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第32話 唐辛子は入ってないよ

 真剣な交際、と言えるほど真剣に一途に誰かを想ったことはなかった。  女遊び、と言うほど誰彼かまわずに付き合っていたわけでもなかった。  ちゃらんぽらん、まさにそれが一番ぴったり来るかもしれない。その場の気分で付き合った女性もいたし、自分から好きだと自覚して付き合う場合もあった。  でもそのどれもが一年くらいしか続かずに終わっていた。だから自分が結婚している姿を思い描くこともなかった。結婚したいって思うような事もなく、このままダラダラと過ごす気がしていた。  それに対しての焦りもなかったけれど、女性にモテると優越感に浸るほどでもない。どっちつかずで煮え切らない。きっと、だから誰とも長続きしなかった気がする。 「健人、いるかー?」  チャイムもなしで開いた玄関から、ひょこっと郁登は顔を覗かせた。 「いるから電気が点いてるんでしょ」  慣れない手付きで野菜を切る事と格闘していた俺は、真剣にしめじと向き合っていた。どうしてしめじの石づきって取りにくいんだろう。包丁で一刀両断にして、石づきを取ってしまうと、しめじの丈が短くなってしまう。かといって、しめじを充分な長さで、となれば、石づきがところどころ残ってしまう。  ポン酢がなかったと、郁登は近くのスーパーまで買いに行って、俺はその間、鍋のための野菜を切り続けていた。 「まだ終わってないの?」 「あのね、料理なんてほとんどしないんだから」 「鍋なんだから適当でいいでしょ。ほら」 「……」  そういいながら、石づきのまだ残っているしめじを手に取ると、そのまま指で必要のない部分だけを千切り取っていく。  俺がそれをぼけっと眺めていると、今度は白菜も手で千切り始めた。 「レタス感覚?」 「だって白菜大きくて、切りにくいだろ。だからこれで葉っぱの部分だけ千切って、それから切ればいいじゃん。大鍋で作るのに、包丁使ってたら、いつまで経っても食えない」  大鍋って……三人前くらいの一般的な土鍋なんですけど。ちゃんこ? 郁登がしている顧問って水泳部だよね? 相撲部のちゃんこ番の話をしているわけじゃないよね?  鼻歌交じりに白菜を千切って、俺が心の中でだけツッコミを入れている間に、まな板の上には葉のなくなった白い茎だけの白菜が積まれていた。 「バーベキューとか炊き出しとか、大学でそんなんばっかしてたからなぁ。やっぱ音楽関係の大学って、そういうのしないの?」  文系とか芸術系の大学だからって、上品に室内でしかイベントをしないわけじゃない。バーベキューも炊き出しもしたことがある。文化祭の炊き出しはすごく盛り上がったんだ。ただ、そういう時でもちゃんと包丁で材料は切っていたってだけ。千切って鍋へポイなんて、豪快な事はしなかっただけ。 「? 大丈夫だって、手洗ったし」  別にそれがイヤで、郁登をじっと見つめていたわけじゃない。  色々違うところはあるんだよ。お互いに育った畑が違うというか。まさに子どもの時から、体育が一番得意で外を走り回っていたような郁登と、ピアノのレッスンが週に何度もあって、夏も冬も変わり映えのしない適温の中で過ごしていた俺とじゃ、色々と違う部分がある。  些細な違いもあれば、大きな違いもある。  俺はきっと自宅と学校が近いからって、ジャージでは行かないだろうし、レタス以外の野菜は手で千切らない。 「さすが体育の先生、豪快」 「……なんか、からかわれてる?」 「まさか、褒めちぎってる」  千切るだけに、そう耳元で囁いたら、少しだけ肩を竦めて、耳に吹き込まれる息に感じている。 「ごまだれも買って来たんだ」  そう甘い吐息交じりに答える郁登が可愛いすぎて、鍋よりも早くこっちが食べたくなってしまう。  育った環境の違いが面白い、そう思える相手も初めてだった。まるで初恋みたいに、いつだって、この人の全てに胸が躍る……なんて、きっと腕の中で俺の唇に目を伏せたこの人は知らないんだ。 「ねぇ、郁登」 「ん? ぁ、ん」 「ご飯にします? それとも俺にします?」  そう遊び半分で言ったら、そこは風呂だろって、可愛い喘ぎ声でツッコミを入れてくれた。 「俺、キッチンで、とか初めて……」  なんて呟かれて、下半身が一気に食事モードの空腹よりも、もっと凄まじく自己主張するもんだから、ちょっと自分でも笑ってしまったほどだった。  ようやく鍋にありつけたのは、郁登が買い物をして戻ってきてくれてから、数時間も後になってしまった。  運動の後の食事って最高だよね、なんて、まるで俺が体育教師みたいなことを笑って言ったら、頬を赤くして照れていて、ふたりで囲む鍋の湯気と混ざって、どこかこそばゆいもので胸がいっぱいになっていく。 「鍋って一番の好物かも」 「へぇ」 「すっごい久し振りに食べたなぁ」 「え?」  彼女と毎年食べていただろう鍋の感想が予想と違っていて、思わず聞き返してしまった。彼女と食べてたでしょ? そう訊かなくていいのに、訊いてしまう。 「あー……今年は食ってない、かな……なんかお互いに忙しくて……」 「……」 「今、思えば、冬前から溝があったのかも。っていうかさ、健人こそ、いつも女の人に作らせてたんじゃないのかよ」  それを言う? ここで? 出されたから、だから何となく食べる鍋と、こうやって慣れない包丁を握ったり、話をしながら、キスをしながら作った鍋は全然違う、なんて言わせたい?  ものすごく恥ずかしいんだけど……まさか俺が鍋囲みながら、こんなふうに照れる時が来るなんて思いもしなかった。 「なんで顔を赤くすんだよっ!」 「あのね、違うって」  俺が赤くなった理由を全く違うものと勘違いしている。湯気の向こうで、少し目に涙すら溜めていそうな男に、胸が締め付けられて苦しいくらいに、夢中なんだって、そんなのを言うのは、どうにかなりそうに恥ずかしいだろ。  初々しいにもほどがある。後島じゃあるまいし、恋に不慣れな高校生みたいに照れている自分に、また余計に照れて、収集がつかなくなっている。 「じゃあ、なんだよ」 「あのね……」  そんなに真剣に食い入るように見つめないで欲しい。顔から本当に火が出そう。ただの水炊きのはずなのに、唐辛子でも山盛りに入れたみたいに、身体が熱くなってくる。 「……なんだよ、言えよ」 「……」  本当に、あんたって質が悪いな。これが天然ボケじゃなくて、計算だとしたら、どんな計算高い女も太刀打ち出来ない。 「郁登と食べる鍋が一番美味いよ」 「ただの水炊きなのに?」 「あのね、本当に、いい大人がしどろもどろになってるんだから、わかるでしょ」  本当に身体の芯から熱くて、顔を横に向けながら、パタパタとシャツをはためかせて、肌に風を送り込んでみるけれど、それでも全然冷めてくれそうにない。それが郁登が輝く瞳で俺を嬉しそうに見つめているせいだって、本当に声を大にして苦情を、目の前にいる質の悪い大人に申し立てたくて仕方がなかった。

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