などの強い光を弱める効果の魔法をかけたものだそうです。後でちゃんと身支度のお手伝いをいたしますが、一度これが使えそうかお試しいただいてもよろしいですか?」
僕は頷いて、ラロにベールを掛けてもらった。薄暗い今の室内では、よく分からない。
エディが遮光カーテンに手を掛けながら言う。
「ではカーテンを引いてみるから、効果を確かめてくれ。眩しかったり暗すぎたり、合わないようなら遠慮なく言ってほしい」
「分かりました」
遮光カーテンを引かれて、僕は驚きに目を見開いた。まだ早朝で柔らかい日光ではあるが、普段の僕の目にはすでに辛い明るさだ。それなのに、僕は全く眩しく感じなくて、思わず瞳が潤む。
「すごい……ちゃんと見えます。眩しくもないです」
「そうか……良かった。日光自体を和らげてあるので、目は太陽を直接見なければ大丈夫な筈だ。顔と首周りの皮膚も守れるだろう」
僕はいたく感激して、暫く明るい窓の外を眺めていた。遠くはもちろんぼやけてしまうのだが、それでもフードの影からでは見えない、顔を上げたときの高い視界の景色だ。
他の人が普通に見ている光景を、僕は初めてまともに見る事ができた。
「可能ならば度の入っていない眼鏡に遮光の加工をするのもいいのだろうが、ガラスは断魔材の一つだからな。中々魔法を封じることが出来ないんだ。……だがフィルは裁縫をするとき、糸に魔力を流すと言っていただろう?」
「は、はい。そうですね」
「それがヒントになった。糸に魔法を巡らせ、隙間を通る光を糸に吸収させる仕組みだ。その為光に強い黒い色のレースになった。日に焼けると言っていたので、太陽光の有害な部分は遮断して、内部の光量を一定に保ってある。そのベールの下がどのくらいの明るさなら良いかは、一緒に過ごしてよく分かっていた。魔力を切らさなければ、それはずっと使えるはずだ」
魔法の理論の部分は僕には殆ど理解ができなかったけれど、僕の裁縫がヒントになったと聞いて擽ったい気持ちになった。なるほど、光を絞るベールかぁ……こんな方法があったなんて。
これなら僕の弱視は変わらなくても、日中の野外に出歩くことができる。夜も明るいランプを使えるだろうから、杖はいらなくなるかもしれない。
「……ありがとうございます。大切に使います」
僕はラロにベールを外してもらって、エディに頭を下げた。
「喜んでもらえて、俺も嬉しい。フィルの体調も良さそうなので、居間へ行こうか。先に朝食にしよう。カーラ殿がキッシュを焼いてくれたそうだ」
僕は頷いて立ち上がり、エディに手を引かれながら居間に入った。
「おはよう、フィン!体はどう?朝食は食べられる?」
「おはよう。倒れたって聞いたぞ。大丈夫か?」
「おはようございます、カーラさん、パウロさん。今診察をしてもらって、問題ありませんでした。朝食……食べたいです。とってもお腹が空きました。昨日は疲れていて、お茶を飲んで寝てしまったので」
切り分けてもらった温かいキッシュとスープは飛び切り美味しくて、これがこの先長い間食べられないのだと思うと涙が出た。ラロがそっとハンカチを差し出してくれる。
「あ、ごめん……ありがとう。カーラさんのこの味が暫く食べられないと思うと、寂しくて」
「フィン……大丈夫よ。きっとまた会えるわ。あなたのためなら……王都も怖くないもの」
「怖い……んですか?」
僕がそう言うと、カーラさんは困ったように笑った。
「田舎者だから、都会はちょっと苦手なだけよ。フィンも見たらきっとびっくりするわ。腰を抜かしちゃうかも。なにせ人も建物も、ところ狭しと列んでいるんだもの」
「カーラさんは行ったことがあるんですか?」
「……そうね。ずいぶん昔にね」
カーラさんが話を振ってくれると、いつの間にか涙は引っ込んでいて、僕はラロにハンカチを返し、美味しいキッシュをふた切れ食べた。スープも一度おかわりをした。
食事のあと、歯を磨いて顔を洗ってからが大変だった。待ってましたと言わんばかりに、居間の一角に布を敷いたラロに手を引かれ、瞬く間に服を着替えさせられると、そこに置いてあった椅子に座らされ、首から下を隠すように大きな布を巻かれた。
「ぼくの持つ技術を総動員して、御髪を整えさせていただきます!」
「あっ髪……切るの?ラロ、散髪もできるんだね」
最後に切ったのはいつだったろうか。僕は気楽な気持ちで返事をしたのだが……従者として役に立ちそうな、あらゆる技術を叩き込まれているというラロの本気は……凄まじかった。
ラロは石鹸で洗っている僕の残念な髪質に苦戦しつつ、何かを髪に塗って丁寧に櫛を入れ、傷んだ毛先を切り取り、前髪も含めて長さを整えてくれた。切った髪は落ちる側からルシモスが風の魔法で袋に集めている。
カーラさんはラロのアシスタント、エディはラロの指示で僕の髪を真っ直ぐにする為に熱しているらしく、僕はあまりの大掛かりさに内心怯えていた。一通り終わると、最後にまた髪の毛にオイルのようなものを揉み込まれ、ようやく解放された。
カーラさんが持ってきてくれた鏡を覗き込んで、思わず声が出る。
「わ、すごい……」
「フィン……綺麗よ」
「とってもお綺麗です、フィシェルさま」
色味は自分では相変わらず気持ちが悪い。けれど、手触りがよく黒に近い濃紺の上質な服を着せられ、髪を整えられると、随分とまともに……見えてしまった。
後は先程のベールを、コサージュという花型の飾りにピンを付けたもので髪に留めてもらう。
しかし、コートを着ようとすると周りに止められてしまった。
「このベールがあれば、コートやフードは不要かと……」
「……でも、顔が、見えちゃうし」
「フィシェルさまはお美しいのですから、お顔は見せたほうがよろしいと思いますよ。ベールがあれば、日焼けなどの心配もありませんから……」
僕はラロの言葉にちょっと俯いた。
確かにベールも長いし、服の袖も長めで、指先まで隠そうと思えば可能だった。つるりとした濃い藍色の生地は、日光を良く遮ってくれそうだ。
ちょっとヒラヒラしているのが気になるけど……
驚いたことに服に合わせた靴まであって、一体どうなっているのかと思った。まさか服や靴のサイズまで全て王都に伝えられていたんだろうか?それともいろんなサイズの服を持ってきたのか……?
気にはなったが、なんだか恐ろしくて聞けなかったし、今後はこういうことがどんどん出てくるのだろうなとぼんやり思った。
持っていく荷物の最終確認をしていると、洗濯物を畳んでくれたパウロさんがエディと戻ってきた。
「ああやって洗濯物を乾かせたら、かなり便利でしょうね。さすが殿下です。魔力操作の精度が高い……」
「パウロ殿もルドラの一撃を防御してみせたそうじゃないか。中々できることじゃないぞ」
「いやーあれは……生きてて良かったです。咄嗟のことでしたから、ふっ飛ばされはしましたし」
「もう二度とそのような事をせぬよう、王都で鍛えよう。皆無事でよかったな」
「……私も若い頃は周りにかなり迷惑をかけたので、ルドラの気持ちも少しは分かるつもりです。反省して、力の使い方を覚えてくれるといいですね」
その会話を見守っていると、パウロさんがちらりと僕を見て目を丸くした。
「フィン!見違えたな。綺麗だよ」
「パウロさんまで……ありがとうございます」
ベールということは、やはり相手からも僕の顔が見えるのだ。僕はもうすっかり皆の魔力をちゃんと視て、読み解くことが怖くなっていた。自分の顔をどう思われているのか、恐ろしくて確かめることができない。
僕はお礼を口にしながら、長いベールの下で目を伏せて話した。
「あの、本当に、お世話になりました。前にも言いましたが、母さんが亡くなってからちゃんと生活できたのは、パウロさんたちのおかげです」
「フィン……こちらこそ、いつも確かな仕事をありがとう。君のおかげで随分と助かっていたよ。いつでも気軽にという訳にはいかないが、そのうち必ず……会いに行くよ」
パウロさんは少し寂しそうに笑った。
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