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第16章

翌朝、豊高の熱はすっかり下がっていた。 石蕗は自転車をゆっくり引きながら豊高と学校に向かう。 9月の朝は涼やかだった。 冷んやりとした湿り気を帯びた空気が少し肌寒い。太陽は雲に包まれ、灰色の空に白く滲んでいる。 豊高は終始無愛想だったが、石蕗は心底明るく楽しそうに話した。豊高は石蕗に何か言われて答えることが心地よかった。言葉を貯め続けた心と身体が軽くなっていくようだった。 校門の前に着くと、石蕗は自転車置き場に向かったため、豊高とそこで分かれた。 豊高は昨日より少し軽くなった身体を弾ませ、教室へ足を運ぶ。 周りの好奇な視線や無邪気な悪意が込められたささやき声には、気づかずに。 太陽が雲から少しずつ解き放たれ、強い日差しがちりちりと肌を焼き始めた。 豊高が教室へ入ると、デジャヴを感じた。 昨日とは違う。 絡みつく目線、ささやき声。何かするたびくすくすと笑う声が上がる。 豊高はすぐに思い出した。 入学当初の、自身の事件の噂話で持ちきりだったころのーーー。 そして男子生徒のグループが豊高を見てある生徒の背中を叩き、お前行けって、と急かす。行け行け、と周りの男子生徒にも背中を押され、その生徒は困ったような、照れ臭そうな笑顔で豊高に近づいた。 実に人の良さそうな顔だった。 そして言った。 「彼氏できたの?」 全身が、粟立った。 すべて理解してしまった。 石蕗と一緒にいた所を見られたのだ。 先程の生徒はグループに戻り、一緒にげらげらと笑っていた。柵の中の猛犬へちょっかいを出して吠えるのを面白がる、小学生の悪戯のようなものだった。 時折こちらへ向けられる好奇の視線に、豊高は戦慄を覚えた。 あの針の筵に座るような日々に戻ることではなく、石蕗を巻き込んでしまったかもしれない、という危機感であった。 すぐにでも石蕗の所に駆けつけたかったが、かえって騒ぎを大きくするかもしれない。 噂になるかもしれない。 石蕗も嘲笑の的になっているかもしれない。 豊高と関わったことを後悔しているかもしれない。 一言詫びたいが、顔を合わせたことによってまた周りから何か言われるかもしれない。 石蕗からも嫌悪が滲み出た言葉を浴びせられたらと思うとーーー 豊高は背筋が凍りつき焦燥感に焼かれた。 授業が終わると豊高は身を隠すように下校した。 ほとぼりが冷めるまで、会うのはやめようと決断したのだ。 帰宅し父親に会うことが嫌で仕方なかった。母親が守ってくれる確証はない。父親が落ち着き始めた時、ようやく許してやって欲しいと請うのみだ。 涙を浮かべて、さも自分も傷つきかつ母親の役目を果たしたような顔を思い浮かべると、胸が捩れるようだった。 がちゃり、と重い扉を開け帰宅する。 すると驚く程あっさりと 「おかえりぃ」 と母親からいつもの通りに迎え入れられた。 母親からも叱責を受けることを覚悟していた豊高は拍子抜けした。 思わず台所の母親の背中をじっと見つめる。 すると、化粧っ気のない母親の横顔が覗いた。乾いた皮膚に細かな皺が刻まれ、眉間に溝を作っている。豊高のよく知る、母親の疲れた表情だ。 「昨日、どこいってたの?」 相変わらずのおどおどした様子だったが、豊高は言葉に詰まった。 「え、いや・・・」 「ねえ、友達って、本当に?」 恐る恐る質問を重ねる母親に、苛立ちを感じ始める。 「いるし・・・普通に」 豊高は、学校で孤立していることを両親に隠していた。母親はますます自分に構い、父親には馬鹿にされることが想像できた。 「大丈夫、だったの?」 母親の顔は蒼白だった。胸が大きく上下し、息遣いに緊張が感じられる。 何故いつもそんなに怯えているのだろう、と豊高は思った。今日は殊更酷い気がした。 そして突然気づく。 あの忌まわしい事件のようなことはなかったのか、と暗に尋ねていることに。 それは豊高の心の敏感な部分に触れてしまった。 背筋に走る悪寒、羞恥による顔の紅潮、体内で内臓が蠢くような嫌悪感が一度にやってきて、豊高を掻き乱す。 「当たり前だ!バカじゃねぇの!?」 豊高は部屋に飛び込み、一晩中ぐらぐらと煮え滾る感情に耐えた。 父親にもあのような詰問をされるのだろうか、母親と父親があの事件を話題に何か話しているのではないか、と考えると、頭の中が沸騰しそうだった。 だが、朝まで何事もなかった。 それがかえって空恐ろしく感じた。豊高は眠ることができなかった。 翌日、疲労と恐ろしい程の眠気を引きずったまま登校した。 再び教室に閉じこもり、狂おしい倦怠と気ままな孤独の中に身を投じる。 つまり、あっさりと、元の日常に戻ったのであった。 睡眠不足のせいで体と頭は錆びつき上手く動かなかった。 昼休みに購買に向かうと、フレンチトーストが目に止まる。何気なく手に取り缶コーヒーも買う。 ふと周りを見渡すが、生徒たちでごった返して誰が誰やら分からない。顔を判別する前に流れていく。 豊高は自分が胸に穴の空いた銅像のように感じた。 人の気配や生暖かい風が胸をすり抜けていく。 だが、これも、豊高の日常の一つでしかなかった。

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