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第9章

結局、豊高は何もせずぼうっと過ごしたが、最後まで部活に残っていた。 六時になり石蕗に 「帰るぞ」 と肩を叩かれたとき、ようやく我に返った。のろのろと学生鞄を引っ張り出し席を立つ。 他の生徒たちも問題集を鞄にしまったり、コンピュータの電源を切ったりしている。 誰よりも早く廊下に出た豊高はすたすた歩いて行く。 と、石蕗がいないことに気づいた。 振り向くと、石蕗は部室の入り口に立ち、中に残っている部員に早く部屋を出るよう促していた。 ぞろぞろと生徒たちが豊高の前を通り過ぎていく。 最後の一人だった男子生徒が出てきた時、石蕗はお疲れ、と背中を叩き部室の鍵を閉めた。 そして後ろ手に学生鞄を持ち、前方で佇む豊高に目をとめる。 にかっと悪戯っぽく笑った。 「何?待ってた?」 そう言いながら豊高に歩み寄る。 「・・・・・見てた」 豊高は表情も姿勢もそのままで、言葉だけ発した。 「そんだけ?」 石蕗は身体をかがめて豊高に目線を合わせる。 「そんだけ」 豊高は微かに顎を引く。 「ふーん」 石蕗は愉快そうに口角を上げた。 「俺、帰ります」 「おう、お疲れ」 石蕗はひらひらと手を振る。 豊高は薄暗い階段を降りて行く。 一階の渡り廊下に着くと、待ちわびたように雨音が耳になだれこんできた。先ほどより激しくなっている。 屋根しかない簡素な造りになっている渡り廊下は雨が降り込み、剥き出しのコンクリートの床の色が変わっていた。 しばらく立ち往生していると、前方から一人の女子生徒がこちらに歩いてくる。背が低く、およそ百五十センチといったところか。 胸の前で切り揃えられた黒髪に、長い睫毛に縁取られた双眸、小さな桜色の唇は日本人形を思わせる。手には学生鞄と真っ赤な傘を持っている。 豊高はセーラー服の衿についた三本の白線に目を見張る。 この小さな愛らしい少女が三年生だと気づき驚いた。 途端、女子生徒はその人形のような顔を引きつらせた。 豊高は不思議に思い、何気なく女子生徒の目線の先を追う。 階段を駆け下りる騒音が大きくなっていき、豊高の横を凄まじいスピードで駆け抜けた。 石蕗だった。 「ヨーコオォーー!」 石蕗は女子生徒ー吉野踊子の身体を高い高いするように持ち上げた。 吉野の荷物が水浸しの廊下に落ちても御構い無しだ。石蕗の目は飼い主を見つけた犬のようにきらきら輝いている。 吉野は下ろせと喚きながら、ポカポカと石蕗を殴る。 豊高はなんともいえない表情で眺めていた。 吉野は豊高に目を留め、顔を真っ赤にさせた。石蕗も気がつき、苦笑しながら吉野を下ろす。照れたように笑いながら豊高に目配せする。吉野は顔を赤く染めたまま豊高の顔を見られないでいた。 豊高は無反応だ。 石蕗は何がおかしいのかハハッと笑う。 そして、さりげなく吉野の肩を抱いた。 吉野は水浸しになってしまった荷物を手にブツブツ文句を言っていたが、石蕗の手を払おうとはしなかった。二人は並んで教室棟へ歩いて行く。 豊高は、胸が痛んだ。 時折、吉野に話し掛ける石蕗の横顔が見えた。 愛おしそうに緩められる口元。 優しく甘ったるい眼差し。 心底カノジョに惚れ込んでいるのだろう、と豊高は思った。 胸が締め付けられる。 当たり前に寄り添えることが、泣きそうになるほど羨ましかった。

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