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おまけ話 春、新生活
春、新生活が始まるのに一番ふさわしい季節。
新居で新妻が手料理を作って待っていてくれる。玄関を開けた瞬間、食欲をそそる匂いに包まれて、「おかえり」って嬉しそうな笑顔に出迎えられる。
「フフフ……」
なんて想像したら、つい顔の筋肉が緩んだ。おたま持って、ニコッとしながら首を傾げて、白いエプロンが眩しい郁登を想像したら、そりゃつい、ね。
春休み前からふたりで探した新居。今まで学校から自宅までが徒歩で充分な近距離だった郁登には少し遠く感じられそうな場所。電車を使わないといけなくなったけれど、あのジャージ姿での登校はいまだに続いている。そのうち長距離用の本格的なサイクリング自転車を買うって言っていたから、電車内で十五分の仮眠よりも、ジャージで元気に、体育の先生らしい登校スタイルを取るみたいだ。
俺は、もちろん車通勤。
本当はふたりで一緒に登校したいけれど、たまにならそれが有り得ても、毎日はさすがに不自然になる。教師の同棲っていうのは、ちょっとさすがにはばかられた。
そしていつも帰ってくるのは大概、郁登のほうが早い。駅前には激安スーパーはないから、俺がもっぱら仕事帰りに車で夕飯の買い物を済ませる。先に到着している郁登が夕食の下準備をして、そして一緒にキッチンで料理。
もう、まさに新婚さん。
そんなの長続きしないもんだとよく話に聞くし、自分自身も今までなら、そんな絵空事のようなラブラブ生活は冗談にしか思えなかった。
でも、今は、そんな毎日を自然と送れて、そしていつまでも続くよう願っている。
「あ、おかえり~」
白いエプロンにおたま……じゃなくて、白いジャージで野菜を手で千切る新妻。
「頼んだもの買って来た?」
「あー、うん」
嬉しそうにニコッと微笑んだ郁登に大きなビニールふたつを預ける。
「今日の夕飯は焼そばと生姜焼きな♪」
この場合の焼そばはメインじゃない。副菜? もしくは、生姜焼きが副菜? どちらにしてもライス大盛りがもれなく付いてくる。あと味噌汁。
郁登には焼そば、焼きうどんはおかず。シチュー、ラーメンは味噌汁の部類に入る。その男らしすぎる男飯をあんなに細くて、やらしい腰をした郁登はいつも笑顔でペロッと食べてしまう。
今、作るから、手を洗ってきたら? そう鼻歌混じりの楽しそうな郁登に言われて、鞄をリビングに置くと、洗面所へと向かった。
俺、あんなに食べて、将来、メタボ軍に入ったりしないだろうか。
一日中、高校生相手に体育教えて、動きまくって、放課後には水泳部で熱血指導、それならあの料理でも大丈夫かもしれない。
でもこっちは音楽教師なんだよね。楽器を弾くくらいで、水泳並み、もしくな一時間ずっとトラックを走り回るマラソン並みのカロリー消費は期待できないでしょ。
「健人~、そこの玉葱切って」
バリバリとキャベツを手でむしり取りながら、俺の気配だけを感じて、背中を向けたまま、郁登が指示を出す。
襲い掛かろうかな……どうしようかな。昨日はまだ荷解きが全部終わっていないから、そっちを片付けたりで、ふたりとも素直に寝ちゃったし。ものすごく襲い掛かりたい。
でも今日は放課後に職員会議があって、普段よりも料理に取り掛かるのが遅くなってしまった。それでなくてもよく食べる郁登は、腹ペコペコっていっつもいいながらつまみ食いをしているくらいだし。ここで襲い掛かったら、それだけ夕飯が遅くなって、少し可哀想かもしれない。
「今日はさ、豚肉の代わりにソーセージを焼そばに使ってみようかと思って」
あぁ、だから今日の買い物リストに豚肉がなかったのか。ソーセージならこの前、ふたりで大型スーパーに行った時に、郁登の大好物だからって大量に買い込んだんだ。
ソーセージ……それだけでおかしな方向へと妄想が膨らむのは、きっとこの春の陽気のせいだ。
「健人もソーセージ、好きだろ?」
あー、まぁ。なんかよからぬ方向へその台詞を捉えそうになるけど。
まるでソーセージのポスターなんじゃないかと思うほど、ニコッとしながら、自分の顔の横に大入りと書かれた袋を持って、俺に見せてくれる。
なんか、今日のTシャツ、生地が薄くない?
郁登は学校でもプライベートでもほとんど服装に違いがない。ジャージのズボンがジーンズに変わったりする程度で、シャツや、最先端のファッションを毎シーズン追いかけたりはしない。同じようなTシャツを何枚も持っていて、最初はそれが全部同じに見えたりもした。
今はもう慣れて、どのスポーツブランドのTシャツが一番郁登の好みなのか、よく着ているお気に入りのジャージがどれなのか覚えているけれど。
そして今、着ているのは、俺が一番着てはいけないと何度も言ったはずの、一番薄くて、若干肌色が透けるくらいのものだ。肌触りがいいのに、とブツブツ文句を言っていたけれど、女子生徒が下着の透けているシャツを着て、フラフラと廊下を歩いているのと、何も変わらないと力説した。俺の迫力に気圧されて、できるだけ着ないようにするって、たしか約束したはずなんだけど?
「郁登?」
「んー? あ、悪い、キャベツの芯捨てさせて」
俺の前を横切って手を伸ばしながら、三角コーナーに芯を放った。
「……」
向かい合うようになった時、郁登と目が合った。
「美味しい焼そば作るから」
それより、そのTシャツ……学校では、どうだったっけ? たぶん違うのを着ていたはずだけれど、あの郁登が家に帰ってから着替えるだろうか。スーツならありえるかもしれないけれど、元々学校でも部屋にいるのと変わらないのんびりした服なのに。
「郁登、ちょっと、なんで、そのTシャツ」
「え?」
「それ、乳首透けるって言ったよね」
「そうだっけ?」
正確には女子生徒の下着云々だけど。ようするに言いたいのはそういうことだ。やらしい乳首が透ける。大きなサイズだからまだマシだけれど、それがチビT並みのジャストフィットタイプだったら、確実に透けている。
「ほら」
「や、ァん」
シャツ越しに一発で尖りの居場所を当てられる。少しだけピンとなっていた小さな粒を指でクルッと撫でたら、家だからなのか、郁登が素直に甘い声を零した。
「このTシャツ、極力着ないようにするんじゃなかったっけ?」
「あ、ン……だって」
「学校でもこれ、着てた、わけじゃないでしょ?」
質問しながら、少しずつ尖りが存在感を増すように、段々と強く刺激する。
キャベツの芯を捨てるために身体を伸ばしたはずの郁登は、お腹が空いて、早く焼そばを食べたかっただろう。でもそんなTシャツを着ているほうが悪い。そんなやらしい身体がうっすら透けてしまうような、白いシャツは清潔感どころか、なんだか俺を誘うためのアイテムにしか思えない。
「学校でも着てたなら、おしおきだけど?」
「あ、ン、焼そば、ソーセージ」
腹が空いている郁登が甘く喘ぎながら、今日の夕飯メニューを呟く。
俺はそんな要望を無視することにした。
「おしおき、されたい?」
「や、ァ……」
「ペコペコなんでしょ?」
でも郁登が食べたい焼そばじゃなくて、深く水音が響くような口付けで口の中をいっぱいに愛撫する。
「早く、食べたい、んだって」
そう呟いた郁登はまるで食べるみたいに唇に噛み付いてきた。
「郁登?」
「お腹、空いた……このTシャツで、俺、上手く誘えた?」
え? ポカンとしていたら、郁登の腕がやんわりと首に巻き付いて、白いジャージで隠れた熱がそっと、少し控え目に俺のそそり立ったものに触れる。
「郁登」
ソーセージ……その響きが、こんなにやらしくなるなんて、この新生活を送らなかったら、俺はきっと一生知らずにいたと思う。
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