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第36話 扉の向こう

 チョコを湯銭で溶かして、型に流し込む、それだけなら誰だって出来るだろって思ったのに、及川先生の温度管理はしっかりっていう忠告を蔑ろにした結果、とても不味そうな濁った色のチョコの固まりになった。  案外難しい。初心者でも失敗しない、と書かれたガトーショコラくらいなら簡単に出来るとたかをくくっていたけれど、チョコのテンパリング、なんてところでつまづいていた。 「今度は上手くできっかな、先生」 「出来ないと困る」 「たしかに」  二作品目になるチョコを今、冷蔵庫で冷やし固めている最中だった。  手作りチョコって呼ぶにはあまりに手作りした部分のない、溶かして型に入れただけのチョコ、それでも自分がそんな事をする日が来るとは思わなかった。  そして、生徒とそんな乙女イベントに協力して参加する日が来るのも、想像出来なかった。 「な、なんだよっ!」  ソファに座らず、まるで動物園で暇そうにしているライオンみたいに、冷蔵庫の周りをうろつく後島が、俺の視線に居心地悪そうにする。 「座れば?」 「だって」 「っていうか、邪魔」 「か、金沢先生ってさ」  先生って感じがあまりしない。そう言われても、俺は家庭科の先生じゃないんだ、後島に一から授業みたいに教えることもないし、それにチョコを作っている理由がプライベートな事が理由なんだから、先生らしくはないかもしれない。 「今日、渡すのか?」 「もちろん」  チラッと時計を見るとまだ時間はあるけれど、それでもラッピングなんてしたことのない男ふたりで、これから綺麗に包装出来るかといえば怪しい。その分の時間を考えたら、ギリギリかもしれない。  金曜の夜、俺も出来たら郁登に渡したいけど、出来るだろうか。  放課後、後島も俺も、出来るだけすみやかに学校を出て、こっそりと俺の家に集合した。郁登には今日はちょっと飲み会があって会えないかもしれない。でも出来たら会いたいから、予定は入れずにいて欲しいとだけ伝えてある。コクンと頷く郁登が、少しまだ不服そうにしていたから、何を今しているのか、早く出来上がったチョコと一緒に知らせたい。  浮気、はしていないけど、何かを隠してはいる。それだけで不安になっている。まさか自分のためのチョコだなんて思いもしないところがまた可愛い。 「皆、今日はどこかソワソワしてたなぁ」 「バレンタインだからな」  普通の男女なら、チョコを渡せるか、チョコをもらえるか、一日ソワソワしていられる日。でもそれが男同士となると、ソワソワしている事すら隠さなくちゃいけない。  自分だってそれなりにチョコをいくつかもらえるだろう後島は、今度こそ艶のある美味そうなチョコになってくれって、冷蔵庫の前で願いつつ、市川はもらったんだろうかと、そっちの心配ばかりをしていた。女子の作った、もしくは買った、たくさんの高級でもっと手の込んだチョコの中で、ひとつだけ、ただ型に流し込んだだけの、甘いチョコレートは質素で、魅力的には感じないかもしれない。開ける前に、男からもらったチョコなんてと突っ返されるかもしれない。そんな不安が背中から滲んでいた。  片想いだと完全に思いこんでいる後島は不安で仕方がないだろう。 「そういえばさ、金沢先生って、誰にあげんの?」  自分の中で不安ばかりがドンドン募っていくのを忘れるために、俺のチョコの行方を気にしだした、その時、テーブルの上にあったスマホに誰かが電話をかけてきた。  郁登だ。  後島は自分が邪魔をしないようにと、また、チョコへのまじないをかけるために、冷蔵庫と向かい合って、静かにしていた。 「もしもし」 『あ、俺』 「知ってるよ」  ぎこちなく会話が始まる。郁登の不安が電話の回線を通じて、こっちにも伝わってくる。 『あの、静かだね』  飲み会って言っていたのに、居酒屋とは思えないくらいに静かで、郁登の不安はいっそう大きくなっているのが伝わる。 「うん、そうだね」 『あの……』  どうしよう、意地悪をするつもりはないんだけどさ、そんなふうに不安になって、飲みに行っているはずの俺に電話をしてしまう郁登が可愛くて仕方がない。可愛いすぎて苛めてしまいたい。  後島は背中を向けたまま、電話の相手が、この冷蔵庫の中で冷やされているチョコを渡す相手だと、きっと耳だけはこっちに向けているんだろう。だから俺も郁登の名前を呼べなくて、その困った感じが電話の向こうに伝わって、余計に不安な気持ちを刺激している。 『あの、俺、来ちゃった……』 「え?」 『ごめんっ! あの、予定ないし、暇で、それで散歩してたら、なんでか健人んちの前だったんだよ。そしたら、その、電気点いてて……』  来ちゃったって……あんたな。  溜め息を吐くと、電話の向こうの空気が少し固まった。俺の部屋は一階で、そのまま廊下も何もなく、扉を開けた瞬間に花壇がある。そしてその花壇の向こうには一般道があって、たしかに散歩をしながら、俺が不在かどうか一目瞭然でわかるだろう。ひとり暮らしの女性なら敬遠したくなるけれど、男のひとり住まいなら、かえってこのほうが楽だった。  その道に今、郁登が立っていて、こんな寒い中で不安な気持ちを抱えながら、衝動に駆られるみたいに俺に電話をしてきた。  中で何をしているんだろう。どうして飲みに行ってるはずなのに、部屋にいるんだろう。自分には内緒で誰かと会っているんだろうか。その相手が今、あの部屋の中にいるんだろうか。そんなふうにグルグルと駆け巡る不安を抱えながら、外に郁登が立っている。  今、こうやって電話をしながら、この部屋にいる誰かを探ろうと思って、耳を澄ましている。そう思うだけで、嬉しくてゾクゾクしてしまう。 「おい、後島、もうそろそろ大丈夫だろ、チョコ」 『へ? 後島?』  電話を繋げたまま、耳をダンボにしているだろう後島に話しかけると、驚いて、ものすごい勢いでこっちに振り返った。  いいのかよ、電話! そんな感じのジェスチャーを冷蔵庫の前で繰り広げている。そして電話の向こうでは、いきなり知らされた、部屋にいるもうひとりの人物、その名前が生徒と同じって事に郁登が慌てていた。  まだバタバタしている後島をチラッと見てから、電話をしながら玄関へと向かう。まだ電話の向こうでは、まるで後島みたいにバタついている郁登の声がしている。 『あ、あの、えっと』  玄関を開けると、自分が想像していたように、郁登が道端にひとりで立っていた。街灯の明かりだけの薄暗い中で、耳に当てているスマホが郁登の顔をぼんやりと浮かび上がらせている。 「こっち、来なよ」 『……』  促されるまま、郁登が道を横切って、花壇の脇を通って扉までやって来た。いつもみたいにジャージだと思ったのに、どこか出掛けるみたいな格好をしている。スリムな形のダウンの襟の内側にファーがくっついていて、フードがあるタイプよりもシャープな印象だからか、郁登をいつもよりも色っぽく見せている気がした。 「どうぞ、寒かったでしょ、外」 「……あの」  中に案内されて、肩を小さくしながら、申し訳なさそうに玄関へと入った郁登を見つけた後島がおかしな声を上げて、オーバーだろって言いたくなるくらいに驚いていた。  指をさして、口をパクパクさせながら、まさかの人物の登場に慌てふためいている。 「なっ! へ? え? なんで? 林原先生が! え?」 「あーアハハ、こんばんは」  不安を今さっきまで抱えていただろう郁登は頬をポリポリ掻きながら、苦笑いを零して、とにかくそんな不安を感じる必要だけはなかったんだと、それだけは確認出来て、いつものように大らかでスクスク育った艶のある頬をピンク色に染めていた。

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