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第8章
学校敷地内にある、四階建ての教室棟とは別の三階建ての校舎。
そこにはコンピュータ室や簿記室、図書室、進路指導室、家庭科室など特殊な教室が三階建ての校舎に詰まっている。
まさに学び舎と言った建物だ。
教室棟の一階から伸びる渡廊下を通り三階へ行くと、コンピュータが所狭しと置かれている教室が四つも並んでいる。奥から二番目がコンピュータ部の使っている部室だ。
豊高はその部室の前に来ていた。
廊下側の窓からそっと中を伺うと、パソコンを使わず問題集を机の上に広げている生徒が多かった。
この学校のコンピュータ部は、システムアドミニストレーターや情報処理検定などの合格を目指すという方針である。
豊高はそれを知っていたが、すべての生徒は強制的に部活動に登録させられる為、適当な部活を選択したのだった。
しかし、入学してからこの部室に足を運ぶのは初めてだった。
背中を丸め問題集やちらほらと点いているディスプレイと睨めっこする生徒たちを見て、豊高はなぜここに来たのだろうと思った。
灰色の部屋の中、キーボードをよけた狭い机の上で勉強をする姿は見ているだけで息が詰まりそうだ。
テキストや問題集も持っていない。
はあ、とため息をつき踵を返す。
「入れよ幽霊部員」
振り返ると、豊高から二枚分離れた窓が開き、石蕗が顔を出す。豊高と同じような黒縁眼鏡をかけている。
石蕗は笑って
「大丈夫だって、皆自分のことに一生懸命で、陰口たたくヒマなんてねえからさ」
な、と引き戸を指差す。
豊高は、なるべく音を立てないことを意識しながら部屋に入る。
すると一瞬全員から注目を浴びたが、すぐに机へと視線が落ちた。
豊高はかえって拍子抜けしてしまった。
二人用の長机の前に座る石蕗は、自分の隣の椅子をポンポンと叩く。
豊高は机の下に荷物を置き、わずかに椅子を軋ませ座った。申し訳程度についた背もたれのクッションのせいか、何処か居心地が悪い。
「ま、テキトーになんかやって」
石蕗はディスプレイを見ながら言った。
画面には細かな数式のようなものが並んでおり、豊高は目がチカチカした。
逃れるように回転式の椅子で身体を左右に揺らしながら
「やること・・・ない」
と呟いた。
「はあ?じゃあなんで来たんだよ」
可笑しそうに石蕗は言う。
ディスプレイに顔を向けたまま目が細められた。
「センパイが、来いって言ったんじゃないッスか」
石蕗の顔から笑みが消えた。
石蕗が横に顔を向ければ、豊高が肩を縮めて上目遣いでこちらを見ていた。
相変わらず椅子を左右に揺らしながら。
石蕗は額に手を当て、“あ”に濁点が付いたような音を口から垂れ流す。
「どーしてくれんだよ。俺カノジョいるんだぞ?」
豊高は怪訝そうに眉を寄せる。
「いろんな意味で、キタ、うん」
心なしか、石蕗の顔が少し赤い。
だがその表情も、今にも泣きそうな、悲しそうな目をする理由も、豊高には分からなかった。
「立花はさ、好きな奴いる?」
唐突な質問に対し豊高は「勉強は?」と冷めた切り返しをする。
「ダメだな、集中力切れた」
石蕗は眼鏡を外し、プラスチック製のケースに入れた。
「サボリッスか」
「休憩だよ。で、いるの?好きな奴」
石蕗は目を閉じて目蓋を揉む。
「・・・眼鏡かけんのやめればいいじゃん」
豊高は独り言を落とす。
「この部活入ったら視力落ちたんだよ。コンタクト高ぇし。つかはぐらかすな」
石蕗は真っ直ぐ豊高を見据えた。
豊高は黙りこくってうつむく。
椅子をきしきし鳴らし左右に動かす。
「黙るなよ。気になってる奴とかは?男でもいいからさ」
真っ先に思い浮かんだのは、ずぶ濡れの美しい顔。あんな綺麗な顔立ちをした人間は見たことがなかった。まだ名前も知らないが。
しかし、襲われそうになった事も思い出し、首を猛烈な勢いで左右に振る。
「そっか」
石蕗は、ふう、と息を吐き、背もたれに全体重をかける。
そして気の抜けた声で、ま、がんばれと豊高の背中をポンと叩いた。
石蕗は椅子に座り直し、きしりと音を立てた。
それっきり話は途切れた。無機質な音が室内に戻ってくる。
沈黙はより純度を増して、蛍光灯が瞬く音すら聞こえる。更に、いつしかサアァッと柔らかなシャワーのような音が混じり始めた。
「・・・雨だ」
ぽつりと豊高の口から零れた。
そういえば傘を青年に借りたままだったことを思い出す。
しかし、返す義理もないだろうとその思考をねじ伏せた。
だが、借りたものを返さないでいられるほどの図太さを豊高は持ち合わせていなかった。妙に律儀な自分にふつふつと苛立ちが沸いてくる。
今日の降水確率は三十五パーセント。
傘は家に置いてきてしまった。
もう天気予報なんて見るものか、と豊高は頭の中で悪態をついた。
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