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弟と旅行編 6 怒った顔も、拗ねた顔も

「あ、部屋は全部露天風呂付きだから、俺たちはこっちで、慶登君たちはそっちね」  どっちがどっちでも代わりはないんだけどさ。互いの部屋につけられた花の名前と、それと同じ花が描かれたカードキーを手渡した。  食事はレストランで七時から。郁登が兄弟で久しぶりの時間を過ごしたいかなって思ったけれど、食事の時にゆっくりできるからいいと言うので、そこで分かれて別々の部屋へ。  オーシャンビューの露天付き、最上階、きっと普通に宿泊したら相当な金額になるだろう。 「こ、ここ、俺たち泊まって大丈夫?」 「んー? 大丈夫でしょ」 「ベッドもふかふかだー」  窓から見える露天は上手に設計してあって、部屋から眺めると、海なのか風呂の湯なのか、境目がわからなくなっている。ちょうど日が傾きかけて、夕陽色が海面にも湯面にも反射していて綺麗だった。  オレンジと紫の混ざる空の色。 「郁登、風呂入……」  振り返ると。 「…………」  寝てた。ふかふかだと言っていたベッドにうつ伏せで、もうすでに熟睡している。 「……ったく」  遠泳、どこまで泳いできたんだか。起きそうにもない郁登の隣に座って手を伸ばしたら――。 「んー……」  この人は、ホントさ。  無意識なんだろうな。こっちのことなんておかまいなしなんだ。嬉しそうに口元をほころばせて、どういう嗅覚をしてるんだか、俺が触れようと伸ばした手を捕まえて、指先をきゅっと握った。握って、離すことなく、まるで子どもがお気に入りの玩具でも抱え込むように頬を擦り寄せて、さっき以上に穏やかで深い寝息をその和やかに緩んだ唇から零している。  俺の匂いに、安心した?  そんな無邪気な寝顔とかして。 「……」  そっと、起こさないように茶色の柔らかい髪に口付けると、一日大はしゃぎしたこの人からは太陽と潮の香りがした。  ぐー、きゅるるる――だってさ。 「うわっ! えっ! あわっ! ぁ、ぇ、夜?」  快楽に素直というか、欲に正直というか。腹が減ったと、腹の虫が騒ぎ出したら起きた。しかもその腹の虫が鳴り始めたのはちょうど夕飯だと話した七時少し前。さすがだ。 「顔洗ってさっぱりしてからレストラン行こう」 「え? 健人?」 「おはよ」  額にキスをして、それからベッドを出た。俺は遠泳はしてないけれど、でも、はしゃぎすぎて疲れたんだろう。少し寝てたんだ。 「さて、じゃ、晩飯食いに行こうか」  背中を伸ばすように両手を上げると気持ち良かった。  レストランへ行くとすでに郁登の弟とその彼氏さんが待っていた。食事はこれまたオーシャンビューの半個室だ。 「慶登君と、郁登ってやっぱり似てるね」 「え? そうですか? あんまり似てないと思ったから、ちょっと嬉しいです」 「そう?」  弟君が本当に嬉しかったのかほわほわの猫っ毛を揺らして、まだ酒も飲んでいないのに頬を赤く染めた。 「しっかりしててカッコよくて、郁兄はすごいから」  兄の郁登はきっと彼にとって憧れなんだろう。 「慶登君は酒大丈夫?」 「あ、はい! もちろん! あ、と……あの、健人さんはお酒お好きですか?」 「もちろん」 「郁兄とはよく晩酌とかされるんですか?」  さっき少しご機嫌が悪そうだった。その膨れっ面が郁登に似ていて、じっと見てしまった。口のへの字の形とか、へそ曲がりの口調とか。少し前、まだ出会う前の郁登はこんな感じに幼かったのかなぁとか考えながら。 「するよー。出会いも酒の席だから」 「へぇ、そうなんですか」 「ぶっげほっ、ごほっ」  急にむせた郁登、兄に、慶登君が慌てて手を伸ばす。  そう、出会いは酒の席。というか、俺たちの始まりが酒の席だったんだよ。酔った勢いで、身体始まりの、すこーしだらしのない始まり方だった。もちろんそんなことはこの慶登君には内緒。真面目で真っ直ぐ、とても可愛らしい素直な弟には知られてはいけない最重要機密事項。  それをあえて突付いた俺に、郁登が睨んでる。 「だ、大丈夫? 郁兄っ」 「へ、平気っ、ごめっ」  ね? ほら、やっぱり慶登君の膨れっ面が兄の郁登に似ているなぁって、俺は思うよ。  うん。酔っ払い方とかさもそっくりだ。 「ほわぁ、あー、おっとっとっと」 「大丈夫?」  千鳥足の感じとか、ほわほわでアルコールに浸って甘くなった声の感じとか。  足元には真新しく砂粒一つすら落ちていない絨毯が敷き詰められているだけで、何も転ぶ要素なんてなさそうなのに、そんなところでも器用に転びかけた彼の腕を咄嗟に掴んだ。すると、その甘く鳴った声で「ほえ?」と小さく呟いた。  こういう感じ、初めの頃の郁登にちょっと似てる。  もちろんあの時みたいな衝動は起きないけれど。 「水、もらってこようか?」 「ほへへへ、らいじょーぶれす」 「いや、全然、らいじょーぶ、じゃない感じだけど」 「うへへへ」  笑い方、変態みたいになってるよ? 「だ、大丈夫?」 「はい。らいろーふ」  いや、ほぼ日本語崩壊してるけど? 「郁兄の恋人が素敵な人でよかったれす」 「……」 「らって、ぶひーって怒った顔、たまにしてまひた!」 「……」  慶登君が鼻の穴を思い切り大きく広げて、への字、ではなく、「いー」と歯を全部見せるように、とても、とっても不細工な顔をした。たぶん、彼なりの「怒った顔」の表現なんだろう。  全然、郁登のそんな顔、一度も見たことないけどね。 「兄は……優しすぎて、いつも、笑っちゃうんれす」 「……」 「僕は! 悪いことはらめ! やりたくないことは! らめ! いけないことは!」  ダメって言える子なんだね。 「れも、健人しゃんには怒ったり、拗ねたりしれらひゃら……」 「……」 「よかったなぁ、うへへへへ、って思ったんれす」  骨がなくなっちゃったみたいにふわふわな彼がふわふわと笑った。 「そう?」 「はい! そうらんれす!」 「……なら、よかった」  なんか、すごいな。 「郁登のこと、すごく愛してるから、そう言ってもらえてよかった」 「……」  小学生の先生、だっけ? いいね。こういう先生に教われたら、きっとその子たちは。 「ふつつつかな、兄かもですが、ぁ、でも優しくてしっかりしてる兄なので、ぜひ、宜しくお願いいたします」 「……こちらこそ」  つ、一つ多かったよ? ふつつかな、だと思うよ。 「うふふふ」  笑顔がマシュマロみたいだ。彼が笑うとその周りがあったかくなるような、幸せな笑顔。それにつられて笑うと、慶登君もまた嬉しそうに笑って、彼は彼の愛する人のところへふわふわと、ほわほわと、歩いていった。

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