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第21章
ーーーー「ただいま」
豊高は楓の家を尋ねる時自然にそう言うようになった。
11月は風が冷たく、冬の風は一足先に訪れているようだった。
豊高は靴を揃えて脱ぎコートを椅子の背に掛ける。
楓はキッチンにいなかったが、豊高はいつもの通りテーブルに常備された菓子を一つ口に放り込み、ノートや教科書を広げる。そして出された課題に取り掛かった。
じっくり時間をかけて終わらせると、すでに日が落ち壁掛け時計は7時すぎを指していた。
流石におかしい、と豊高は感じた。
楓の名を呼び廊下を歩き回るが、返事もなければ気配もない。
もしや、消えてしまったのか。
まさか、と思いながらも老人の言葉が甦る。
帰るから、と何もない廊下に声を残したが、結局楓は現れなかった。
次の日に尋ねても、楓は不在のままだった。
最初からいなかったかのように、家具たちはひっそりと佇むのみであり、人が生活した形跡を残さなかった。
豊高はひどく不安だった。
楓の存在は豊高の心にひっそりと、だが確かに根を下ろしていた。
豊高は毎日のように楓の家に通った。
そして、人の気配がないのを確認して帰宅した。その度に、楓は帰ってこないのではないか、と言う不安に駆られた。
だが、行かずにはいられなかった。
帰ってくるかもしれない、という希望を捨てられずにいた。
学校ではずっと自分の席に座っている事が苦痛だった。
何もせずじっとしている事など、どうして丸々一学期できていたのか。豊高は不思議でたまらなかった。
だが、寝たふりも苦痛であるし、保健室には養護教諭がいる。
豊高は休み時間はぶらぶらと徘徊することにした。
窓から見える校庭の木々は冬に向け最後の命を燃やす如く、紅葉が最盛期を迎えている。
豊高の教室のある二階から見下ろせば、まるで学校は燃え盛る松明に囲まれているようで、美しくもどこか不安になる景色だった。
豊高の記憶から、はらりと一枚の色づいた葉が舞い落ちる。楓の細く白い指が赤い栞を拾い上げ本に挟む。そして豊高と目が合い、口角をほんの少し吊り上げるのだ。
楓と過ごす時間がこんなにも大きな影響を及ぼしていたことなど、想像もつかなかった。
豊高はふらふらと、地に足つかぬ足取りで歩き始め、誰か拾い上げてくれる者はいるのだろうか、とぼんやり思った。
だが、思わぬところで豊高は拾われるのだった。
その日の放課後の渡り廊下で
「ねえ、」
と凛とした声が豊高の耳に響いた。
「立花君・・・だよね?」
夕日に焼かれオレンジに染まる渡り廊下の向こうで、小柄な少女が立っていた。セーラー服が冷たい風にゆっくりと、重そうに揺れる。
豊高と少女の間はかなりの距離があったが、不思議と澄んだ声がよく響いていた。
豊高は記憶を手繰り寄せる。
少女の顔と記憶の中の人物の顔をゆっくり照合していく。その最中に少女のセーラー服の襟の三本線を発見した途端、豊高の息が止まった。
少女が何者かわかったのだ。
少女は、石蕗の恋人だった。
石蕗の恋人ーー吉野踊子は渡り廊下の先からすーっと歩いてくる。切り揃えられた髪の先も乱さぬほどゆっくりと。豊高は恐怖番組で日本人形が近づいてくるシーンを思い出していた。
「ねえ、アイツと、何があったの?」
澄み切った声がまるで自分を裁こうとしているようで、豊高は怖くてたまらなかった。
吉野の顔を見ることができず、俯いたまま言葉を垂れ流す。
「・・・・・・・何もない、なかった、です」
「そうなんだ」
豊高はちらりと吉野を見る。
小柄な吉野は涼しい顔で豊高を見上げていた。感情を感じさせず、ただただ澄み切ったガラス玉のような瞳で見つめてくる。豊高は唾を飲み込んだ。
「ふふっ。なんか、君かわいい」
ふわりと吉野が微笑む。
鉄面皮かと思いきや、花が咲いたような柔らかな微笑を浮かべたことに驚いた。
「そっか。わかった、ありがと」
吉野はゆったりとした歩みで豊高とすれ違う。女子独特の甘い汗の匂いの中に、清潔感のある石鹸の香りがした。一本芯が通ったような、すっと伸びた背中を目で追う。
美しく気高い後ろ姿に、豊高は生まれて初めて女性に目を奪われていた。
「おう立花!」
豊高がハッとして振り返ると、渡り廊下の先から男子生徒が手を振る。
石蕗だ。
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