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蒼茫と光り4(エディ視点)

 ……フィルの事が、何より大切だ。危険な物からはできるだけ遠ざけておきたい。  あの日ルストスに言われた言葉は信じ難くて、腹が立った。  今すぐにでも染めてしまって、安全な場所に閉じ込めておけたら、どんなに良いか――……  そう考えてしまうと、もう駄目だった。  今までにも近いことを考えた事はあった。しかし……  今フィルにとって危険なのは、俺自身なのではないか。         「……どうかしら?好きそうじゃない?」   「もちろん……嫌いでは無いと思いますが……」   「なによ、歯切れが悪いわね」    母上はムッと口を尖らせると、厚紙の小箱を強引に手渡して来た。俺は渋々それを受け取る。   「今は特に……忙しくて……」    先程もルシモスに頼んで抜け出してきたのだ。呼び付けに何事かと飛んできてみれば、これである。  俺は視線を落として箱を見た。厚紙で出来た丈夫な箱の中に、冷気に包まれたケーキが入っている。母上はこれをどうしてもフィルに渡したいらしい。  だが俺は……そもそも今日も、フィルの待つレアザ館へ帰ることが出来るかどうか怪しかった。いくつか理由はあるのだが……    まず、もしも毎日欠かさず会いたいと言うのであれば、俺の住居であるルセア宮殿の本殿にフィルを住まわせてしまえば、当然話は早い。しかしこの国のしきたりの中に……婚姻前の王族は己の住居に相手を連れ込んではならない、というものが存在する。こちらから通わねばならないのだ。  俺はそもそもルセアと、その敷地内にレアザを与えられているので……かなり恵まれている方では、ある。正直に言って最初はなんて面倒な決まりだと思ったが、今は感謝すらしている。帰る場所に必ずフィルがいるとなると、今の状況では益々帰ることができなくなってしまうだろうから。    オルトゥルムとの戦いの為の準備でいよいよ忙しいことと、隊舎や訓練所がルセア宮殿のある敷地から遠いので……それを表の理由に、俺は夜遅くになると隊舎で仮眠を取ることが増えていた。  それを知っている母上は俺を気遣うように目を伏せながらも、口ではきっぱりと言い切る。    「別に、フィンに渡してくれたらいいのよ。とっても美味しいだろうけれど……貴方が無理に食べる必要はないわ。もちろん、一緒にどうかと思ってエドワードに託しているのだけれど……お茶一つ共にできないほど忙しいと言うのならば、貴方は食べなくて結構よ」   「母上……余程の自信作のようですね」    俺が苦笑してそう返すと、母上はそんな俺とは対照的な明るい笑顔になる。   「もちろん。今回は格別美味しくできたわ。だけど、それだけじゃないわよ?こうでもしないと、貴方……休まないでしょう。ここ数日、特に働き詰めだって聞いているわ。私が産んだんですもの、エドワードが特別頑丈なのは知っています。でもフィンを寂しがらせたら駄目よ。一体、何日レアザへ帰っていないの?」   「い、五日ほど……」    呆れたような視線に耐えきれず、俺は母上から目を逸らした。   「貴方の優秀なラートルム補佐官も許可を出せない程、忙しいのかしら?」   「いえ……流石に、ルシモスにもいい加減帰れと言われていますが……」    視線でじゃあ何故だと言われて、俺は観念してため息をついた。   「……物理的に離れていないと、我慢ができそうにないので」    今度は母上から深いため息が聞こえてきたが、俺とて必死だ。  フィルに俺の気持ちを思い知らせた後、明らかにフィルの纏う雰囲気が甘くなってしまって……今までフィルが相当遠慮をしていたのだと、会う度に痛感させられている。フィルも言葉には気を付けているようだが……態度がもう、今までとは違うのだ。  情けない言い訳だと、自分でも思う。今までそういう衝動に勝てない貴族共を……正直見下してもいた。しかし、自分の魔力の色に完全に染めてしまえる人物を目の前にして……しかも、相手と気持ちが通じ合っていると自覚があれば……その衝動を堪えることは確かに、途轍もない精神力が必要だった。  それでも今までは何とか堪えてフィルに触れることもできていた。しかしこうも状況が切羽詰まってくると……生存本能なのかなんなのか分からないが……今まで以上に忍耐力が必要になった、と思う。少なくとも俺自身はそう感じている。  特殊な複数の色の魔力を持つ俺は特に、透明なフィルから求められると冗談抜きで理性が飛びそうになる。オルトゥルムを襲う呪いを馬鹿にできない程に、ただの衝動的な獣になりかけてしまう。  何より危険なのは俺自身なのではないか――……そう思うと、自然とレアザから足が遠退いてしまっている。  母上は俺を見上げ、困ったように自分の頬に手を添えた。   「それは……同色の相手がいない私には、聞いた話でしかないけれど……リグトラント国民の本能を堪えるのは、大変に苦痛だとは思うわ」   「…………」   「でも、これから命を懸けるというのに……本当にそれでいいの?貴方は良くても、フィンはどうなの?」    フィルは、と言われて俺はようやく母上と再度目を合わせる事ができた。苦い表情を浮かべる俺に、母上は容赦なく言い放つ。この性格だからこそ、母上は何処ででも上手くやっていける人なのだ。   「それを渡して、食べながら……二人で話し合いなさい。いいえ……会うだけでもいいわ。とにかくフィンに会いに行きなさい。いいわね、エドワード」   「……そうします。母上……ありがとうございます」    俺が力無く頷くと、母上は柔らかい笑みを見せた。   「フィンにはこの間、厚布で作られた丈夫な手提げ鞄を貰ったの。厚布だから刺繍は控えめだったけれど……ささやかなそれがまた素敵で……皆にも評判が良くてね。これはその御礼でもあるのよ。それでは、よろしくお願いするわ」    真っ赤な髪をふわりと払って、母上は後宮内へと戻っていった。    歩きながらルシモスに魔法で連絡を飛ばすと、一言だけ「さっさとレアザへ帰れ」と返事が来たので、俺は隊舎へ向かう道を引き返して真っ直ぐレアザに向かう事にした。  俺を出迎える侍従長のハーデトルにケーキの入った箱を渡しながら、今日はもう出ないことと、お茶の用意をして欲しい旨を伝えた。時刻は午後の……影が伸び始める手前くらいなので、お茶をするにもちょうどいいだろう。  そう思ったのだが、ハーデトルは僅かに眉尻を下げて口を開いた。   「只今、フィシェル様はアーニア様と共に……裏庭で護身術の鍛錬をなさっておられます」   「ああ……そうか」    確かに、フィルが元気な午後にはよく体を動かしていると聞いていた。俺はハーデトルに頷くと、外へフィルの様子を見に行くことにした。    フィルはその特殊な体質と低い視力の為に、今まで大した運動はしてこなかったようだ。しかしそれではいけないと自ら思ったらしく、王都へ来て光を軽減するベールを複数用意されてからは、こうして積極的に体力作りに励んでいる。  フィルの故郷であるノルニ村から連れ出したとき、いつか俺から「体を動かしてみないか」と声を掛けようとは思っていた。フィルは体が丈夫ではない上に、目が悪い為に唯でさえ彼方此方へぶつかったりしがちなので、せめて体幹を鍛える事を勧めたかったのだ。  とはいえ、こういうのは本人のやる気が肝となるので……フィルが嫌がれば無理はさせたくないとも思っていた。    しかし……ここがフィルの良いところの一つなのだが、フィルは自分に必要だと判断した事は何でも挑戦しようとする。体の不自由で遠慮をしがちな面もあるが、なんでも主張するところは主張するのだ。  それは今まで一人で生きてきたからなのか、フィルが白竜の御子だからなのか……それは分からない。白竜の御子は本来オルトゥルムでは知識を詰め込まれる存在らしいから、実際にその本質もあるのではないかと思う。  フィルは戸惑いながらも勉強や作法の練習に積極的で、こういった運動にも手を出す。  俺が連れ出した張本人なので、こんなことを思う資格はないのかもしれないが……元々がのんびりとした田舎暮らしだったので、がらりと変わる生活にフィルが心を病まないか心配していた部分もあった。だが、王都ではフィルなりに考えて暮らせているのだ。順応性も想像よりずっと高い。  ……それが嬉しくもあり寂しくもあるなんて、我ながらどうかしている。    フィルの美徳を感じられ、それが俺と共に生きる為の物事に発揮されていることが堪らなく嬉しい。だがその一方で、何も知らぬまま……俺だけを意識する場所に閉じ込めておきたくもあって…………いや、本当に俺は……どうかしている。分かっている。本当はそんなこと、出来るはずもない。  ……俺はフィルを甘やかしたくて仕方が無いのだ。こんなこと、他の誰にも思ったことが無い。フィルが頑張り屋だからこそそう思うというのも分かるだけに、悩ましいところだ。    こっそりと建物の影から顔を出すと、フィルとアーニア、それから講師につけている騎士学校の元教師の三人が、レアザの裏庭で体術の訓練をしていた。フィルは……手を取られたら相手の手首を捻って逃れたり、身を翻して距離を取ったり……うん、まさしく令嬢の護身術のような動きを練習していた。  ところがその隣にいる本物の侯爵令嬢は、騎士顔負けの動きで講師と組手をしている。魔導騎士になれる素質のあるアーニアは、己の地属性の魔法を併用しながら講師の足場を崩し、砂をかけ、礫を飛ばし、その合間合間に拳や蹴りを叩き込み……攻めの姿勢を崩さない。  それを受ける講師も険しい顔だが、指示を欠かすことは無い。俺から見ても非常にレベルの高い訓練だった。   「足場を崩したならもっと踏み込んで圧をかけろ!己の足場のみを固めなさい!そこで攻めを緩めるくらいなら、咄嗟の防御の練習を積め!」   「はい!」    その激しいやり取りの隣で、フィルは自分のペースを崩さず、型を一つ一つ繰り返し確認していて……今すぐ抱き締めたいほど可愛らしい。  だがフィルは不意に顔を上げてきょろきょろと辺りを見回すと、その視線がしっかりとこちらを向いた。フィルの様子にアーニア達も手を止める。   「……ん?一体どうし……おお、エドワード殿下」   「エディ!」   「まあ、エドワード様」    俺は苦笑しながらそちらへと向かう。   「ご無沙汰しています、先生」   「いや、構わんよ。忙しいのだろう。そうだな……今日はここまでとしようか」   「ありがとうございました!」  フィルは講師に頭を下げると、俺の元へ駆け寄ってきた。   「お疲れ様、フィル。……見つかってしまった。邪魔をするつもりは無かったんだが」   「エディの魔力が視えた気がして……当たっていました。エディも……お疲れ様です。あの、仕事は大丈夫ですか?」    俺がちらりとアーニアに視線を向けると、静かに頷かれた。俺はそれを見るとフィルを促し、レアザの方へと歩き出す。   「今日はもう終わりにしたんだ。ルシモスからも、そろそろ休めと言われていたから」   「え……?じゃ、じゃあ……今日、この後は……?」   「フィルと一緒にいるよ」    そう伝えれば、フィルは照れたように身体を寄せて……いや、寄せようとして、慌てて離れていった。   「どうした?」   「す、すみません、僕……今、汗をかいていて……あ、ラロ」    何処からとも無く現れた優秀な従僕が、汗を拭く布をフィルへ手渡しながら微笑んだ。   「先に湯浴みをなさいますか?ご用意が出来ていますよ」    フィルは布を受け取り、眉尻を下げて俺を見上げてきた。咄嗟にラロに視線を向けると静かに頷かれる。ラロがとんでもなく優秀で助かった。   「エディ……その、もし良ければ一緒に……」   「あの……申し訳ありません、フィシェルさま……エドワードさまのご用意は、別に指示をしてしまいました……」   「あ、そうなんだ。大丈夫だよ、ラロ」    湯浴みの用意など正直どうとでもなる話だが、今フィルと湯を共にしたらどうなるか分からない。  ラロのお陰で獣にならずに済んだ俺は、フィルの手を取ってその白い甲へ口付けながら微笑んだ。   「フィル……実は母上から、フィルにケーキを預かっているんだ。先日、母上に鞄を贈ったのだろう?その御礼だそうだよ」   「……ケーキ……?」    フィルの目元がほんのり赤らみ、瞳が嬉しそうに輝く。そう、この可愛らしい生き物は甘い物が好きなのだ。   「湯浴みが済んだら、お茶にしよう」   「はい!楽しみです……!」    フィルをラロとアーニアに任せて講師を見送ると、俺もレアザへと戻り、フィルとは別にシャワーを浴びた。ラフなスラックスとシャツのみに着替え、部屋でフィルを待つ。    俺は五日ぶりにフィルに会い、最早話し合いなどいらないのではないかと思い始めていた。顔を合わせてその可愛らしさに触れてしまえば、俺の些細な抵抗や我慢など無意味なものに思える。必要なのは話し合いよりも、暫く時間をあけてしまった謝罪だろう。  謝った後は……フィルを腕に抱いて眠りたい。だが、そうすると自分を抑えられるか分からない……やはり、これ以上の接触は我慢すべきだろうか?  フィルの事となると、たちどころに思考が矛盾してしまう。俺は堂々巡りになる思考を、頭を振って逃した。衝動的になればそれこそ寝室を分ければ良い。ルセアの本殿に帰ってもいいし、レアザにも部屋は沢山ある。  元々レアザは俺用の迎賓館だったもので、それをフィルの為の屋敷に改築した。その為部屋数はかなりあるのだ。    湯浴みをして、白いワンピースに着替えたフィルを見ると、忽ち自信が無くなってしまう。侍従達がこの格好をさせたと言う事は、夕食もこの部屋へ運ぶつもりなのだろう。  フィルの髪や身体からは、ほんのり甘い香りがした。  部屋の中の俺を真っ先に視て駆け寄って来てくれるので、俺も堪らず抱き締める。   「エディがいる……嬉しいです」   「ああ、俺も……嬉しい。暫く来られなくてすまなかった」   「大丈夫です……エディが来られるときに来てくれれば、それで」    俺はハッとして身体を離し、フィルを見詰めた。申し訳なさそうにしながらも俺を見透かすようなその視線……恐らく魔力の動きを視られていたのだろう。俺の情けない葛藤は既に知られているのだ。フィルとて、普段意識して気を付けている魔力視を我慢できないほどに……恐らく不安だった……ということが分かる。   「フィル……本当にすまない」   「エディ……あの……僕もすみません。あまり詳しく視ないように、と思っていたんですけど……」   「いいよ。大丈夫。それより……お茶にしようか。このままケーキを食べ損なってしまうと、俺が母上に燃やされてしまう」    俺が扉の向こうの侍従達に魔法で合図を送りつつ言うと、フィルは俺の言葉に目を丸くして驚いた。が、すぐにふわりと微笑む。   「太陽のエディを燃やすなんて……ふふ、でも確かにフラーティア様なら、できてしまいそうですね」 「そうだろう?ああ、ちょうど準備ができたようだよ、フィル」    茶器やケーキが乗ったワゴンが運ばれ、俺達は隣り合ってソファへ座った。向かいでも良かったが、フィルが俺のシャツを掴んでいたのでそのまま離れないことに決める。  そばにいると、これを堪えていたことが馬鹿馬鹿しくなるほど離れ難かった。   「わ……!とても綺麗なケーキですね……花弁が乗ってる……!」   「これは……サラーサ妃とリレイア妃が作っている、食用の花だな」    切り分けられたケーキは白いクリームが塗られており、その上に赤とオレンジの花弁が乗せられている。食用と聞いてフィルは嬉しそうに笑った。   「花も食べられるんですか?素敵です」    フィルがはしゃいでいるのを見ていると、それだけで空腹が満たされそうな気すらしてくる。すると俺をちらりと視たフィルが頬を赤らめた。   「い、いま……何を……」   「うん?」    俺が聞き返すと、フィルは真っ赤になって首を横に振った。美しい白い髪が、ベールの下でふわりと揺れ、フィルからまた甘い香りがする。   「いえ……何でもないです。い、いただきます」   「フィル、こちらを向いて」    振り返ったフィルのベールをそっと上げてやる。部屋の灯りは既にフィルの目に合わせて落とされていて、フィルは一度俺を見上げると恥ずかしそうに視線を逸らす。俺は口付けたい衝動を必死に抑えつける必要があった。   「あ、ありがとう……ございます」    フィルはそう言ってお茶を一口飲むと、続いてケーキを口に入れた。途端にフィルの表情がぱっと明るくなる。   「ん、美味しいです……!」   「そうか。良かった」    俺もケーキを食べたが……かなり甘かった。フィルに合わせた味なのだろう。俺も甘味が苦手な訳ではないが、こうしてしっかり食べることはあまり無い。  花弁自体には特別な味がついている訳ではなかったが、噛むと華やかな香りが鼻腔を抜けていく。それと共に甘いケーキを飲み込めば……なるほど、確かに母上が自信を持つのも納得だ。   「花の香りが……」    同じ事を感じていたらしいフィルも、口元に手を添えて驚いている。   「ああ、すごいな」    小さなことだが……このケーキ一つとっても、フィルと同じ感想を持てることが嬉しかった。もちろん別々の考えの時があってもいい。こうして同じ時間を共有して、話して……同じ事に喜び、違うことに感心をする。そうしてずっと過ごしていけたらいい。  俺は自分の中の衝動的な部分が落ち着いていくのを感じていた。  初めから一人で悩む必要なんて、なかったのかもしれない。        夕食後、ルシモスから届けられていた急ぎの報告や俺の署名が必要な書類を確認しつつ、作業用の机で裁縫をするフィルのそばにいた。  フィルは食事の後慌てて裁縫道具を取り出すと、何やら明るい色糸を使って黙々と作業をしている。手は淀みなく動きつつも繊細で、ずっとそれを視界の端に捉えていたくなる。  やがてフィルは俺の指三本分くらいの大きさの小物を仕上げると、それに細い紐を通して……俺に声を掛けた。   「あの……エディ。忙しいですか?」   「……ん?いや。大丈夫だよ」    俺は書類にサインをしていたペンを置いて、フィルに視線を合わせた。フィルは恥ずかしそうにしながらも、手に持ったそれを差し出してくる。   「こ、これを……もし良かったら、もらって欲しくて」   「これは……」   「お守り……です」    手渡された小さな赤い厚布には……暖色の階調で描かれた円を抱く、可愛らしい白兎の刺繍が入っていた。   「ほ、本当は……お守りですし、流石に太陽だけを入れようと思っていたんですけど……エディが……必ず白兎を入れて欲しいと言っていたので」    俺は微笑んで頷き、それを受け取った。  以前イツラ村でフィルの作品であるという小さな巾着袋を買ったとき、そこに刺繍されていた白兎がフィルと重なって……必ず刺してくれと頼んだことがあった。  フィルは俺に刺繍したものをくれる際に、それからはちゃんと白兎を入れてくれている。  最近で言えば……紺の寝間着に、川面に映る月を眺める白兎が刺されていた。俺は芸術には相当疎い方だが、それでもフィルの刺繍は素晴らしいと思う。   「フィル……ありがとう。大切にする」   「は、はい。良かった……直接渡したかったので」  俺は堪らず立ち上がって、フィルを抱き上げた。   「エディ!?」   「フィル……すまない」    フィルをベッドへ座らせると、フィルがそっと俺の頭を抱き寄せる。それが心地良くて、暫くそのままでいた。が、流石に言わなければとゆっくり身体を起こす。   「フィルには、分かっていたかもしれないが……この数日、帰らなくてすまなかった。確かに、忙しかったのもあったんだが……」   「エディ……?」   「……フィルを襲ってしまいそうで」    フィルの顔を覗き込むと、目をぱちくりとさせていて……真剣に謝っていたつもりだったのに、自然と口元が緩んでしまう。   「フィル……俺の言っていることが分かっているか?」   「襲ったら……駄目なんですか?」    今度は俺が目を見開く番だった。そうだ、フィルは主張するところはちゃんとする……昼間にそう噛み締めたばかりだったじゃないか。  俺は背筋を伸ばし、軽く深呼吸をした。冷静にならなくては、先程何処かへ去った衝動がたちまち駆け戻ってきてしまう。   「……もう、あの薬を使っても……俺はフィルを染めてしまうかもしれない」   「……っ」    俺は微かに震えるフィルの手を取り、指先に口付けた。   「今はまだ、我慢しなければ。そう思っていても、フィルに近付くと……自分がどうなってしまうか、分からなくて」   「エディ……」   「自信がなかったんだ」    フィルがくすくすと笑う声に視線を上げる。白い頬をほんのり赤く染めた笑顔のフィルがいた。   「ふふ……エディでも、自信がないことがあるんですね」   「フィル……俺も人間だぞ」   「もちろん、分かっています。でも僕は……ノルニにいた頃からずっと、エディに助けられてばかりなので」    今度はフィルが俺の手を両手で包み、優しく握り込んだ。俺より少し低い体温が肌を撫でていくのが、ひんやりと心地良い。   「それでも、会いに来てくれたということは……今は大丈夫なんですか?」   「ああ……そのつもりだ。だがフィル……あまり俺を誘惑してくれるなよ?」   「ゆ、誘惑なんて……したこと、ありますか?」    本気で分からないという顔をするので、俺もおかしくなって笑いながら返した。   「ああ。いっぱいある」   「いっぱい!?」    驚くフィルに軽く口付け、ベッドへ寝かせる。俺もあの紺の寝間着に着替えて隣へ潜り込んだ。   「今日は……一緒に、くっついて寝てもいいんですか?」   「そ……」    そういうところだ、と言おうとして……やめた。  関係ないのだ、結局のところ。  フィルの存在自身が俺を惑わせて魅了して止まないのだから……  どの道あと十日程で決着がつく。  俺はフィルを腕の中に抱きながら目を閉じた。  危険なことからは守る。とっくにそう決めている。  俺自身からもそうだ……  俺は名残惜しく思いながらも、魔法を使って眠る事を選んだ。      

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