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第20話 不良教師の一日
音楽教師って、他の教科を教えるのに比べると、どうもまったりとしていて、呑気な気がしてしまう。
音楽室からグラウンドが見えればよかったのに。窓から見えるのは、朝、一緒に学校へ来るために郁登を乗せた自分の車が見えるだけだ。
ジャージで隠れるところにだけキスマークをつけておいたけど、大丈夫かな。そんなことを考える不良教師ってどうなんだろう。クラシック音楽を生徒に聞かせながら、鑑賞しているふうに見せておいて、脳内では郁登がグルグルと行ったり来たりを繰り返している。
っていうか、郁登はあの元カノと長かったんだっけ。俺にはその長年続く恋人同士っていう関係がよくわかっていない。今までの彼女は……付き合って、大概一年くらいで別れているから、二年目を迎えるっていうのは稀な事だった。いや、ないかもしれない、なんて思い返そうとしている時点でアウトだろ。つまりは全員との思い出があやふやなんだ。
よっぽど好きだったんだろうな、長く続けていたんだから。
暗かったし、遠くにしか確認出来なかったから、郁登の元カノの顔まではよくわからなかった。
でも淡い女性らしい色合いの服装が、清楚な感じで、教師の彼女にはぴったりだと思った。
真っ赤なフェラーリか……俺の印象がそんなだって、郁登は言っていたけれど、あの清楚な女が恋人だとしたら、そう思わなくもない。
及川先生、家庭科の先生っぽい、柔らかい印象の彼女も、あの元カノと同じタイプだと思う。俺にとっては全然そそらないタイプだったな。しかも女性特有の計算力がある気がして、それが見え隠れしているのが、そそる、そそらない、以前に苦手でもある。
自分の歴代の彼女は、たしかに計算高いところもあるけれど、それを隠すんじゃなくて、どちらかと言えば、見せびらかすくらいの女が多かった。
及川先生みたいな、一見清楚そうな女のほうが、失礼だけど、セックスが濃かったりして苦手なんだ。濃いっていうか、ねちっこいというか……だからああいうタイプは一晩だけって事が大概だ。
まぁ、いまとなったら、どんな歴代の彼女も、そしてどんな美人だろうが、郁登のあのクルクル変わる表情と、あの色気には勝てない。
「先生―」
「……」
「先生、音楽止まっちゃいました」
「! あ、ああ、ごめん」
教員が授業中に考えているとは、誰も想像出来ないことを考え込んでいたら、いつの間にか音楽が止まっていた。
高校生にとっての音楽の授業は息抜きってところだろう。音大に進もうって生徒以外には、進学にも、就職にも関係ない、ホッと気を抜いて、リラックス出来る時間、くらいだろ。
だから俺も事細かく音楽を、学問としてはあまり教えていない。どちらかといえば、真面目な言葉でいうのなら、聴いて、音楽を体感してくれればいい。私立のうちでは、音楽室にかけている金も、公立に比べたらかなりのもので、音響設備だけなら、音楽教師の俺も感動するレベルだ。
そんな良い音で良い音楽を聞いて、少しでも何か感じ取ってくれるのなら、それだけで充分だと思っている。
反対に不良教師っていう面から言わせてもらえれば、さしてやる気がないだろう生徒に、進路に差し障りのない知識を無理やり押し込んだところで、何も役に立たないだろうし、こっちも疲れる。
寝ていた生徒も何人かいたけれど、その生徒はそれはそれで、上質な音楽を聴きながら、深くぐっすりと眠れることで、音楽っていうものを体感した――と言えなくもない。
そしてチャイムが鳴ったと同時に、生徒がゆっくりと教室から出て行くのを見送った。この後は昼休みだから、俺も職員室に戻って、郁登を待とう。きっとヘトヘトに疲れているに違いない。
やっぱり音楽教師と体育教師じゃ、郁登は大変だろうから。
俺みたいにのんびりと、生徒と一緒になって音楽鑑賞、郁登の場合はスポーツ観戦ってわけにはいかない。
「あ、あの……金沢先生」
たまに、ごくたまにだけど、授業後にこんなふうに声を掛けられることがある。頬をピンク色にして、そこに教師と生徒、以外の時間を期待していそうな何かを持っている。
及川先生みたいに一見清楚ってタイプは苦手だけれど、高校生はタイプ以前の論外だ。まだ子どもでしかない高校生にそんな感情は一切持ったことがない。いくらのんびりしている、教職者としての意気込みはあまりない俺でも、その辺はちゃんとしている。
だからこんな言葉をかけられた時は、大概、やんわりとかわしながら、そのまますぐに教室から出してしまうんだけど。
「すみません、さっきのクラシック音楽の題名って……」
でもそれが男子高校生だったのは初めてだ。ピンク色の頬が、プニプニとしていそうで、男子高校生というよりも、なんだろう、また全然違う生き物って感じ。
「え?」
「あ! いや、すごく綺麗な曲だったんで、もっと聴きたいなって」
「あ、あぁ、それじゃあCD貸そうか?」
「いいんですか?」
顔の周り一面に花が咲いたように、その表情が明るくなった。高校生は子どもだけど、この生徒の場合は、子どもっていうか、男というか……。
「いいよ、ほら」
「あ、でも授業で……」
「別に音楽なら山のようにあるから、気にしなくていいよ」
「! ありがとうございます!」
嬉しそうにそのCDをぎゅっと握って、笑顔で深くお辞儀をしている。本当に音楽だけに興味があったんだろう。なんだか可愛い小型犬みたいな生徒だ。名前は知らないけど、今のクラスって。
パタパタと駆けて行く姿を追い掛けるようにして、俺も音楽室を出たら、ひとりの生徒が突っ立ったまま、こっちを睨んでいる。教師を睨みつけるって、ずいぶん良い根性をしてる。でもその生徒はついさっきCDを握り締めていた生徒と同じ歳には思えなくらいに、ガタイがよくて、大人だと言われても誰も疑問に思わないほどだった。短髪でこの冬でもまだ日焼けが残っている。運動部系の生徒は、小型犬の高校生比較したら、やたらとでかく思えた。
「ピアノが弾けて、キャーキャー言われてるからって、何だ、たいしたことねぇ」
そう吐き捨てるように言われて、いくらこっちが教師だとしても、喧嘩を売られているとしか思えない。「はぁ?」そう突っかかりたくなる。
「……なんだ、あれ」
別にキャーキャー言われていると思っていない。こんな子どもにモテたところで、何ひとつとして嬉しくない。
あのデカイ生徒が何で、俺に喧嘩を売ろうとしているのか知らないし、いちいちつかっかることこそ子どもみたいだから、グッと堪えるけれど、明らかに敵視されていた。
「アハハ、喧嘩売られたんすか?」
「何で笑ってるんです。林原先生」
「だってキャーキャー言われてって」
プププと、笑うを堪えるのすら楽しそうにしている。CDを借りていった小型犬の生徒がいたと話すと、すぐに誰のことなのか思い出したように名前を教えてくれた。|市川翔麻《いちかわしょうま》、背が小さくて、背の順で並ばせると毎回一番前にいて、どこか自分の身長を欠点に思うのか、表情を暗くさせてしまうから、並び順をいつもランダムにしている、なんて優しい体育教師だ。
「優しくなんてないですよ。人に嫌な顔をされたくないだけ」
「……」
「だから美里ともズルズルって……結局泣かせてたし」
長年誰か特定の相手と付き合った事がない俺は、あまりしない表情だった。
「って、それを今、金沢先生に言うのは変ですよね」
ここが職員室じゃなかったらよかったのに。押し倒してキス出来たのに。良い言葉が出てこなくて、そんな返事しか思い付かなかった。
あの時、音楽準備室であんなふうに郁登を残酷だって言ったけれど、それを今、優しさだって訂正するのはズルいだろうか。今、こうやって恋人同士になれた余裕が言わせる一言は、それこそちゃらんぽらんな言葉なんだろう。
「喧嘩売ったほうの生徒は……あれかな」
「知ってる?」
「んー風貌はそうなんだけど、あのふたりって接点なかった気がする」
たしかに共通点なんてひとつもなさそうなふたりだ。でもたしかにガタイのいいほうの生徒は、あの市川翔麻を見ていた気がした。走り去る背中を見送って、ほとんど同時に音楽室を出てきた俺を睨みつけていた。
「単純に、金沢先生に腹を立てたとか?」
「なんでよ」
「だって不良教師だから」
よく知ってるね、って笑った、頬を膨らまして怒っている。俺の恋心をわからずに、俺メインでお茶を淹れてくれた及川先生や、コンパなんてとこに現れた女子アナに、可愛いヤキモチを妬いている。
「そうだ、今日の部活って林原先生どうなってます?」
「へ?」
俺のものだっていう、お互いの肌に残した印。その印には、俺だけもっと可愛い独占欲が混ざっているって、まだこの人はわからずに、ポカンとこっちを見ながら、昼飯をその柔らかい唇でパクパク食べていた。
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