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第35話 給湯室の内緒話
手作りチョコをただ作ればいいってわけじゃないことに気が付いた。ラッピングもしないといけないし、材料を揃えれば済んでしまうわけでもない。今までろくに料理をしたことがないから、ヘラだ、軽量カップだ、測りだと色々とお菓子作りに必要な調理器具も揃えないといけないらしい。
こんな時に家庭科の知り合いがいて本当に助かった。
「え? 調理器具を貸して欲しい?」
「ダメ、ですか?」
本当に申し訳ないけど、一切、その気がないのに、少し頼らせてもらった。君しか頼めないんだと、寄り掛かるようにすると頬を染めて、迷うフリをしつつ頷いてくれる。
「あの、でも、何に使うんです?」
「姪っ子がチョコを作るらしいんですよ。で、親には内緒にしたいらしくて、調理器具って全部揃えたら高いみたいだから」
そう、本当に高いんだ。しょっちゅうお菓子を作るならともかく、今回のバレンタインにだけとりあえず必要なんだから、それを全部買い揃えるよりかは、借りてしまいたい。俺を好き、らしい及川先生は、姪っ子のチョコ作りを手伝うのならと、承諾してくれた。
もちろん学校の備品を私物化するわけだから、本来はやってはいけない事なわけで、チョコを作る前日にしか貸せない。そして終わったらすぐに返して欲しいっていう条件が付いてくる。
もちろんです、と笑顔で返しながら、少し申し訳ない気もしていた。
「あの、バレンタインって」
「ええ」
「金沢先生には……」
「いますよ」
希望を持たせるつもりはない。これで器具を貸せないと言うほど、彼女は子どもじゃないし、それならそれで仕方がない。来年も郁登に作るかもしれないからと、急いで買えばいいだけの話だ。借りられたらラッキーなだけ。
「いるんですか?」
彼女に気を持たせるような事はひとつも言っていないし、お茶を淹れてもらったくらいで、あとはそんな態度を取ったことはない。それでも及川先生はショックを受けている。
「すみません。ここ職場なので、あまり人には言ってませんが、います」
「……」
「すごく大切な人が」
ヤバい……自分の口からこんな言葉が出る日が来るなんて思いもしなかったから、火が吹き出そうなくらいに顔が熱い。そういうキャラじゃないんだ。でもそんな今ままでの自分なら持てなかったものが、今、俺の中には山盛りにある。
昔付き合った女性が、俺がチョコを作るなんて知ったら、驚いて腰を抜かすかもしれない。あの健人がそんなことをするような相手はどんな人なんだって、見てみたいと思うに違いない。
郁登以外誰も知らない。恋にはしゃいでいる俺なんて。
「そ、うなんですか」
「すみません」
「……」
そして頭を下げて給湯室を出た。
「郁登?」
職員室の前、掲示板をじっと見つめていた郁登がいた。俺が名前を呼ぶと、静かにこっちへ顔を向けて、ただ黙っている。
「どうかした? 掲示板なんて」
「……」
掲示板に貼ってあるのは、防犯のポスターや、進路関係の情報くらいで、郁登がじっと見つめるほど重要な情報はない。
「まさかとは思うけど、もしかして疑ってる?」
「!」
給湯室で教師同士が鉢合わせることはけっこうある。授業と授業の合間、休憩時間、ある程度、一週間のタイムスケジュールは同じだから、その中で何度かコーヒーやお茶といった飲み物を作りに行くタイミングが重なる場合はある。
それでも給湯室っていう、生徒には立ち入ることが禁止されている個室で、俺と及川先生が話し込んでいた、それにあらぬ疑いを持つかもしれない。
「そんなわけないでしょ」
「……」
郁登の瞳が質問を無言でぶつけてくる。「じゃあ何の話をしていたんだ」って。
「姪っ子がさ、お菓子を作るらしいんだ。それなら家庭科の及川先生に色々訊いたらいいと思って、ただそれだけだよ」
半分が本当で、半分が嘘だけれど、そんな俺の言葉ひとつひとつを噛み締めるみたいに、郁登は黙って聞いていた。言ってしまってもいいかもしれないけれど、出来たら、言わずにサプライズで渡したいんだ。俺なりに人生でそう何度も訪れないような、もしかしたら一度だけの、すごく大事な事だから。
郁登の返事はものすごく知りたいし、それはすごく重要なんだけれど、それ以上に、こんな事を決意出来た自分が嬉しかった。
「ホントに?」
「本当だって」
「……」
廊下で教師がふたり見つめ合いながら、長い間話をすることは難しくて、まだ確かめたいって顔をしていたけれど、そんな郁登の後ろから生徒の話し声が聞こえてきた。
ハッとして、お互いに視線を外すと、まるで何もなかったみたいに俺は職員室へ、そして郁登は別の場所へと歩き始めてしまう。
扉を開けながら振り返ったら、生徒に人気のある郁登はすでにもう何人かに囲まれていた。
不安そうな顔して……そんなのこっちこそ、不安だっつうの。
冗談っぽく言ってはいるけど、郁登が水泳部の顧問っていうのだって俺は不安で仕方がない。あの裸を俺以外だって見ているって思うと、腹の辺りが急にカァッと熱くなる。誰にも見せたくなんてないし、あの裸を見て誰かが欲情しないとも限らないんだ。
それに長年、あんな清楚な彼女と付き合っていた。俺の付き合っていたような相手とは全然違う、夜遊びすらあまりしなそうな彼女。男と女って時点で、俺と彼女には決定的な違いがあるけど、それだけじゃない違いがたくさんある。いつ郁登がやっぱりって向こうへ戻ってしまうか、俺にも誰にもわからない。
体育教師としてだけじゃない、人として人気者なんだよ、あんたってさ。
そんな皆から好かれているような人が、いつ自分の両手からいなくなってしまうのかって、どんなに小さくてその不安はいつだって抱えてんだ。
でもだからこそ、俺はこの想いを伝えるんだよ。真剣に、今までちゃらんぽらんだった男が本当に真剣に未来を考えた人なんだって伝えるために。
子どもがはしゃぐようなイベントかもしれない。ただチョコを渡すっていう、お菓子業界の策略かもしれない。それでも俺は勝負してみたいと思ったんだ。郁登との未来を。
「……」
何も知らない郁登の背中に視線だけで、強い決意をぶつけて、まるで告白寸前の女子高校生みたいに大きく深呼吸をひとつ吐いて、勝負に挑む足を前へと一歩進めた。
「うおっ! すげー! 料理番組みてぇ」
後島が制服にお母さんから盗んできたエプロン姿で、俺の部屋のキッチンに立っている。ものすごい違和感のある人物の訪問に、俺だけじゃなく、どこか部屋全体がぎこちない気がした。
「いいから、早く作るぞ」
「ういっす!」
まさに体育会系のノリだ。
「まずはチョコを刻んで」
「へ?」
「……」
それ白菜やしめじじゃないんだけど。パリパリと音を立てながら、後島がお菓子作りようのブロックのようなチョコを手で割っている。体育会系って皆、道具を使わずに調理をしないといけないっていう決まりでもあるんだろうか。
あんなに真剣にお菓子のレシピ本を見ていたくせに、包丁で刻むはずのチョコを手で粉々にしている。
「……なんでもない」
不思議そうな顔の後島にわざとらしく溜め息をついてみせたら、何がいけなかったんだろうと、首を傾げている。
「食べてくれるといいな」
そう呟く俺に後島は元気に返事をすると、さっき以上にチョコを粉々にしようと、やっぱり素手で必死に格闘していた。
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