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第21話 部屋に残るのは
部活が終わる時間なんて、それぞれだ。今まで気にしたこともなかった、水泳部の練習が終わるのを、ずっと職員室で待っていた。
何人かが残って仕事を片付けている中、のんびりと机を片付けたり、音楽のCDを探してみたり、忙しく進路の資料を作っている先生や、小テストの作成をしている先生に申し訳なく思いながらも、ずっと時間を潰していた。
「いたっ!」
ガラガラっと少し乱暴に扉を開けて、静かな職員室では目立つその音と一緒に、元気な郁登が慌てて入ってきたかと思ったら、俺を引きずるようにして帰っていく。ジャージの郁登は着替えもしなければ、荷物も最小だ。逆に鞄もコートも必要な俺は、慌てて自分の荷物を手にして、どうにか忘れ物はせずに済んだ。一刻の猶予も許されないくらいに、急いで職員室を引きずられていく。
「あ、金沢先生、お茶……」
頼んでもいないお茶をまたお盆に乗せた及川先生に手を振って、不思議そうな顔で見送られながら、どうやら俺はこのまま本当に帰ることになるらしい。
「どうかした? 林原先生」
「あんたなっ! ……金沢先生」
言いかけて、学校の廊下は思いのほか、声が響くと知った郁登は慌てて口を噤んでいる。そしてその言葉の続きは、俺の青い車に乗り込んでから、好きなだけ大きな声で言いたいらしい。
「何? そんな怒って」
「忘れてた! キスマーク!」
水泳部の顧問なのに、水着になれなかったじゃないかって怒っている。律儀に一週間の水泳部の予定を教えてくれたのは郁登だ。
お互いのものだっていう印。ちゃんと俺の肌には郁登の爪痕と歯型が残っている。
郁登はぶつぶつと文句を言っているけれど、車を降りる気なく、助手席のシートに深く座って、こっちを睨み付けている。
「どっちの家?」
「へ?」
「俺は郁登の部屋、見てみたいんだけど」
明日は休みだ。どこかに外食をしてから、郁登の部屋へ行くのでもよかったけれど、いかんせん白が眩しいジャージで行ける店は限られていて、それならいっそ、最初から部屋に行きたい。そう告げたら、怒りながら、頬を染めて、そして唇を尖らせて、とても忙しなく表情をクルクルと変化させている。
部屋に俺が来るなんて思ってもいなかったから、ちっとも片付けられていない、なんてまるで初めて彼女を家に招くみたいな郁登に、思わず運転しながら笑いが零れた。
俺だって男なわけだから、部屋がピカピカに磨かれているなんて、ちっとも思っていない。逆に人が来るような予定もないのに、埃ひとつないような男の部屋のほうが珍しいだろ。潔癖症でもなければ、男のひとり暮らしなんて、誰のところも大して変わらない。
「!」
余計なことに気が付いてしまった。
郁登は元カノと長かった。それなら、郁登の部屋に彼女は何度だって、それこそ数え切れないくらいに上がった事があるんだろう。実際、このあいだは家の前で、帰りを待っていたくらいだ。
なんだ……これ……。
胸がギリギリと音を立てて軋む。馬鹿なんじゃないのか? 部屋にあがった女なら、俺だって何人もいただろ。それが郁登の場合だけは、何をこんなに嫉妬で胸の辺りを焼けそうなくらいに痛ませてんだ。
「健人?」
車内で弾んでいた会話がふと途切れた事を、不審に思った郁登がこっちを覗き込もうとしている。
「……郁登」
「?」
長い付き合い、それは今の俺には到底追いつけない、埋められない差だ。どんなにもがいたところで、時間はどうにもならない。
郁登の部屋に初めて訪れる俺と、何度も上がって、掃除だって洗濯炊事、家事をまるで結婚の事前練習みたいにこなしていたかもしれない……かもしれない、じゃなくて、きっと家事をやってあげていた。郁登のために。俺が甲斐甲斐しく世話をする、それとはまるで意味が違う。将来、こんな相手を妻に、嫁に、そう想像しながら、郁登もその隣で笑っていたんだろうか。長い付き合いの先には、きっと結婚が――。
「あ、そこを左。あのマンションがそう」
「!」
前回来た時は、居酒屋からそのまま郁登の家だったから、学校からの距離感が掴みづらかった。こうやって学校から直接向かうと、その近さは車を使うには短すぎるものだった。たしかにこれならジャージにチャリで充分かもしれない。
「本当に近いんだ」
「そう言っただろ。ここ、うち、でもこのまま真っ直ぐ、そしたらコインパーキングあるから」
頷いて、言われたとおりに、元カノが立っていた場所を通りすぎる。
そういえば合鍵は持っていなかったんだろうか。話があるとして、合鍵を持っていれば、部屋の中で待っていることだって出来ただろう。どんなに着込んでいたって、真冬なんだ。いつ帰ってくるかもわからない、しかももう一度別れ話をしてしまった相手を、あのまま外で待つのは、人目もあるし。
でも逆に別れ話が済んでいるんだから、合鍵をまだ持っていても、部屋に上がるのは有り得ないのか?
「健人?」
「!」
本当にバカになったんだ。何を部屋に上がる上がらない、どっちが今の郁登を占領出来るか、なんて必要のないことで考え込んでんだ。この肌に残ったお互いの印があるんだ。男である俺には出来ない事があるかもしれないけれど、それでも今、この郁登を独占出来るのは俺だけだ。
「健人? ちょ、ここ、外だぞ」
「少しだけ」
舌を唇から覗かせつつ、郁登の首を引き寄せた。運転席に倒れ込むようになった郁登が、俺に覆い被さって、駐車が終わったけれど、エンジンをまだ切っていない車の中、薄暗くてきっと誰にも見つからない、屋外で、甘く唇を重ねた。
「んふっ……ふ」
一度、息継ぎをして、それからもっと深く舌を差し込んで、キスを濃くしていく。
「な、どうしたんだよ、健人」
「……」
じっと瞳を覗き込むと、向こうも俺が何かに焦っているような様子に、不安そうに瞳を覗き込んでいた。
部屋に元カノの痕跡があったら――きっとバカになってしまった俺はへこむんだろうな。定番の歯ブラシはなくても、案外、天然の郁登のことだから、どこかに残り物を置いたまま、忘れていそうだ。それがもう絶対に必要ない、女物の着替えとかだったら、最悪だ。
「部屋、上がんないのかよ」
「……上がるよ」
最初に片付いていないと宣言しておいた郁登は、俺の様子が急に変わった理由を、そこに繋げていた。
「早く行こう」
「それをキ、キスで遅くしたのは健人だろ」
「アハハ、そうだった」
自分で自分の感情に振り回されている。まるで制御出来ていない恋心は始末が悪い。まさか部屋に残っているかもしれない残骸にさえ、こんなに落ち込みそうになるなんて。
男ふたりが並んで歩いていても、誰もそれを見てニヤリと笑う奴はいない。こんな住宅地を夜、並んで歩くのが男女じゃない限り、ああ、これから部屋に行ってイチャつくのね、とはならない。
外は日が暮れた今、やっぱりかなり冷え切っていて、ジャージだけの郁登は寒そうに肩を竦めて歩いている。マフラーを持ってきておけばよかった。コートを貸しても、ほんの数分歩くだけの距離じゃ、必要ないって断られるだろう。でもマフラーなら一瞬巻き付けてしまえばいいだけだ。
「どうぞ、うぅ~寒っ」
郁登は慣れた手つきでエアコンのスイッチをオンにすると、身体を極力縮ませながら、ワンルームの部屋の流しへと向かう。
「健人」
「?」
あまりキョロキョロとしたら、部屋の残っている元カノの痕跡を見つけてしまうかもしれないのに、それでも視線は何かを探すように、辺りを見渡そうとする。
「あの、何、飲む? 明日、休みだし……その、さ」
「酒、飲んでもいいの?」
そしたら帰れない。代行を呼んでまで、週末に帰ろうとは思わない。愛しい人の部屋から、自分ひとりの部屋へなんて。
「い」
いいよ――その言葉を待っていたら、また最悪なタイミングで、部屋のチャイムが鳴った。
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