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第10章
目に、雨水が染みる。
胸がズキズキと鈍く痛む。化膿した傷のような熱を持っている。
豊高は結局傘を持たずに帰路についた。
今はマンションの廊下を、うな垂れてとぼとぼと歩いている。
エメラルドグリーンの磨かれた床には、眉間に皺を刻み、唇を結んだ、今にも泣きそうな自分の顔が映り込む。びしょ濡れになった髪から雫が滴り、時折床に映った自身の顔を濡らす。
二人の後姿が目に焼き付いている。
愛されている。愛している。
誰からも非難されることなく。
自分はあんな風になれない。
どうしようもなく焦がれた。
だが、そんな女々しい部分を豊高の小さく脆いプライドが許さなかった。
故に、豊高は精一杯強がるのだ。
いつものように無言で帰宅する。
手がかじかんで上手く力が入らず、扉は重かった。
家の中は至る所に照明が点いており明るい。珍しいこともあるものだ、と感じながら豊高は靴を脱ぐ。大抵は真っ暗か、キッチンの明かりだけが点いているかのどちらかだ。
耳を澄ませば応接間から明るく談笑する声がかすかに聞こえる。
ふと、足元に目をやれば、見覚えのない男物の革靴が置いてあることに気づいた。
きっちり揃えられた靴には雫一つついていない。
なるほど、来客か。
だが自分には関係ない。関わりたくない。早くこの冷たくまとわり付く服を脱ぎ捨てたい。
そう思った豊高はなるべく音をたてぬように自室へ向かう。
特に、応接間の前を通る時は慎重に。
ドアが閉まっていることが救いだ。
しかし、豊高の努力は無意味だったらしい。
「豊高、帰ってきたの?」
母親の声だ。
豊高はピタリと歩みを止めた。
いや、身震いをした。
軽快な足音が扉越しに近づいてきて、応接間にいた人間に自分の姿が晒し出された。
コーヒーの匂いがふわりと鼻をくすぐった。応接間は清潔で明るく、みすぼらしい自分のいる寒々しい廊下とは別の世界のように感じた。
「帰ってきたのならお客様にご挨拶しないと・・・・・」
母親は相変わらずおどおどした態度だった。豊高はそれが気に食わず、余計なことをするな、という苛立ちも手伝って、苦々しい顔でじろりと母親を睨みつけた。
「なんだ、その格好は」
威圧感のある篭った声が耳に届いた瞬間、豊高は冷水を浴びたように硬直した。
目が見開かれ苦々しい表情が弾け飛ぶ。
声の主はソファに座る壮年の男性だった。
ゴツゴツした岩が積み上げられたようながっしりした体格で、自宅だというのに一遍の隙もなくグレーのスーツを着ている。
白髪交じりの太い眉を吊り上げぎょろりと豊高を睨む。
この男性が立花家の法律であり、豊高の父親である、立花康平であった。
「京香」
豊高の母親の名前である。彼女ははい、と応える。
母親の肩がビクリと震えたのを、豊高は見逃さなかった。
「挨拶はいい。かえって失礼だ」
わかりました、と母親はドアをゆっくり閉める。豊高はその間に客に仏頂面で会釈した。単に反抗心からだったが。父親の向かい側に座る若い男性は苦笑いしながら会釈を返した。
垢抜けない雰囲気から、おそらく余程優秀な会社の新入社員か、父の大学の後輩か誰かだろう。
時折若い社員を連れてきては自慢話や説教じみたことを言う悪癖によって、さぞ周りの人間に煙たがられていることだろう。
そんな考察を巡らせる頃にはドアが閉まり、コーヒーの匂いは寸断される。
いてもいなくても変わりなかったのに。
豊高は大袈裟に溜息をつき自室に向かった。
身体がすっかり冷えてしまった。
早く温かい格好に着替えたいという願望に思考がシフトする。
談笑する声が、場を取り繕うための単なる話し声に変わったことに、豊高は気づかなかった。
溜息があちらの人たちに聞こえたかどうかは定かではない。
立花家でただ一室、豊高の部屋だけが暗かった。
豊高は電気をつけ、きっちり整頓された部屋を浮かび上がらせた。
勉強机に椅子は直角に揃えられ、洋服の一枚、ペンの一本に至るまで居場所が決まっているようだった。
豊高の几帳面な性格がよく現れている。
それとも、やや神経質と言うべきか。
豊高は学生鞄を床に放り、替えのTシャツを黒の衣装箪笥からから引っ張り出す。
衣服が床に散らかるが、今の豊高にとって着替える方が優先するべき事項だった。
豊高は上半身裸になり、Tシャツを着ようとしてはたと気づいた。
タオルがない。
確か洗面所にストックがあったはずだ。
どうせ応接間にいるのだから、と豊高は何も羽織らずに廊下に出る。
だが、玄関で先程の男性と鉢合わせてしまった。
お互い一瞬ぎょっとしたが、男性はすぐ笑顔を作りお邪魔しました、とドアに手をかける。
豊高も会釈をし、早足で洗面所に向かう。
が、豊高はふいに引き返した。
男性の手に、あの黒い傘が握られていたからだ。
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