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第23章

楓の頭に巻かれた包帯や顔の大部分を覆うガーゼ。左脚のくるぶしからつま先にかけてテーピングでがっしり固定されていた。 「階段」 「は?」 「落ちて、ずっと動けなかった」 「落ちたって、階段から?」 楓は頷く。 「いつ?病院行った?」 「半月前」 丁度楓の姿が見えなくなった頃だった。この建物のどこかの階段下で倒れている楓に気づかず帰宅したことに気づきぞっとする。 「ごめん、全然気づかなかった・・・」 毎日来ていたのに、と自分の情けなさや無力感に打ちのめされ、全身が熱くなる。 「気にするな」 楓は豊高の頭をぽんぽんと優しく叩いた。罪悪感が込み上げる。よく探さずに帰宅したことや、頼れる先輩ができて自分だけ嬉しく感じていたこと。 「ごめん・・・」 「もういい」 楓は豊高の頭を撫でた。 「心配かけて、悪かったな」 それから、と続ける。 「飲み物、淹れてやれない」 叱られた子どものようにしゅんとする楓に、豊高はくっと声を漏らした。 「いいよ、そんなの。淹れよっか?」 え、と楓は間抜けな声を上げる。 豊高は構わずヤカンに火をかけた。楓の見よう見まねで、手際よくスプーンで茶葉の分量を計り透明なポットに入れる。沸騰した湯を注ぐと茶葉がポットの中で舞った。 「合格」 楓が頬杖をつき微笑んだ。 「うっせ。偉そうに」 豊高は悪戯っぽく笑った。 紅茶を飲んでいる時、楓はユタカの話が聞きたい、と切り出した。カップを傾ける豊高は視線だけ楓に向ける。 「楽しそうだ」 楓は満足そうだった。豊高はむっとして唇を結ぶ。 照れ臭かったのだ。 「ん、青春超満喫してるし」 「虐められたりしてないか」 豊高は一瞬顔を引きつらせたが、全然、と自分でも驚くほど滑らかに嘘が滑り落ちた。 「恋人は?」 豊高の口から紅茶が溢れかえる。濡らした口元を袖で拭った。 「嬉しそうだ」 「違うって!恋人じゃない!」 ニヤリと唇を薄く開く楓を見て、口を滑らせたことに気づく。 「・・・・・・お前嫌い」 豊高は吐き捨てるが、楓は唇で弧を描くばかりだった。 「楓さ、なんかあったの?」 楓は意味がわからない、と言うように眉をひそめる。 「なんか、今日はよく喋るじゃん」 「嬉しいんだ」 「なんで?」 「ユタカが、嬉しそうだから」 「・・・・・・」 「会った時は、辛そうだった。今は、そうじゃない。嬉しいんだ」 しかし、疑問が膨らむ。 「なんで?」 楓は、短く息を吸った。 そして、開きかけた唇を再び閉じて、微笑みで引き伸ばす。豊高の目を真っ直ぐ見つめる潤んだ目の奥には、愛しさが溢れ哀しみが沈んでいるような気がした。 何か言いたげな表情だ。 豊高は、何故か顔に血液が昇るのを止められなかった。楓はくすりと息を漏らした。 「顔赤い」 「今はそんな」 「・・・かわいい」 「っ・・・!」 再び沈黙が豊高に襲いかかり、顔に集まった熱が頭へ昇っていく。 豊高は耐えられなくなり、鞄を引っ掴み、帰る!と真っ赤になった顔を隠すように身を翻した。すると、背後でガタっと音がし床に振動が走った。 振り返ると、楓が椅子と一緒に床に倒れていた。 豊高は蒼白になる。 「なにやってんだよ!」 楓は椅子に掛けたままの、豊高のコートを指差した。忘れ物を取ろうと急いで立ち上がろうとし、つまづいたらしい。 「んなもんどうでもいいよ!」 豊高は怪我が悪化していないかハラハラしながら楓を抱き起こす。 ふいに体温を感じドキリとする。 楓のきめ細かで人形のような肌は冷たさを連想させたが、衣服の下に確かに熱い身体があった。それに戸惑いながら、無我夢中で起こした後、見上げれば楓の顔がすぐそばにあった。 やはりこの目に惹かれてしまう。 黒い漆の塗料を塗り込んだように見えていた漆黒の瞳は、至近距離で見ると墨汁を水に濃く溶かしこんだような色で、柔らかさと透明感があった。 ああそうか、これは夜空の色だ、と豊高は感じた。 部屋の明かりを反射し、瞳の上で星が瞬いているようだった。この目に吸い込まれそうになるのは、夜空の瞳が宿す星の引力のせいなのかも知れない。 「ユタカ」 想像以上に近くで楓の声が響き、豊高はハッとした。 床に座ったまま、楓と鼻先が触れるまで接近していたことに気付く。 そう、まるで接吻するかのように。 豊高は「おわっ!」と目を見開き飛び退く。 今自分がしていたことが信じられなかった。 「楓っ、その、違うから!」 耳まで赤くして、豊高はよろよろと立ち上がる。 楓はゆっくり立つと、豊高に近づき背中に両手を回す。豊高は思わず下を向き身構える。 豊高は、コートにふわりと包まれた。 「え、コー、ト?」 恐る恐る目を開けると、視界の端に確かにコートの茶色が見えた。 「ん、気をつけて帰れ」 楓は、優しい眼差しを向ける。あの夜空のような瞳で。豊高は揺らいだ。 この、自分に好意を向けてくれた、優しい人に全部委ねてしまえたらーーーー 身体の芯が痺れた。 思考がワイングラスの中でかき回されるようでクラクラする。酔ったように足下がふわふわしていた。 重心を失った体の中にある心は傾き、恋に落ちそうになる。 「サ、サンキュ」 そんな心を寸前で引き留め、急いでコートに袖を通し、もたつく足で靴を履いた。 開いたドアから吹き込む寒風に火照った顔は救いを求める。眼鏡が白く曇り慌てて擦った。 「じゃっ」 豊高は飛び出すように走り去る。 「ああ」 と背後から聞こえた穏やかな声から、いつも通り微笑みを浮かべていることが予想できた。 だが、とてもではないが、豊高は振り返ることはできなかった。 楓は豊高が去り姿が見えなくなるまで、勝手口に立ち見送った。 姿が見えなくなった後も、その先で心臓をばくばくさせながら歩く豊高を追いかけるように。 悲しげに、微笑んだままで。 いつものように、見送った。

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