22 / 47

荊棘4 (エディ視点)

 一瞬、言わないでくれ、と思ってしまった。  今の俺には、応えることができなかったから。        兄上を視界に入れたときから、妙な心地だった。まるで頭の中に靄がかかり、段々と曇っていくかのような。   「やあエドワード。久しぶりだね」   「ご無沙汰しております、兄上。お元気そうで何よりです。本日は緊急の用件ということでしたが……」   「まあまあ、せっかく久しぶりに兄弟水入らずで話せるんだ。お茶でも飲みながらゆっくり話をしよう」    俺は笑顔を浮かべながら、内心で舌打ちをした。分かっていたことだが、やはり大した用事ではないらしい。確かに拉致問題やお披露目の段取りなど話すべきことはあったが、俺だけ先に呼び付ける程のことではなかった。    だらだらと続く話にうんざりとしていたところで、俺は驚いて懐に手をやった。  一団に同行していた騎士が合図を送ってきている。  俺は上着の上から共鳴石を触って冷や汗をかいた。  共鳴石はその名の通り、同じ塊から割った石なら、ある程度の距離までくれば同じ衝撃を伝えるというものだ。自然界にある大きな石では使いどころが難しいが、俺は大体の鉱物を作り出せるので、今朝出掛けに緊急の際はこれに衝撃を与えながら俺を呼べと伝えてあった。  この揺れ方……相当な無理をして馬で速駆けているのだとわかる。   「失礼、兄上……少々緊急の案件が入りました」   「なんだって?エドワード……まさかこの私より優先すべき事柄だと?お前の兄で第二王子だぞ、私は」   「もちろん兄上のことも優先したいのですが……こちらも、リグトラントの防衛をほぼ全て背負っている立場ですので。どうかご理解いただきたい。では」   「おい!エドワード!」    俺は兄上の声を無視して扉を開けようとした。が、鍵が掛かっていて開かない。   「あー……その、久しぶりに話せる訳だし、邪魔が入らぬ様に……」   「……申し訳ありませんが、緊急ですので開けさせていただきます」    砂で外側を探り、錠などが嵌められていないことを確認すると、鍵穴に粘土を突っ込み鍵の形を探って硬め、強引に開けてしまった。開けたあとはそのままにしても良かったが、一応全て戻してやることにする。外に立っていた見張りがぎょっとしてこちらを見ていたが知ったことではない。  なにせ先程から、フィルに何かあった時の為の合図で石を叩かれているのだ。破壊していないだけ感謝して欲しいくらいだ。    俺は素早く屋敷の階段を駆け下り、玄関の鍵も魔法で開けて外に出た。周りの使用人も俺を留めようと声を掛けてきたが当然無視した。掴まれたところで、俺を止められる人間はそういない。  門の外に、泣きそうな顔で門番に阻まれている騎士がいた。名はムテル。少々臆病だが馬の扱いが非常に上手い男だった。うちの隊の人間の中では風の魔法もラートルム兄弟に次いで上手く、何かあれば大抵ムテルが伝令役を任されている。   「ムテル!何があった!?」    門を開けて貰えそうになかったので、適当な石段を作って外壁を乗り越える。門番は瞠目していたが、俺を門ごときで止められると本気で思っていたのだろうか……  ムテルは青い顔で、門番から離れつつ状況を伝えてきた。   「フィシェル様が、巨大な飛竜に馬車ごと攫われました」   「なっ……」   「大きな飛竜が一匹と小型の飛竜が多数、いきなり空から現れて御者席を切り離し……あっという間でした。その後空中の馬車から変装したラロが投げ出されて……」   「ラロは無事か?つまり、攫われたのはフィルとアーニアということだな?」   「はい。ラロはルシモス様が風で受け止めて無事ですが、お二人は精霊の森に入られてしまわれました」    精霊の森と言われて俺は眉を顰めた。この国は整備を許された街道や集落以外の国土は、基本的に精霊が所有する領域なのだ。国土の大半が濃密な魔力に満ちた森であり、その土地に住まう精霊の許しがなければ大きく切り拓くことはできない。新たに切り拓くときは、精霊の鏡を使って交信し、許可を賜らねばならないのだ。    森は基本的に、魔獣を討伐する能力のある人間しか侵入を許されない。浅い場所ならば人が森の恵みを受けることを許してくれるが……フィルは恐らく、そんな場所にはいないだろう。  魔獣だけは精霊と人間共通の災害であり、討伐には土地の精霊も協力してくれる。しかし精霊は人間を守ろうともしてくれる存在なので、弱きものは森の深部へ入ることは許されないのだ。だが竜は同じ古き生き物であるから、多少の滞在なら怒りを買わないのかもしれない。  精霊は俺達と共に生き、閑吟を通して囁きもくれるが、基本的には人智の及ばない存在なので住み分けている。  精霊が俺達に力を貸してくれているからこそ、リグトラント国民は魔法の恩恵を得ることができる。その為、人は精霊の森を大きく迂回し、限られた街道を使って移動している。ノルニ村から王都への移動に時間がかかるのもこの為だ。  森の中にはまともな道がないことも多い。俺の隊も、閑吟のルストスが同行しない討伐は、まず簡単な道を作るところから始めなければならない日があるほどだ。ルストスはその能力故に、一人でさっさと精霊に道を教わることができるので……その点は全く羨ましいかぎりだ。  しかし今閑吟はいない。森に嫌われていない俺が何とかしなければならない。   「大型の飛竜がいた時点で、オルトゥルムへ渡るつもりなのだろうとルシモス様が……しかし馬車を掴んだままでは流石に無理でしょうから、一度森に降りたのだと思われます。大型飛竜は目立ちますし、恐らくリミットは日没までかと」   「一息に海越えをされなかっただけマシだな。……方角を教えろ。俺が迎えに行く」    俺が持ち歩いている簡易地図を取り出したところで、空から気の抜けた声が響いた。   『あーあー。エドワード様、聞こえます?』    視線を彷徨わせると、頭上から風の小鳥が降りてきて地図の上にとまった。   「ルストスか。今どこにいる?」    『僕がフィシェルとアーニアを迎えに行っているので、心配しないで下さい。夕方くらいにテアーザの東門に着くと思います。おわり』    小鳥はそれだけ言うと、ふわりと空気に溶けて見えなくなった。俺はため息をついて地図をしまう。   「ムテル、今のを聞いたな?俺もアルアを引き取って追いかけるから、お前はルシモスにこの事を伝えに戻れ」   「はっ!了解しました。ルストス様が向かわれたのなら、安心ですね!」   「……ああ、そうだな」    俺はムテルを安心させる為に微笑みながらも、背中にべっとりと張り付く嫌な予感を振り払うことができなかった。    今更ながらに、ノルニ村の変わった結界のことを思い出していた。俺は実際に空から確認できたわけではないが、恐らく上から見るとノルニは村ではなく森に見える。何故そうする必要があったのかと考えると……それはもちろん、飛んでくる"何か"から姿を隠す為だろう。  それに加えて……森を迂回をしなければならないとはいえ、この移動距離で王都のお触れが届くのに二年もかかるだろうか?俺の半身探しに頑なに閑吟たちが協力しなかったのは何故だ?  フィルはどうしてノルニ村で暮らしていて、今更竜に攫われるのか。  何故そんな事ばかり思い浮かぶんだ。  俺はため息をついて軽く頭を振った。  会ったこともないルストスが、予め知っていたかのようにフィルを助けに向かっている……その事実が重い。    こんなことならさっさと気持ちを伝えておけばよかったのでは、と思った瞬間、俺は今まで感じたことのない悪寒に襲われたのだった。        アルアに乗って一団の元へ駆け付ける頃には、既に太陽は頂点からかなり下りた所にいた。今頃はフィルとアーニアも、こちらに向かっているのだろうか。   「エドワード様!」   「ルシモス、皆無事か!」 「我々に怪我はほぼありませんが……申し訳ありません。フィシェル様とアーニア様をお守り出来ず……」   「いや、大型飛竜の竜鱗に魔法で立ち向かうのは不利だ。専用の装備でもなければな……それに心配はいらん。ルストスがもう迎えに行っている」    その名前を出した途端、ルシモスは顔を顰めた。   「つい先程ムテルから聞きました。私の呼び掛けに全く返答しないと思えば……」    俺は苦笑で応える。相変わらずルシモスは弟が苦手らしい。   「ラロはどうしている?話を聞きたいんだが」   「それでしたら、私が報告します。怪我はありませんが少々気落ちしていますので……」   「分かった。襲撃者は見たか?」   「鮮やかな紫髪で、緑の竜鱗と尾があったそうです」    そこまで竜の特徴が出ているのは、オルトゥルムでも限られた人間だけだ。俺は数年前に外交の式典でその一族を見たことがある。   「オルトゥルム王族だと……?」   「それだけじゃありません。ラロは放り出されるとき、『矮小な魔力の稚拙な影武者に用はない』と言われたそうです」    俺はそれを聞いて瞠目した。ルシモスも険しい表情で頷いている。精霊国において、ラロは魔力の無い者なのだ。  今までにラロの魔力を視たのは、フィルのみ。   「まさか魔力視は、オルトゥルムの血なのか?」   「……一般的な国民がそのような能力を持っているなら、貿易をしているテアーザで噂になっているはずです。それが無いということはつまり……魔力視も王族か、少なくとも貴族以上の能力である可能性が高い」   「馬鹿な。そもそもフィルに竜の身体的特徴は……」    そう言いかけて、色素のない特殊な体質を思い出す。俺の表情を正確に読んでルシモスはため息をついた。   「……ええ、そうです。あの特殊なお身体が答えの可能性があるのです。残念ながら数百年途絶えていた国交が再開されて、僅か十年ほどですから……我々はまだまだオルトゥルムの内部事情に明るくありません。我が国内にあるオルトゥルムの文献は、どれも大した情報は載っていませんし……」    そもそもオルトゥルムは島国で、行き来は自国の飛竜と海竜のみ。情報が入ってこないのだ。  それでも十年前にオルトゥルムの使者がやってきた時には、リグトラントは別の古き生き物の子孫を暖かく迎えた。大昔に大きな諍いがあったらしいが、お互い水に流して新しく共に歩む歴史を作ろうと……  俺は額に手をやって呻いた。   「……ルストスは知っているのだろうか」   「はぁ……全く嘆かわしいことですが、アレがこうも積極的に動いている時点で……恐らく答えは握っているでしょう。ルストスは私たちとは持っている知識や情報の方向性が異なります。精霊に直接教わっていますからね」   「……なるほど。今はとにかく帰還を信じるしかないな。ルストスは優秀な閑吟だ。上手くやるだろう。こちらの怪我人も休ませなければな。休憩が終わり次第、すぐに出発しよう。俺は先にテアーザへ戻り、ホテルに怪我人の事を伝えてから……東門でフィルを待つ」    一礼して去るルシモスを見送り、俺は再びアルアに跨った。アルアが心配そうに嘶くので、軽く首を擦ってやる。   「大丈夫だ、アルア。フィルは無事だよ。何も無いさ」    そうでなくては、困るのだ。        けろりとした顔でフィルとアーニアを連れ帰ったルストスは、とんでもない情報を大量に投げつけてくれた。  フィルがオルトゥルム王族……白竜の御子と退知の呪い……俺が精霊国の太陽だという話。どれも一度にもたらされて良い話ではない。もっと小分けに持ってきてもらわなければ、情報過多で胸焼けを起こしそうだ。  しかし実際は一度にもたらされているので、俺は難しい顔で何度唸ったか分からない。    一度食事や湯浴みを挟み、ホテルに用意させた小さな会議室でラートルム兄弟と合流し、話し合った。話の主導権は完全にルストスだ。一番年下だが、優秀な閑吟に年齢は関係ない。   「まずは一番簡単なところから……この後マーク様と話してきていただけますか、エドワード様」   「……ああ、分かった。お披露目の中止などを申し入れなければな。遅くなるようであれば明日の朝報告しよう」   「ちなみに、今日はどんな感じで引き止められました?」   「まずは至るところに鍵が掛かっていて……使用人も皆俺を出さぬ気だったな。門番の態度からして、ムテルとも会わせないつもりだったように思う」    俺が疲れた声でそう言うと、ルストスはケタケタと笑った。   「ああ、それで無理矢理鍵開けたり塀を乗り越えたりしたんですか。エドワード様に力を貸した精霊がすごく得意げです。めちゃくちゃ自慢されてます」   「そ……そうか……」    ちらりとルシモスの方を覗うと、冷ややかな視線が突き刺さる。いやあれは仕方ないだろう。穏便にできるはずもない。ルシモスは目を逸らす俺にため息をついて口を開いた。   「……マーク様のことですが、調べるまでもなく噂になっているようですね。近頃オルトゥルムの商会を頻繁に屋敷へ招待しているようです。そこでフィシェル様のことをお聞きになったのかもしれません」   「マーク様はオルトゥルムとの貿易でかなり美味しい汁を吸っているでしょうから、その相手と戦うかもしれないとなれば……まあ嫌でしょうねぇ」   「しかしそれは、マーク様の独断で決めていいことではありません」    ルシモスがきっぱりと言うと、ルストスは兄に向かってニヤリと笑った。   「だからマーク様は、第二王子でありながら早々に王城から遠ざけられたのですよ。ご存知でしょう」    悲しい話だが、実際第二王子のマークは為政者の器ではない。とはいえ王族なので、本人や周りの溜飲を下げる為に、港町テアーザの町長という立場を用意されたのだ。表向きは統治の実務経験を積むためだが、兄上が王になることは無い。  戦うしか能が無い俺も王にはならないが、王都から遠ざけられた兄上にしてみれば、城でそれなりに大事に扱われている俺のことは面白くないだろう。いつも何かに怯えたような態度で接しながら、俺の大事なものを取り上げようとする。フィルだけは、絶対に渡すものか。    俺たちが考え込んで無言になると、ルストスがそういえば、と手を叩く。   「共鳴石は面白いアイデアですよね!僕もぜひ兄様と同じ共鳴石を持ち歩きたいなぁ」   「どうせ都合の良い時に遊ぶ玩具になるだけです。……エドワード様!作らないで下さい!」    手の中で一つ作ってくるくると回してみたが、ルシモスが本気で嫌そうなので消しておく。   「ああー……残念。い……いや待って下さい。エドワード様、それ僕に一つください。かなり遠い未来で使うことに……なるかも」    俺は思わずルストスを見たが、何を聞いたのかルストスは複雑な表情を浮かべている。いつも笑っている男なので不気味だ。  しかし閑吟にそう言われれば渡すしかない。一つ作って渡してやると、ルストスはそれを大事そうに懐に仕舞った。使い方は……まあ分かるだろう。知らなくともルストスならば、その辺の地精霊にでも聞けばいい。   「はぁー……兄様に渡したかったなぁ」   「送りつけてきたら、切り刻んで川にでも捨てます」   「わぉ」     ルシモスの顔が険しくなったので、俺は話を戻すことにした。   「……何にせよ、今回のことはまず陛下に聞かねばならん。ルストス、伝令は送ったか?」   「はい。既に陛下には状況の報告と、僕の囁きを届けてあります。今回の僕の希望は恐らく通ります。陛下も皇太子殿下も、精霊が好きなので」  あれ程ふざけていたにも関わらず、俺の問いにはしっかり閑吟として答える辺り、流石ルシモスの弟で、歴代の閑吟の中でも最高峰だと讃えられているだけはある。まだ成人したばかりだったはずだが……   「……では本当にヴォルディスを討つ気なのですか?」    ルシモスが冷たい声で弟を問い質す。ルストスはいつもの微笑を浮かべて答えた。 「ええ、兄様。太陽であるエドワード様がいて、白竜の御子であり至純のフィシェルがいる。これは運命だと精霊が騒いでいます。オルトゥルム国民もヴォルディスを失えば目を覚ますでしょう。これは古き生き物を祖にし、強大な魔導の力を持つリグトラントの責務です。ヴォルディスは魂喰らいの禁忌を犯して知を繋いでいますから、神々の理にも触れています。神が怒る前に諌めねばなりません。恐らくこの機を逃せば、オルトゥルムには神罰が下るでしょう。そうなれば民も竜も皆滅んでしまいます」    ルシモスは深くため息をついた。閑吟として振る舞うルストスの事を、まるで可哀相な生き物を見るかのような目で眺めている。   「……お前がそう言うなら、戦うしかないのでしょう。しかし……エドワード様はよろしいのですか?」   「どの道ヴォルディスを討たねば、フィルが安全に暮らせないだろう。フィルの為ならば、俺はどんなことでもする」   「あっはは!本当にフィシェルが好きなんですね、エドワード様!」    先程の真面目な調子から一転し、ルストスは腹を抱えて笑い始めた。   「いやー……びっくりですよねぇ。あの戦闘にしか興味がない騎士王子が……」   「……閑吟たちもそうなるように仕向けたのではないのか?」 「ああ、それはそうです」    あっさりと認めるルストスに俺は呆れ、兄は隣で恐ろしい形相になっている。まあ無茶な半身探しに振り回されたのは俺の補佐官をしているルシモスも一緒なので、気持ちは分かる。   「もちろん、この状況を正確に狙っていたわけではないですよ。でもお触れの伝わり方もおかしいと思いませんでしたか?精霊がフィシェルを守る為に動いていたんです。僕たちはそれを邪魔しなかっただけ。このタイミングになったのも、それが必要なことだったからでしょう」   「そこまで精霊が……動くものなのか?」 「正直、干渉限界ギリギリですよ。リグトラントは精霊が人間を支配しないことを選んだ国なのに。ヴォルディスの事を言えないのではと思うほど……しかしそれだけ、精霊たちはフィシェルを助けたいし、オルトゥルムも救いたいようですね。こんな機会はそうありませんから」   「……精霊が……オルトゥルムも、ですか?」   「竜と精霊は、大昔からこの大地で共に暮らしてきましたから。助けるべき、古き良き隣人なのですよ。精霊は人間も大好きですからね。しかしヴォルディスは魂を喰らっているので、もう切り捨てるべきという判断ですね」  俺とルシモスは何度目か分からない深いため息をついた。   「言っておくが……俺は精霊も竜もオルトゥルムも……リグトラントも、今はどうでもいい」   「ッエドワード様!そんなことを口にしてはいけません!」   「ルシモス……分かっているよ。……だからここだけの話だ。俺はフィルが安閑と暮らせるのなら……何だっていい。その為に戦う。オルトゥルムに……いや、ヴォルディスとアルヴァトには、フィルは絶対に渡さない」    アルヴァトの話を聞く限り、妻というのは弟を助ける為の方便だった可能性もあるが、もしフィルがオルトゥルムに渡ってしまえば、それは現実になる。絶対に渡すものかと怒りが湧く。   「あは!フィシェル、愛されてるねぇ」    俺は無邪気に笑っているルストスの手首を砂で一纏めにして捕まえた。   「おっと」   「ルストス……お前は俺とフィルの邪魔をしないよな?」    俺がそう凄むと、ルストスは笑って頷いた。   「もちろん。僕はそこに手を出しません。邪魔もしないし過度な助言もしない。僕個人としてはフィシェルに幸せになって欲しいですけど……僕は閑吟です。この国に精霊の言葉を伝える為の存在ですから……僕を縛ろうとしても無駄ですよ。よくご存知でしょう、隊長?」    敢えて隊長と呼んだルストスは、魔獣討伐の際にも……基本的に俺の言うことを聞かない。つまりはそういうことだ。俺は諦めてルストスの拘束を解いた。   「そうだ、兄様。怪我人はどうですか?」   「……問題ありません。皆軽傷で、自己治癒の範疇でした。魔力切れで完治していない者もいますが、移動はできます」    俺はそれを聞いて立ち上がった。   「では、俺は兄上に話をつけてくる。明日出発のつもりで準備をするように」   「分かりました」    ルシモスも立ち上がったが、その弟はぼんやりと手に共鳴石を持ってそれを眺めている。   「……ルストス?」   「僕は……もう少しここにいます。あ、そうそう……二人ができるだけ今まで通りの"設定"のまま過ごせるようにも計らいますよ。ご心配なく」   「それは有り難いが……ルストス、お前は大丈夫なのか?その石は何に……」   「……これの出番はまだ遠い先の事ですよ。僕は元気です。因みにこれ、使用期限とかないですよね?」   「……材料の無い所から宝石や特殊な鉱石を魔法で作ると、作成した魔導師が死ねば全て消えてしまう。それは例え俺でも変わらん。俺が死なない限り、その石は使えるだろう」    ルストスは目を伏せて笑う。   「じゃあ、大丈夫ですね」    ルストスを置いて部屋から出ると、兄は心配そうにちらりと閉じた扉を見た。   「心配か?」    何だかんだ兄弟だな、と俺は笑ったが、ルシモスは険しい顔で首を横に振る。   「昔から精霊と会話している所為か、時々ルストスが人でなくなってしまう様な気がして……いえ、そんなことは……あり得ませんね。失礼しました。忘れて下さい」   「……今日は一緒の部屋にしてやったらどうだ?案外お前に甘えているのも、必要だからかもしれんぞ」   「……甘えている?あれが?」    俺は昇降機に向かって歩きながら思わず吹き出した。 「ふ……っあれは、どう見たってそうだろう。ルシモスの前では最高位の閑吟も、兄に甘える一人の弟だ。そういう時間が必要なんじゃないのか」    そう言いながら俺だけ昇降機に乗り、一階に降りる。ルシモスは最後まで複雑そうな顔をしていた。        テアーザで一番大きなこの屋敷は、代々町長が使っていたものだが、先代が亡くなって兄上がここに派遣されてから、随分と様変わりしたと聞く。見た目を華美にする為の改築や造園を行い、さぞ王族に相応しい華やかな屋敷になったのだろう。  俺はあまりそういう事に興味はないが、城の温室にフィルを連れていけば喜ぶだろうか、とふと思う。刺繍をするのだから、実際に咲く色々な花を見せてやりたい。色白のフィルが鮮やかな花に囲まれているのも、さぞ絵になりそうだ。    そんなことを考えながら歩き、俺はテアーザ町長の屋敷に着いた。  夕食が早めの時間帯だったので、人が寝静まるまでにはまだ時間がある。とはいえもう兄上は楽にしているかもしれなかったが、こちらは本当に緊急の案件だ。渋る門番に用件を押し通し、取り次いでもらう。   「昼間は失礼いたしました。その上こんな夜分に申し訳ありません」   「エドワード……どうしたんだい?」    応接間で迎えてくれた兄上は、やはり普段の上着を脱いでいた。俺は非礼を詫びつつ、さっさと用件を説明する。   「実は至純殿が襲われまして」    ちらりと顔を見ると、いつもの優しい微笑みのままだ。兄上とて様々な思惑の人間がいる王城で暮らしてきた人だ。そう簡単に読ませてはくれまい。  ルストスを連れてくるべきだったかと思ったが、やめた。あれは存在自体の刺激が強い。閑吟が表立って動きすぎるのも良くないだろう。   「なんと……それで?至純は無事なのかね?」   「ええ。幸いにもすぐに助けることができました。しかし攫ったのは竜に乗った人間だったとか」    兄上は態とらしく眉を吊り上げた。   「何だと?オルトゥルムの人間だというのか」   「そのようです。兄上は最近怪しいオルトゥルム人の噂など……ご存知ないでしょうか?」    背もたれに体重を預け、ふぅとため息をつく兄上に、こちらもため息が出そうになる。   「ふぅむ……生憎と聞いたことがないな。それよりも至純だ。しばらくゆっくり休ませてやるといい。ホテルにそう伝えておこう」   「いえ、お待ち下さい兄上。至純殿は傷一つなく、元気にしています。兄上には不審な竜使いがいないか調査していただきたく……」   「待つのはお前だよエドワード。女性は元気そうに見えても心は傷付いているものだ。そこは男が察して動くべきところだぞ」   「至純殿は、男性ですが……」    領主への提案を無視され、俺は内心で呆れた。テアーザが街として機能しているのは、商会連合がしっかりしているからなのだろう。   「……本当か?……あ、いや……とにかく男性でも、お前の半身になるのだから。気遣ってやりなさい」    なんだ?兄上はフィシェルの性別すら知らないのか……?アルヴァトは明確に弟を妻に迎えに来たと言ったそうだが……兄上は会っていないのだろうか……  やはりルストスを連れてくるべきだったかもしれないと思いつつ、俺は兄上の反応だけ見てそれを分析するのは後回しにすることにした。   「至純殿をオルトゥルム国の者が攫おうとしているのですよ?テアーザに留まることはできません」   「……何だと?テアーザが信用できないというのか!そもそも、今はお前がいるじゃないか。エドワードは国の防衛を背負った人間なのだろう?」    こんな時にまで嫌味を忘れないその根性に呆れ返る。   「……"たまたま"離れているときに狙われる可能性もあります。我々は明日テアーザを出立します。お披露目の手配まで任せたのに申し訳ありません」    俺がきっぱりと言うと、兄上は背もたれから身を起こし、慌てたように遮った。   「待てエドワード!いくらなんでも急すぎる!至純が可哀相じゃないのか?もっとゆっくり……せめて至純だけでも」    俺は首を横に振って立ち上がった。話にならない。   「兄上。それを言うなら誘拐の方が余程可哀相ですよ。もう一度言いますが、明日、テアーザを発ちます」   「ッならんぞ!お前は……ッどれだけ損害が出るか知らぬから、そんな勝手が出来るのだッ!」   「兄上……そうは言いますが、事が起こって真っ先にリグトラントの盾になるのは、俺なんですよ。そして至純殿は俺の半身です。矢を受けるのは我々です。テアーザだけの問題ではありません。国際問題です」   「…………」    兄上は俺の言葉に今更気付いたような表情をする。しかしこれではっきりとした。   「決定を下すのはマーク町長ではなく、陛下です」    言外に非難してやると、兄上はため息をついて項垂れる。俺は動く気配のない兄上を諦め、屋敷から速やかに辞去した。やはり兄上といると頭の中がもやもやとして、曇る。一刻も早くホテルへ戻りたかった。        何か言いたそうにしているなとは思っていた。しかしそれすらも、自分の邪な気持ちがそう錯覚させているだけなのではと思えてくる。  練習だと自分にも言い聞かせながらフィルに気持ちを伝えたとき、あまりにも可愛らしい反応だったのでぞくぞくした。真っ赤になって縮こまるフィルを抱き寄せれば、返事が無くとも幸せだった。  だが今は、そんな戯れも許されないのだろう。    「ぼ、僕……エディが、好き……です」    意を決したようにそう言われて、真っ先に訪れたのは罪悪感に似た苦い気持ちだった。  閉じ込めてでもそばに置くと……本気で思っていたのに。  嬉しくない訳はない。当然、フィルが俺を好きになってくれたことは、この上なく喜ばしい。  しかし……今は応えられないのだ。    もちろんオルトゥルムにフィルを渡すつもりなどないし、ヴォルディスにも負けるつもりはない。だが俺は今、絶対にフィルに魔力を流す訳にはいかない。気持ちを繋げたら、きっと堪え切れない。目の前で衝動を堪えるのはかなりの苦痛なのだ。  アルヴァトがオルトゥルムを宥めてくれているこの間に、もし俺が不染の誓いを破ってしまえば、この危うい共闘は瞬く間に瓦解する。そうなればアルヴァトはオルトゥルムを抑えることができなくなり、最悪の場合は怒り狂ったオルトゥルム国民と全面戦争だ。  好きな相手ゆえに触ってしまったが、やはり今後は控えるべきなのかもしれない。フィルに触れた指先からでさえ、魔力が流れていないかと肝を冷やした。    しかし今夜の出来事は俺の決意を新たにさせた。フィルは俺を受け入れるとまで言ってくれたのだ。  全てが片付いたら、思い切り抱き締めて気持ちを伝えよう。    

ともだちにシェアしよう!