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弟の旅行編 3 ミチノセイメイタイ
まぁまぁ衝撃的……かな。
そんなことを土曜の仕事後、スーパーで夕食の買い物をしながら思い耽ってみたりした。衝撃的だったのは。
「いらっしゃーい! 安いよー!」
この大特価、マグロの刺身の破格なお値段のことではなく、郁登の弟クンの恋人が同性だったこと。
「いらっしゃい、いらっしゃーい! マグロの刺身、柵、今から二割引だよー!」
それから、破格なお値段のマグロがさらに値下がったことと、もう一つ、これが一番の衝撃だったかな。
――慶登は童貞なんだ。
あの、快楽に弱くて、けっこう女受けのいい郁登の弟が童貞だったこと。
兄弟なら、顔ある程度似てるだろ? あー、いや、そんなこともないのか? 前に、郁登がテレビの前で笑い転げて観てたお笑い芸人、あれもたしか兄弟だった。片方は、子どもの頃から女性によくモテてて、もう片方は、子どもの頃から女子に嫌われてたって。どっちが兄で弟だったか忘れたけど、でも、あまり顔は似てなかった。再婚とかでもなく、両親が同じなのに、顔もそれまでの恋愛遍歴も違ってた。
え? じゃあ、郁登の弟も、あの笑い芸人みたいな感じなのか? あの、郁登の?
――なんかさ、すっごいドジで、いっつも転んで顔面よく擦りむいててさ。危なっかしくて。でも、真っ直ぐで。いや、真っ直ぐすぎてたまにめんどくさいとこがあるっていうか、曲がらすぎて、たまに大事件とか起こすんだ。
あのお笑い芸人みたいな感じに? 少し卑屈で? 事件を起こすのか? 顔面よく擦りむいてたって言ってたけど。
――泣くとすぐに鼻垂らすし。
……アニメキャラみたいだな。
――変な声出すんだよ。油断しきってる時に呼ぶと何か未知の生命体みたいな声で返事すんの。
……アニメキャラじゃないのか。「ミチノセイメイタイ」ってやつね。
――あ、あと、すぐに鼻の穴でっかくするの。
わからない。郁登の弟像が全くもってわからない。そして。
――けど、あいつ、ゲイじゃなかったと思うんだけど。初恋はご近所にいたお姉さんだったし。年上の女の人が好きなタイプなんだと思ってた。
もう、ちっともキャラクターが掴めないんだけど、俺の恋人の弟が。
――あの慶登と付き合えるのって、どんな男なんだろう。
知らない。そもそもその慶登の人物像が今現在かなり込み入っていて、複雑すぎて不明瞭なくらいだから。
鼻の穴がすぐに大きくなって、変なミチノセイメイタイみたいな声を上げて、泣くと鼻水がすぐに垂れる、曲がったことが大嫌いな……ほぼ俺の中で怪獣みたいなイメージ。
じゃあ、俺のほうがなんか危なくないか?
怪獣だとして、もしくはゴリラ、ゾウ、サイ、カバ、その辺りの怪力哺乳類だとして。
――いっつも、郁にい、って呼びながら顔を真っ赤にして追いかけてたのに。もう恋とかするんだなぁ。
真っ赤な顔で郁登を呼びつつ追いかける。
「…………」
むしろ、俺、俺の兄に不埒な手を出すなー! ウホホホ。って投げ飛ばされるんじゃないか?
「……」
大丈夫、かな。郁登には音楽教師とは思えない力だって言われるけど、それは人類に分類されているからの話で、相手が怪獣、ゴリラ、ゾウ、サイ、カバのどれかだとしたら、確実に俺はぺちゃんこだろうな。
「……健人?」
「! 郁登」
「ただーいま」
大特価のそのまた二割引きにまでしてくれたマグロと美味そうな日本酒、それから諸々買わないといけなかった日用品を手提げ袋に詰め込んで、スーパーから出てきたところで郁登と出くわした。
ばったりではなく、郁登がスーパーの入り口で待っていた。
体育教員だけでミーティングがあったから、俺のほうが先に仕事をあがった。買い物をしようと帰り道のルート変更をしたところで、郁登から今どこ? って連絡があったから、終わることには合流できるかなって思ったんだ。
「マグロの激安買えた?」
「あぁ、しかも、そこから二割引」
「おぉ」
笑うと可愛いんだ。
そりゃ女受けいいだろう。爽やかな笑顔に、サラサラブラウンヘアー、運動神経抜群、教師っていうお硬く安定感のある職業に、水泳で鍛え上げたバランスの取れた良い身体。
「それと美味そうな日本酒も」
「やた!」
「飲む? 郁登も」
「え! 健人の分だけ?」
「日本酒、太るよ?」
からうと膨れる頬も、母性本能をくすぐるだろう。
「いいじゃん。それに日頃から水泳で鍛えてるから大丈夫だし」
「あー、そうね。夏だからね」
うちの高校は市営の温水プールで冬も週一で練習してるけどさ、夏はやっぱり授業の水泳もあるから、頻度は高くなる。
この人が水着姿になる頻度。
「でも……そのせいで、最近、少し欲求不満だから、大変なことになるかもよ?」
水着になる頻度が上がれば、それだけ、今、そう尋ねられて頬を染めるこの爽やか体育教師をひん剥いて、その肌にセックスの痕をつけるのは絶対禁止となってしまう。
「い、いよ……だって」
女受け抜群だけれど、でも、その女たちは知らない。
「俺も、したい、から」
爽やか笑顔のこの人が乱れた姿を。鍛え上げられた身体がセックスに溺れる様子を。
「日本酒飲ませすぎないようにしないと」
「?」
「だって、じゃないと、郁登は酒飲むとスケベ度跳ね上がるから」
「んなっ!」
また母性本能だけでなく、俺の心もくすぐる膨れっ面を横目で楽しみながら、ゆっくり歩いていた。
「あ、慶登からだ」
「?」
「やた! お相手さん、オッケーだって」
「へぇ」
またもや登場のキャラが不明瞭な郁登の弟クンからのメッセージに、兄らしい優しい笑みを口元に浮かべた。
「あはは、なんか、悲願の海にまさか行けるなんて、本当にありがとうだってさ」
「悲願?」
「らしいよ? ナイスボディーになれるようにトレーニングしないとっだって」
じゃあ投げ飛ばされるだけじゃなすまないんじゃないか?
そんな、「ミチノセイメイタイ」ボイスを発する最強哺乳類なのに、さらなるトレーニングをするんじゃさ。
「へ、へぇ……」
俺は出会った瞬間に、摘まれて、そのまま海のはるか彼方へ放り出されるかもしれないと、
夏の湿気を孕んだ風にしなやかな茶髪を揺らす郁登の隣で、震えながら考えていた。
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