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弟と旅行編 5 兄の顔
新事実だ。
「うぎゃああああああ」
郁登の弟は。
「怖いいいいい」
面白すぎだろ。
笑うの我慢するのが大変なんだけど。いや、本当に。
見た目はあんなにほわほわで可愛い感じなのに、二十三歳って言ってたっけ? たしか。でも、高校生でも通用しそうな幼さが残ってる。そんな郁登の弟が瞼を自分の指で開きながら、雄叫びを上げて、早く入れてくれと恋人に懇願してる。
どうやらコンタクトを入れてもらいたいらしいんだけど。
すごいな、あの彼氏さん。笑わずに冷静に、ちゃんとコンタクトを入れる手伝いをしてあげてる。怖くない? そんなさ、恋人が目玉ひん剥いて、「ふぎー」とか「んぎゃー」とか叫んでるのって。笑っちゃわない?
「おっ」
思わず声が出てしまった。どうやら、コンタクトは装着し終わったらしい。おでこにキスをする仕草を彼氏さんがすると、郁登の弟が素直にその唇を目で追いかけた。と、その瞬間に、はい、これで一件落着、だ。あ、でも、あれって、外す時どうすんだろう。また叫ぶのかな。
なぜか半泣きになりながら彼氏さんに何かを話す郁登の弟に、今度は郁登が話しかけた。
大きな口を開けて笑ってる。
「……」
今度はその横顔を観察した。郁登がする「兄の顔」ってやつを。
「っぷ、あははははは、慶登、早すぎ」
ホントに面白いな。もうシュノーケルつけてる。あぁ、でもああいう楽しいことにせっかちなとこ、郁登に似てるかもしれない。
「郁兄もラッシュガード着てる。海入らないの?」
「あー、入るよ?」
二人の会話をのんびりと遠くから聞いていた。
ちょっとだけ口元が緩みそうになるのを、堪えながら。
「そのまま?」
無邪気な弟君が郁登よりもほわほわな猫っ毛を揺らしながら首を傾げてる。もうすでに小麦色に日焼けしてるのにラッシュガードなんていらないのでは? っていう疑問に頭を捻っている。
「あー……そのまま」
うん。そのままなんだ。ラッシュガードは必須、なんだよ。
「そっか。僕もっ! よおーし! 入るぞー!」
ちょうどそこで海岸に到着した。郁登の弟が目の前に広がる大きな青二つ、空と海へ手を伸ばすと何かに急かされるように走り出した。その弟が見ていない隙に背後をのんびり歩く俺のほうへと振り返る。
目で叱られた。
(もう……)
そんな感じ? かな?
だから、肩を竦めて、微笑むだけの返事をした。仕方ないだろ? 見せたくないものは見せたくないんだ。
そのしゃぶりつきたくなるような身体は誰にもさ。
「お互い、面白いですよね」
「え?」
郁登の弟の彼氏さんも小学校の教諭だっけ? 背、でかいな。俺と同じくらいある。
「男の裸なんて、別に見ても面白いもんじゃないのに」
ホントさ、ノンケ、恋愛対象が女性のはずの俺にしてみたら、男の裸なんて、なんの魅力も性的興奮要素もないはずなのに。
「あの人の裸は誰にも見せたくないとか思うんですよね」
もちろんこの彼氏さんだって、郁登の弟にさえ、何も思わないのにな。
「キスマーク、付けたら、止まらなくなっちゃって、怒られました」
郁登のだけは、やっぱり違っていて、あぁ本当に重症だなぁと、つい笑ってしまった。そんな俺を慶登君の彼氏さんがぽかんと眺めていた。
「水泳部の顧問だから、普段は気をつけてるんですけどね」
このイケメン彼氏さんもそうなんだろう。甲斐甲斐しく世話してあげてた。自分の恋人をいつでも大事にしたくてたまらないんだろう。あんまりそういうタイプに見えなかったんだけどな。
この顔に、この身体だ。それなりの恋愛遍歴がありそうなのに、こと、郁登の弟に対してはずいぶん不器用な気がした。
「浮かれた」
いや、違うのかも。彼は初めてなのかもしれない。好きで好きでたまらない。くすぐったくて、忙しくて、可愛くて、抱き締めて触れていたくて困ってしまう。そんな恋愛は初めてなのかもしれない。それは、きっと、今、あそこで海にはしゃぐほわほわで面白い彼だからこそなんだろう。
俺が郁登だから、今、こうしているのと同じように。
音楽教師と体育教師の決定的な差、かな。
「遠泳、お疲れ様」
「……ホント、へとへと」
どのくらい泳いでたのか、もう見る影もなくなるほどどこかへ行ってしまった郁登がようやく戻ってきたと思ったら、ずっと着ているラッシュガードを俺の目の前で裾だけ絞って見せた。ぼたぼたと海水が焼けるように熱い砂浜を一瞬で濡らしていく。
「これ着て泳ぐと疲れがすごい」
「よかったじゃん。トレーニングになって」
物は考えようでしょ? にっこりと微笑むと、郁登は逆に、ブスッたれた顔をした。
「あ、慶登知らない?」
「んー? いるよ。あっちで彼氏さんに見守られながら」
指差した方向には郁登の弟がシュノーケルを付けて水の中を探検して、彼氏さんが手の届く場所からずっと見守っている。その二つの頭が水面からひょっこりと顔を出していた。
「……ぁ、ホントだ。あはは」
郁登はその様子を見て微笑んで、濡れた髪を邪魔そうにかきあげると、俺が寝そべっているチェアの端っこに座った。ふと、とても自然に、俺の足元に座った。
「あぁいう人なんだ……なんか、よかった」
「?」
「慶登は真っ直ぐすぎるからさ、まぁ騙されたりとかは、あんまりなさそうなんだけど、ああ見えて、妙にしっかりしてたりするから。でも、その真っ直ぐでめんどくさいとこをちゃんと受け止めてくれる人って、そうはいないだろうなぁってさ」
「……」
「保さん、良い人でよかった」
俺の隣にすんなりと座る。当たり前のように、そこが自分の居場所のように。
「っていうか、健人は泳がないの? 少しは……」
そのことに内心大喜びしてるなんて知らないだろ? こんなふうにキスを外でしてしまうくらいには。
「……あ、あの、ほぼプライベートビーチでも人いるけど?」
「んー……パラソルで見えないんじゃない?」
「っ、バカ」
それからさ、郁登が見せる兄の顔をこうして見られることにも、内心、少し嬉しくなってるのも知らないだろ?
「じゃあ、俺も泳ごうかな」
「え? マジで?」
「郁登と一緒なら、水遊び程度にね」
「! やた!」
夏に海、海だから泳ぐ、どっちもあんまりやらないよ。キャラじゃないからさ。
「ほら! 早く! 健人!」
でもそれを楽しんじゃうくらいには、かなり浮かれてるんだ。俺も、この恋に。
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