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第22章
石蕗が、こちらに歩いてくる。
何日も会っていなかったせいか、まるで夢の中にいるようだった。
石蕗の姿は磨りガラスの向こうにあるようで、声もフィルターがかかったようにぼやけている。
しかし、近づくにつれくっきりと像を結ぶ石蕗の顔が、はっきり聞こえる肉声が、体温を纏った気配が、徐々に豊高の神経を目覚めさせていった。そして鮮明になった視覚や聴覚で目の前の石蕗の姿を捕らえた瞬間、心臓は破裂せんばかりに脈打ち始める。
「超久しぶり!さっき踊子見なかっ・・・どうした?」
豊高はとっさに顔を背けた。
どうしよう、という言葉ばかりが浮かび、思考は埋め尽くされて行った。顔がまともに見られず、高揚感と罪悪感がこみ上げ、かあっと顔が熱くなる。
「・・・まぁ、その、迷惑かけたな」
目線だけを石蕗に送ると、罰が悪そうに俯いている。
「あれからクラスの奴にめっちゃいじられてさ、お前大丈夫だったか?」
「すいませんっ」
豊高は胸が痛かった。
罪悪感と、無責任な陰口に対する苛立ちが心を沸騰させる。一方で、石蕗に嫌悪感を持たれていなかったことが嬉しいという想いがあった。
嬉しさの方が勝っていき、胸につかえていた物が取れ、安堵に流されてしまいそうになる。しかし、豊高は頑なに心を閉ざした。
泣きそうだったのだ。
「すいませんっ、俺が、こんなだから・・・」
「気にすんなって、大丈夫だから」
「っすいません・・・」
不覚にも声が震える。喉元に感情が集まり苦しくなる。
「・・・立花」
柔らかな音色が降ってきた。
豊高は顔を上げられなかった。
石蕗はきっと優しい表情をしているだろう。
それを見てしまったらーーー
「立花、」
豊高はようやく、少し顔を上げた。
「大丈夫だって」
二カッと歯をみせて笑う、石蕗の顔があった。
「なんて顔してんだよ」
「なんでもないッスよ」
豊高はくしゃくしゃになった顔を背ける。
石蕗は微笑みながらも、一瞬困ったように眉をさげたが、すぐにいつものように快活に言った。
「わかったわかった。部活行くか?っつーか来れるか?」
「・・・帰ります」
豊高は鼻水を啜る。
「おう、今度はちゃんと帰れよ」
豊高は苦笑いした。
確かに、わらった。
思わぬ形で石蕗と再会し、和解した豊高の心は軽かった。あれからもう少し2人で会話した。
石蕗の低い声が鼓膜を震わせ、頭に響くたび心地よさを覚えた。
楓の家には行かず、その日は帰宅した。
心がふわふわする。知らぬ間にしかめっ面も緩んでいた。足取りも軽い。
今までに無いほど上機嫌だった。
「おかえりぃ」
という母親の言葉を聞くまでは。
豊高の心に重さがかかる。しかし、今日はいつもより不快でなかった。すぐに部屋に逃げ込む。
あの心地よさを壊したくなかった。
母親の態度や帰宅した父の声も、いつもは心に突き刺さり刺々しくなっていくのを感じていた。
しかし、今日は全身が真綿に包まれたような心地で、何を言われても心に棘が届くことはなかった。
つまり、心穏やかに過ごすことができたのだ。
ーーーいつもこうだったら良いのに。
センパイに会って、毎日他愛ないことを話して、家に帰ったら穏やかにぐっすり眠れたら・・・ーーー
豊高は、幸福な気持ちの中で眠りについた。
豊高は学校で以前より喋るようになった。話し相手は石蕗しかいなかったが。
廊下や購買で顔を合わせた時、決まって石蕗から声や目線や笑顔を送られた。豊高はそれに返事をしたり、挨拶を返したり、会釈をしたりしていた。必要以上に関わると、石蕗も餌食になると思い込んでいたのだ。
「吉野先輩には、怒られませんか?」
「ん?なんで?」
「いや、」
「あ!!そういやヨウコがお前のことかわいいって言ってた!どうやってオトしたんだよ!」
豊高は苦笑いを返した。
予鈴が鳴り、石蕗は教室に向かった。豊高に寂しさが去来した。もっと話していたかったな、と思いながら教室に足を運ぶ。
すっきりした頭で授業を聞いた。いつもよりよく頭に入り、時々石蕗の顔が頭に浮かび口元が緩む。
放課後は、楓の家へ行った。
いないことが当たり前になりつつあり、本当に誰も住んでいなかったのではないかと錯覚してしまう。
変化が訪れるのは、決まってそんな時だ。
家の隅にぽぅと灯りが灯っている。豊高はそこに向かって駆け出した。
勝手口を開けると、楓が椅子に座り文庫本サイズの小説を読んでいた。
豊高は楓を見て嬉しさがこみ上げ、そして絶句した。
楓は豊高に目を留めると微笑んだ。
「どうしたんだよ、それ・・・」
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