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弟と旅行編 4 見せちゃダメ
「りょ、旅館って……ここ?」
「らしいよ。郁登、ほら」
「え、ちょっ!」
「ほら、遅れる」
親類が開業前、プレオープンの旅館に部屋を二つ用意してくれた。
たぶん普通に予約をしたら一泊の値段は相当するんだろう。デザインも凝っていてモダンな建築に和のテイストを取り入れて、落ち着いた雰囲気の良い旅館だった。
「郁登、俺は叔父さんに挨拶してくるから。更衣室、そっちにあるよ」
「あ、うん」
さすが水泳部顧問。正面にガラス張りで一面に広がる海を見つめていた郁登の横顔が、泳ぎたくてウズウズしているって感じだった。
指差しで着替えの場所を伝えると、俺はフロントへ行き、今日この部屋を用意してくれた親類のところへ挨拶をしに。急慮で二部屋、しかもオーシャンビューの部屋なんて取れるわけがない。お礼と菓子折り、それからこの前買って美味かった日本酒の贈呈用のを手渡しておいた。
俺たちは車で、郁登の弟は……電車って言ってたっけ? そしたら駅まで迎えに行ったほうがいいかもしれない。この旅館の目の前がプライベートビーチになっていて良いんだけど、その分駅からは遠い。駅前のコンビニで待ち合わせて、そこから――。
「郁登!」
「あ、健人、ちょうど着替え終わったと……こ……」
何してんだ、この人は。
「? 俺、泳ぐんだけど?」
「だから、これ着て」
脱ぐことにそもそも抵抗感が少ないのは知ってる。酔った勢いで脱がせたことがあるから。
「……はぁぁ? なんで、ラッシュガード!」
「なんでもなにもないでしょ」
あぁ、もう。
あれでしょ? この人はさ、不服そうにしてるのは、普段水泳部の顧問やってて裸なんていつものことだし、プライベートビーチなら悪い虫も変な虫も母性本能をくすぐられた虫もいないのだからって言いたいわけでしょ?
「ダメに決ってる」
「ちょっ」
今出たばかりの更衣室にUターンだ。
さすが高級旅館、更衣室っていっても、間接照明の照らされて妖艶な雰囲気すらある観葉植物に、磨かれた鏡、ブラウンと紫を基調にした一部屋には宿泊一組ずつが利用できるようになっていた。
「だって、泳ぐのにっ邪、まっ……ン」
どんだけ本気で泳ぐつもりなんだか。とりあえず、全然無理だから。このさ。
「ごちそうみたいな裸晒さして、ビーチを闊歩なんてしないでよ」
「はっ? だから俺は泳ぐんだって、歩かないって、ばっ……んんっ」
まるで聞き分けのない高校生みたいな言い草を零す唇に噛み付いた。
「ンっ……」
舌を絡めて、唾液が交わる音をさせながら、壁に貼り付けにしたこのご馳走に甘い口付けをする。
「あぁっ」
肌を舐めて濡らして、そこに唇を寄せてきつく吸えば、ほら。
「ンっ」
「弟は別にいいけど、その相手、男もいけるんでしょ? じゃあ、ダメじゃん」
「バカ! 慶登が選んだんだから、そんなのっ」
そんなのわからないだろ?
俺、男なんてこれっぽっちもいけなかったけど? 恋愛対象はずっと生まれてから一度も変更されることなく異性だったけど? それを一晩で覆して塗り替えたのは、どこの誰だよ。
「ダメ」
あんただろ。
「でももうどっちにしてもこんなところにキスマークくっつけてたら、無理でしょ?」
幾分か小麦色が濃くない胸のところ。敏感で美味しい乳首のすぐ近くに、あきらかなキスマークを一つ。
「あっ、ン」
また一つ。
「あぁっ」
もう一つ。これだけつけたら、虫刺されって言い訳もしにくい。
「だから、ラッシュガード着てよ」
「っ、や、だっ」
「ねぇ、郁、」
その時だった。郁登の鞄の中からスマホの振動音がした。
「あっ! 慶登だ」
どうやら郁登の弟が駅に着いたらしい。何か返信を打ち込んでからそのスマホをラッシュガードのポケットへと突っ込んだ。それを脱ぐのか諦めてくれたらしい。じゃあ、駅に着いた二人を迎えに……行こうと思った。けれど、それを止めるようにクンと引っ張られたのはまだ着替えもしていない俺のシャツの袖。
「健人も着替える、んじゃねぇの?」
キスマーク、昨日つけておけばよかったんだけど、しなかったんだ。旅行の準備してたし、なんか楽しそうにしてる郁登が遠足にはしゃぐガキっぽくて、それはそれで可愛くて、まぁ旅館でたんまり抱こうと思ってたし。だから――。
「昨日、してない……せいっ」
ゴクリと喉が鳴った。
「だから、健っ」
だから、したくて仕方ないから、目に毒なのはそこら辺にいるかもしれない悪い虫でも、母性をくすぐられた虫でもなく、ましては郁登の弟の恋人でもない。俺が。
「も、煽ったの、健人、だから」
「ごめん」
俺が、この男に襲いかかりそうだったから、そのごちそうをしまいこんでいて欲しかったんだ。
ゴリラかと、思っていた。ゾウか、サイか、カバか、はたまた奇想天外な感じで、怪獣かと。
「あ! いた! 郁にいー!」
けれど、手をブンブン振っているのは、ほわほわなマロンカラーの綿毛みたいな頭の。
「おーい!」
「慶登-!」
大きな瞳にオレンジ色の眼鏡フレームがよく似合う。
「郁兄!」
なんか、可愛い生き物。
「久しぶり、慶登」
「うんっ! 郁兄!」
全然ゴリラじゃなかった。
「慶登の兄の、郁登です」
「あ、初めまして。慶登さんと」
「こちらが保さんです! 僕が! お付き合いをさせていただいている人です!」
あ、でもたしかに鼻の穴を大きくした。ふがふがしてる。
「お前、めちゃくちゃ鼻の穴でっかいよ」
「だって!」
ほら、言われてる。
「あの……お付き合いをさせていただいています。同じ小学校で教諭をしている大須賀保です。今日は、その」
そして、その可愛い生物の隣にはこれまた優しそうなイケメンがいた。けっこうなイケメンだ。
「あー、あんまり緊張しないでください。その」
「いえ……えっと、ご家族としては思うところがあると……」
「思うとこ……あぁ! ないない! 全然ないです! っていうか、全然、ホント」
なるほど、でも、たしかに郁登が説明してくれたキャラクターには合っている。真っ直ぐそうで、鼻の穴が大きくなって、よく転びそうだ。しかも顔面からいきそう。
そんな失礼な人間観察をしていると、郁登さんがチラリと視線をこっちに向けた。
「俺も、ね」
「郁兄?」
「あー、あそこにいる人、と、お付き合いをさせてもらってたりするんだ。しかも、面白いことに、俺と健人も同じ高校の教師なんだよ。ちょっと似てるっしょ? 健人!」
なんか、へぇ、こういう感じの弟クンなのか。
「初めまして。そういうわけです」
「………………えええええええ!」
あぁ、あと、あれも、合ってた。なんか「ミチノセイメイタイ」みたいな声、ね。
「あはははは、サプライズ大成功」
よく見ると似てる。面影がある。そんな弟のぽかん顔を見て、柔らかい髪を揺らしながら郁登が楽しそうに笑っていた。
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