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第5話 元どおりにはなりません。

 男の一人暮らしでそんな大そうな朝飯は映画の中だけの話だ。  トースト二枚とコーヒー、それだけの簡単な朝飯を、席が隣同士の教師が、向かい合ってモソモソ食べている。  コーヒーだけはインスタントじゃなくて、ちゃんとドリップさせている。インスタントだと酸味が強いだけで、苦味も薄っぺらくて、二日酔いの朝なんて飲めた代物じゃないから、これだけはいつもちゃんと淹れていた。 「寝癖も可愛いですね」 「!」  ぴょこんと立ち上がった横の髪は、驚いた拍子にピヨピヨと揺れている。 「お、男相手に可愛いって……金沢先生」 「男だけど好きな人なら、何でも可愛いでしょ」 「ちょっ! からかってるなら」  からかってなんかない。男相手にニッコリ微笑んで、腕を取って、その指にキスをする、なんて朝から遊びでそんなアホみたいな事はしない。まるで恋に浮かれたバカみたいな事。 「ちょ、ちょちょ、何してんすか!」 「アハハ、指にジャム付いてたから」  ジャムなんてひとつも付いていない指をパクッと口に咥えたら、面白い悲鳴を上げている。昨日のセックスの時にも同じように指を咥えて、その爪の先をほんの少しだけ齧った。だからそれを思い出させるように、全く同じ事をしてみせると、一瞬だけ眉を寄せて、甘い声を上げそうになるのを、必死に淹れたてのコーヒーと一緒に飲み込んでいる。 「アチッ!」  天然だなとは、隣の席にいた時から思っていたけれど、こうやって改めて見ると、ものすごく可愛いな。自分で一気飲みしたコーヒーに火傷して、舌を外に出して、呼吸で冷まそうとしている姿に、つい笑ってしまう。 「舌出して、ディープキスねだられてるのかと思った」 「は、はぁ? ちょ、本当に冗談はそのくらいに」 「だから冗談じゃないってば。あ、それか舌出しながら、犬の耳つけて、ワンワンごっことか?」 「……俺、そんな趣味ないって」 「俺もないよ」  はぁ? と顔全面で俺に返事をしている。やっぱりからかっているんじゃないかと、不服そうにしているのを見て、ついにやけてしまう。  この人、表情がコロコロ変わるから面白い。俺のやる事全てに逐一、律儀に反応してくれるから、ついからかってしまう。 「ワンワンごっこはしないけど。昨日の事はなかった事にはしてあげないから」 「!」 「好きって言ったでしょ?」 「あの、俺、さっきから言ってるけど、男だって」  それなら俺だって昨日散々確認したさ。そして今朝、寝顔を観察して、セックスした相手が誰なのかシラフの頭でしっかり考えた。  でもどんなに確認しても、好きだと気が付いただけだった。しかもかなり嵌っている。 「それでも好きだよ」 「!」 「同じ教師で、席が隣。貴方が体育教師の林原先生で、俺が音楽の金沢先生。どっちかというと共通点は今までほとんどなかった。席が隣になるまでは、挨拶程度だけ」 「だから!」 「そう……でも好きになっちゃった」  席が隣にならなければ、きっとこういう関係にはならなかっただろう。俺の中で彼の印象は「毎日ジャージだな」程度で留まってくれていた。  今回の飲み会だってきっと席は離れていて、俺は家庭科の及川先生に言い寄られているのを、なんとなくかわしながら、適当な時間になったら、帰らさせてもらっていた。 「郁……」 「マジ……っすか?」  真剣な声色で名前を呼んだら、これは本当に冗談では済まされないんだと、ようやく悟ってくれたみたいだ。  その時、ピーピーという、洗濯と乾燥を終了した事を告げる音が洗面所のほうから聞こえてきた。セックスの痕が残ったシャツとシーツが綺麗に元どおりになりましたと、告げている。でも俺はなかった事には、元どおりにはしてあげない。 「朝飯食べたら、どうします? 夕方送りますよ」 「え? や、帰りますって」 「なんだ、つまらない……もっと一緒にいたかったのに……」  そう心底残念だと顔でも表現して見せたら、林原先生が「このままここにいたら襲われそうだ」って無言で語っていた。  朝食を済ませて着替えて、帰り支度を着々と済ませていく林原先生をずっと眺めていた。着替えるところをじっくり見たかったのに、わざわざ洗面所に閉じこもって着替えるなんて、本当に可愛い。男同士なんだから、裸なんて恥ずかしくないでしょ? って提案したら、この場合は違うと断言されてしまった。  まぁ、実際、この場合は違う。昨日のしどけない姿の林原先生は同じ男なのに、ものすごく妖艶だった。それこそ同じ男とは思えない色気にずっとのぼせているような感覚がしていた。 「……どうして俺なんです?」  渋々送ろうと玄関で靴を履いている時、そうボソッと尋ねられた。  すでに靴を履いていた林原先生は難しい顔をして、いつもの明るく太陽みたいに無邪気な笑顔は見せてくれない。マンションの玄関には太陽の光りは届かなくて、照明の人工的な明るさが、いつもの彼なら似合わないのに、今は少し陰った表情とぴったりマッチした。 「林原先生?」 「だって金沢先生ってカッコいいでしょ? ピアノだって弾けて、インテリで、俺と正反対じゃないですか」 「正反対だと好きにならないんですか?」 「そうじゃなくて、男の俺を相手にしなくても、他にいくらでもいるでしょって言ってるんですよ」  そんな相手じゃ満足出来ないくらい、あんたに欲情していたんだってば。 「俺も、その、昨夜は悪かったですけど」 「何が?」  確かに昨日のセックスはほとんど同意のもとだったと言える。俺ひとりが勝手に気持ち良くなっていたわけじゃない。林原先生もちゃんと堪能していたのだから。 「その場の雰囲気ってやつで……その」 「じゃあ、わかりました」 「え?」 「昨日の事はなしにします」  そうはっきりと言い放って、そして腕を捕まえると、玄関のドアに押し付けた。女相手なら、体格差があるから簡単に組み敷けるけど、そうはいかなくて、少し強引すぎたせいで扉に頭をぶつけてしまう。  小さく「痛い」と呟かれて素直に謝りつつも、腕は解いてあげなかった。 「でも諦めてはあげないので」 「……」 「本当に好きですよ」  こうやって近付くと、それだけでどうにかなりそうだ。ゴクッと喉が鳴って、この距離ならその音に気が付かれしまうかもしれない。 「だから林原先生も忘れていいですよ。昨日のセックスは……その代わり」 「! んっ……ンふ……」  壁に身体を押さえつけられて、音楽教師なんて運動とは程遠い俺でも、体育教師で運動神経抜群の相手を閉じ込められた。そしてそのまま、唇を重ねて、舌をまさぐって、唾液が顎を伝うような深くて、休日の昼間には似つかわしくないキスをする。 「ん、んんっ馬鹿力!」 「その代わり、今、怒っていても、気持ち悪くて吐きそうなほどじゃなければ、考えてください」 「む、無理に!」 「ね? 郁登……」  そして壁に押さえつけられた身体をもっときつく捕まえるように、俺の身体を押し付けて、ニッコリと笑った。 「!」  少し暗い玄関の照明の中でもわかるほどに顔を赤くしている。郁登は昨日の事はその場の雰囲気だったから、男同士で盛り上がった結果、一晩だけの過ちで済ませようと提案しているけれど、身体はまるでこのキスに喜んでいるみたいに、その中心を熱くさせていた。

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