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第33話 鍋の向こうの君

 長年、同じ彼女と付き合っていたら、そりゃ誰だって考えることってあるだろ。 「へ? 結婚、ですか?」  大嶋先生が元々デカイ口を更にポカンと開けて、教師には思えない間抜け……呑気な顔をしている。  なんで俺に、その質問を? そんな感じだ。  俺だって大嶋先生に訊いてみたところで、頷けるような答えが返ってくるとは期待していない。でも郁登と同じ体育教師で、俺よりもずっと前から仲は良かった。元カノの事だって知っていたみたいだし、それなら郁登が結婚を考えていたかどうかとか、結婚についての自分の考えを大嶋先生に話していたりするかもしれない。  ただ単刀直入にその本題を訊くのは不自然だから、まず最初の入り口として、大嶋先生本人の話として訊いただけ。 「んー……俺はまだ考えてないかなぁ、まず、彼女いないし」  知ってます。彼女いないのに、結婚願望だけ膨らませるほど、結婚そのものに焦っているようには見えない。呑気にコンパをしているくらいなんだ。そのコンパだって、楽しいかどうか優先で、彼女を必死になってまで作ろうとは考えていない。 「ですよね。長く付き合っている彼女がいたら、考えますよね」 「そうっすねぇ」 「そういえば、林原先生って長く付き合ってる彼女がいたけど」 「なんで別れちゃったんすかねぇ。すっげー長かったらしいけど」  俺が横恋慕したからです。と宣言出来るわけもなく、破局の原因になった俺を前にして、大嶋先生は誘導されるまま、郁登の話を始めてくれた。 「林原先生も結婚とか」 「いやぁ、どうなんだろ。そんな感じの事は言ってなかったなぁ」 「……」 「長く付き合っている彼女がいるなら、結婚とか? ってからかったら、アハハって笑いながら、なんか照れてましたよ。ほっぺたポリポリ掻いて」  その仕草は知っている。  郁登が困った時、何かを断りきれずに、どうしようかと考えつつも、相手を気遣っている時の癖だ。  結婚、考えてなかったんだろうか。もう新米教師ってわけじゃない。男はそこまで考えてなくても、彼女のほうはそろそろって時期。いくら断れない性格の郁登だからって、嫌いな子と長年付き合ったりはしないだろう。ほんの少しくらい“結婚”って文字が頭の中をチラついたりはしたはずだ。 「もっもしかしてっ! 金沢先生、結婚っ!」 「えええっ!」  立ち上がってまで驚いていたのは家庭科の及川先生だ。 「いや、今、別にそういった相手がいるわけじゃ」  そう返すしかない。彼女がいると答えるのは難しくて、少し声を小さくしてそう答えたけれど、及川先生はしっかりと耳をこっちに向けていた。  俺の返事に、ほっと胸を撫で下ろしていて、そこまであからさまに反応されると、ドッキリか何かなんじゃないかと疑いたくなる。 「モテますもんねぇ、金沢先生」 「モテないですよ」 「あまりにモテると、誰を人生の伴侶にするか迷いますよねぇ。いいなぁ、俺もそんなふうに悩んでみたい」 「……」  人生の伴侶、そんな相手を探そうと思ったことはなかった。今までいた彼女が、うちへ来て、料理をしているのをぼんやりと眺めていただけ。ただ本当に眺めていただけで、リビングにいた俺と目が合って微笑む彼女に、何も考えずに微笑み返していた。それを温かい幸せだと、心の中で実感する事はなかった。  でも、郁登と鍋を一緒に作って、向かい合わせにそれを囲んで、お互いの間に立ち上る湯気にさえ、幸せだと思った。  笑いながら、からかい合いながら、不器用ながらに一緒に鍋を作る時間を大切だと感じた。一緒にキッチンに立っているあの時間は、今まで味わった事のない、なんとも言えない温かさがあった。 「人生の伴侶……」 「そうっすよ~」 「って、どんな時に決めるんでしょうね」  そんなの結婚を今まで考えてなかった大嶋先生にわかるわけがない。「う~ん」と唸りながら、腕を組んで、絵に描いたように頭を捻っている。 「あ!」  閃いた! と顔を明るくした。 「やっぱりあれじゃないですか? キッチンに立つ彼女の背中を見て、あぁ、この人とずっと一緒にいたいなって思うとか?」 「!」 「君の味噌汁をずっと飲みたい! とかよく言うじゃないっすか」 「!」  キッチンに立つ郁登の姿に俺が思った事、味噌汁じゃなくて、一緒に囲んだ鍋がやたらと美味くて、いつだって食べたくなるくらいだった事。 「金沢先生? 顔、真っ赤っすよ?」 「!」  これって、俺ってもしかして……。 「大嶋先生いますー?」  その時、ガラガラと職員室の扉が開いて、今日は紺色のジャージを着た郁登が、爽やかな汗をかいて、日向育ちの笑顔で入ってきた。  大嶋先生は手を上げて元気に返事をすると、その郁登のもとへと駆けていく。 「体育倉庫の鍵、持ってないっすか?」 「あ……」 「も~、ちゃんと戻してくださいよ~」  アハハと呑気に笑った大嶋先生が自分のポケットから鍵を取り出すと、それを差し伸べられた郁登の手の中に置いた。  誰も知らない俺と郁登の関係。もちろん結婚なんて有り得ない同性同士の恋愛。でももし人生の伴侶を、今さっき大嶋先生が言っていた条件で探すとしたら、俺は誰でもなく郁登を選ぶ。  人生の伴侶、ずっと一緒にいたい、そう思える相手は誰ですか? そう訊かれたら、どんなに考えても、俺は郁登以外を思い浮かべる事は出来ない。  ふたりの体育教師が話しているのを、ボケッと眺めながら、今、自分の中でしっかりと形を持って出来上がった想いに、段々と顔が赤くなってくる。 「そしたら、俺がこのままこれ持って行きますよ。林原先生」 「いいんすか?」 「それより、林原先生が相談に乗って上げてください。金沢先生の」 「へ?」  慌てて立ち上がって、大嶋先生の言葉を遮ったけれど、本人は自分よりも適任だと思われる相談相手を紹介出来たことに満足そうに笑って、のほほんと職員室を後にしてしまう。  なんの話なんだと、不思議そうに彼を見送った郁登は、何度か扉のほうへ振り向きながら、言われたとおりに俺の相談に乗ろうと、素直にこっちへ来てしまった。 「何かあったんすか?」  あったんだよ。俺の人生の決定的瞬間が。 「相談って?」  大嶋め……余計な事を。っていうか、彼に相談するのがそもそも間違いだったんだけど。それでも誰かに話したかったんだ。あまりに初めての感情ばかりで、戸惑っていたから。 「何?」 「!」  湯気の向こうで微笑みながら、同じ鍋を突付く郁登。野菜は手で千切ったほうが簡単だって、俺には思いつかないことを笑ってやってのける。俺にはないものを持っていて、俺が味わったことのない幸せをくれる人。 「どうかした?」 「な」 「?」 「なんでもないよ」  見つけてしまった最高の相手、でもそんなこの人に、どうやったら想いを伝えられるのか、俺はまるで恋愛初心者みたいに、また悩みがひとつ増えてしまった。

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