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第22話 別れたくない

 アポなしで訪れるには少し遅い時間。そしてタイミングの悪さ、チャイムを鳴らした人物が誰なのか、すぐに思い立ってしまった。  郁登も同じ人物を思い浮かべて、はぁ、と重い溜め息と一緒に立ち上がった。 「……出ても?」  頷く以外にないだろ。ただ郁登が俺に一時でも席を外せって言ったなら、それは拒否するつもりでいた。 「ここにいて。すぐに終わるから」  でも郁登はそれを言わなかった。そして溜め息と同じくらいに重そうに、玄関へと向かう。  ゆっくりと玄関を開けて、この寒い中、郁登が外へと出て行った。夜に外で立ち話なんて、常識的にしないけれど、郁登はそれをあえてやる事で、彼女に手短に話を切り上げる。そして自分から話をする事はもうないって、無言で伝えている。  扉が開いた一瞬だけど、彼女の顔が見えた。見たくて見たんじゃない。目が自然と追いかけていた郁登の肩と扉の隙間から、見えてしまっただけ。  見なければよかった。自分が中にいれてもらえないとわかった彼女の、ものすごく驚いた顔、そして、扉が閉まる瞬間に泣きそうに歪んだ顔。  どのくらい待っていたんだろう。案外、玄関の作りがしっかりしているらしく、ワンルームで、扉に直結した部屋の中に、一切、ふたりの会話は聞こえてこない。 「……」  短いとは思うけど、それでも俺には長く感じられた数分。  どうしようかと思った。郁登はもう完全に別れたつもりだったのに、それでも家に郁登が帰った瞬間、鳴らされたチャイム。ストーカー手前に思えるくらいに、まだ別れたくないともがく彼女を、あの郁登が突き放せるんだろうか。  そんなことを考えながら、気が付いたら、俺はすでに扉の前で待ち構えていた。  ――ガチャ!  彼女が無理にでも扉を開けて、中の様子を探る気がしたから、ここで待っていた。 「!」  中にいるのが女だと思った彼女は、出迎えているのが男だって事に目を丸くして驚いている。 「美里!」 「……え?」  自分よりも小柄な彼女を通過させてしまった郁登が慌てて、その腕を追い掛けて、部屋から引き出そうとするけれど、彼女は俺を見つめたまま、乱暴にその腕を振り払った。  何で男? てっきり新しい彼女だと思ったのに、そう笑えるくらいに顔に書いてある。自分の元カレが男とくっついていたら、そりゃ信じられないだろう。ショックすぎて、きっとこの状況は今、よく把握出来ていない。 「あんたが林原先生の元カノ?」 「……」 「困ってましたよ? もう彼女がいるからって」 「え? だって、今、この中にその相手が」  全く……この人は何でそう真っ直ぐなんだよ。いくら長年付き合っていた彼女だとしても、もう関係が切れている。しかも自分から別れを切り出したくせに、復縁したいなんて思っているような、ずっとタイミングも悪い、そんな女に今付き合っているのが男なんて知られたら、この後、どんな噂を立てられるかなんて、わかったもんじゃない。こんな場面でスクスク日向で育った部分なんて出さなくていいのに。 「健人」  笑ってしまいそうなくらいにゾクゾクした。俺はここで先生として郁登の名前を呼んだのに、郁登はそれが聞こえていなかったのか、俺を下の名前で呼んだ。まるで恋人みたいに。元カノの前で。 「いないって……あんたのほうがこの家の事知ってるだろ?」 「……」  俺が平然と嘘を吐くと、まだ頭の整理がついていない、頭の回転が悪い彼女の後ろで、郁登が辛そうに顔をしかめた。  ここに郁登の新しい彼女は来ていない。元カノである、あんたがまだ未練があるらしくて、どうしたらいいのかって、同僚である俺に相談をしてきたから、今日、その話をしようとこうやって来ていただけだと説明する。 「で、でもいるんでしょ! その新しい彼女!」 「美里」 「あのさ、別れたいって言ったのはあんたのほうなんでしょ? それが、ただ気を引きたいだけの嘘だろうが、本当だろうが、そんな事を言われて、別れたいって一方的に言われた林原先生の気持ち考えた?」 「……」  誰にでも良い顔するのは確かに残酷だとは思うよ。それは自分を好きでいてくれているようで、何の感情も抱いていないのと同じだから。確かめたくもなるだろ。自分への気持ちの重さを、大きさを、そして種類を。ただあんたは間違えたんだ。その確かめ方を。 「でもだからって、別れてすぐに、あんな、もう……」  そして彼女は恨めしそうに、郁登へと振り返った。でもその視線は郁登の日向育ちの瞳じゃなくて、少し下の辺りをじっと恨めしそうに睨んでいる。  あぁ、なるほど……彼女はキスマークをそこに見つけたんだろう。抱きつくかどうかして、その腕を解こうとした郁登の首筋から、チラッと俺が付けた所有を示す印を見つけた。  長年付き合っていたのに、その時間分の寂しさもなく、あっという間に乗り換えて、そして身体までもう……そんなのってひどい、って言いたいわけだ。 「じゃあ、あんたもこれは自分の男だって、いつだって誰にでもわかるようにしておけばよかったのに。その新しい女の所に行かれる前に」 「……」 「もう遅いだろうけど」  彼女にとって、きっと結婚まで考えていただろう相手との突然の別れは、ひどく空虚だ。あんなに長い時間かけたのに、離れる時はあっという間だなんて。そう小さく震える肩が言っている。 「どうしてなのよ……どうせ、その彼女とだって、別れたいって言われたら、はい、いいよって言うんでしょ! いつだってそうじゃない! 付き合ってたって、郁登の意見なんて!」 「ごめん……」  その謝罪に彼女は小さくなった肩に力を込めた。平手打ちをするつもりだと、咄嗟に手を伸ばしたけれど、彼女のその勢いを止めるように、郁登が口を開く。 「その人とは別れたくない」  その言葉は彼女の未練も、重いも、長年一緒にいた思い出も全部を切り裂いた。 「美里とはずっと学生の時から一緒で、何もかもを理解してくれているって、だから居心地が良い。それを俺は好きって思っていた」 「違うっていうの?」 「ごめん、本当にごめん。それは“好き”とは違う」  今、郁登がしていることはものすごく残酷だ。彼女は知らない。その郁登の想いが向いている先にいるのが、今、ここにいる俺だって事を。 「その人が別れようって言ったのなら、俺はきっと必死に引き止める。だから、今の美里の気持ちもよくわかるんだ。わかるから、俺の持っていた美里への気持ちが恋愛感情じゃないって、ものすごくわかってしまう」 「……ずっと一緒にいたのに」 「ずっと一緒にいた間に気が付いたら、風化してた」  ずっと泣かずにいた彼女が、ポロって一粒涙を落とした。 「俺は美里を好きじゃなかった」  その言葉を聞かされて、もう彼女の中で何かが静かに手の中から零れて逃げていく。 「……だから、私には合鍵もくれなかったんだ」 「……」 「だからいっつも笑顔だったんだ」 「……」  別れ話はいつだって残酷だけど、それをこの立場で聞くと、痛みがひどくて、訊いていられない。  最低――そう吐き捨てて、肩を思いっ切り郁登へぶつけて、部屋を去る彼女は合鍵も何も置いていかなかった。靴を脱ぐこともなく、玄関より先に入ることも出来なかった。  可愛らしい、女の小さな足を彩るパンプスが、男とは違うコツコツと小さな足音を立てて去っていくけれど、郁登はそれを追い掛けることもしなかった。

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