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第26章

「あのさ、」 「うおっ」 突如話始めた吉野に奇声がでる。吉野は少し眉をひそめた。 「いや、すいません。その、ビックリして・・・」 「うん。突然無表情で喋るからビックリするってよく言われる」 ハハ、と豊高は乾いた笑いを漏らす。 「あの、石蕗先輩は」 「部活かバイト」 「いや、俺と・・・」 ああ、と吉野は呟き、 「立花くんだから大丈夫」 と一人納得したように頷く。 それは豊高の恋愛対象が異性でないからなのか、根拠ない信頼からなのかわからなかったが。 「いつもね、立花くんの話するの」 「え?」 「卓くんが」 「タクくんて?」 吉野はしまった、と言う表情をしながら、 「・・・彼氏?」 と答えた。 豊高は吹き出した。 一見恋愛において冷めていそうな吉野が、恋人をあだ名で呼ぶことが意外だった。日本人形のような古風な美少女なだけに余計可笑しさがじわじわとこみ上げる。口角が上がりそうになるのを必死で耐えた。 「タ、タクくんて呼んでんスか?石蕗先輩を?」 肩と声を震わせながらも、腹筋に力を入れ平静を装う。 「あいつが、そう呼べって・・・」 頬を赤らめピタリと歩みを止めた。 正面を見れば、横断歩道の信号が赤に変わっていた。 真っ赤な顔で俯く吉野は、年相応の可愛らしさといじらしさを醸し出していた。 「かわいいな・・・」 「えっ」 吉野がパッと豊高の方を見た。思わず発した言葉に豊高は戸惑う。異性に対してそのような感情は抱いたことなどなかったというのに。 「いやっ、仲良いですね、石蕗先輩と」 「仲良いよ。・・・多分」 吉野は頬を緩めた。 「いや、絶対石蕗先輩、吉野先輩のことめっちゃ好きです」 「でも、付き合ってるって、言い切れないから」 「・・・・・え?」 豊高の頭は疑問符に埋め尽くされる。 吉野は、柔らかくなってきた表情が凝り固まっている。豊高はパニックになりそうだった。 吉野は、今にも泣きそうに見えたのだ。 「でも、卓・・・あいつのこと、取っちゃダメだよ」 吉野はふっと力を抜き、悪戯っぽく目を細めた。 「立花くんと話すの楽しかった。バイバイ」 呆気に取られる豊高に、涼やかな匂いのする黒髪を翻す。背丈の小さな吉野は疲れ切った会社員や学生の背中に紛れるが、彼女の凛とした後ろ姿が浮き彫りになる。豊高はあっけに取られ、ただそれを目で追う。 ようやく一歩を踏み出すと、目の前を車が過ぎった。 信号機は再び赤くなり、それ以上進むことはできなかった。 ーーー付き合ってるって、言い切れないから 信号を待つ間、吉野の言葉が浮かび、ふつふつと熱い感情が湧き上がってきた。 「付き合って、いない・・・?」 だとしたら、石蕗は。 吉野のことをあれほど真剣に思っている石蕗は。 吉野が豊高をかわいいと言って嫉妬を覗かせた石蕗は。 吉野の話題になると、嬉しそうにしていた石蕗は。 豊高を本気で思いやり、助けてくれる、石蕗は。 「・・・なんだよ、それ」 石蕗の想いも、自分の想いも、踏み躙られた気がした。胸が苦しくなる。 それでも、石蕗はきっと、豊高より吉野を選ぶのだろう。 大通りを少し離れれば、たちまち人の気配がなくなった。暗闇に囲まれ数メートル感覚で立つ街灯が円錐形に光を落とす。 空には星がいくつか白く輝いていた。 豊高の知識ではオリオン座ぐらいしかわからなかった。冬の星座が冷たく光る。 豊高は空へ手を伸ばす。が、滑稽な気がしてやめた。 引きちぎれそうなほど腕を伸ばしても、決して届かないだろう。 光の速さで走っても何百年かかるのか。 途方もない孤独が押し寄せる。 誰かに会いたくなったが、独りでいたい気もした。 それを満たしてくれる誰かや場所は、豊高には一つしか思い当たらなかった。 ーーー「ただいま」 豊高が訪れたのは、楓の家だった。 いつものように楓は椅子に座り、文庫本を開いていた。肩にはウールのカーディガンがかけられている。未だ頬を覆うガーゼが痛々しいが、豊高の声に反応し笑顔を見せる。 しかし、豊高を見た途端、微笑みを引きつらせて僅かに動揺した。楓の視線に頬の青痣が疼く。 豊高は少し考え、養護教諭に使った話し方が使えないだろうかと、あえてふざけた調子でぺらぺらと喋った。 「いや、昨日帰りが遅いって親にぶん殴られてさ、いつの時代だよっ・・・て・・・」 軽薄な口調に重みがかかっていき、ついには言葉が押しつぶされた。 楓の様子が、おかしい。 空気が重くなり、豊高はゆっくりとしか息ができなかった。 楓の表情は一見普段と変わりないように見えた。いつものように静かに黒く佇ずむ瞳。整然と並んだ顔のパーツ。 しかし、その背後で激しい嵐が起こっているような威圧感だった。 楓と親交が薄い人間ならば、楓はただ無表情に黙っているようにしか見えなかっただろう。 豊高には楓の目元と薄い瞼が強張っていること、唇が拳を握るようにぐっと結ばれていることが分かった。 しかし、それを表す感情が何なのか読み取れずにいた。 激しく怒っているようにも、深く悲しんでいるようにも見えた。 いずれにしても、楓がこんなに激しい感情を内包していることに、驚きを禁じ得なかった。 「楓、その、大丈夫・・・?」 それは自分の台詞だ、とばかりに楓は視線に力を込めた。 「ん・・・大丈夫」 楓は安心したように椅子に背中を預けた。そして、威圧感は消えた。穏やかな空気を纏った楓に胸を撫で下ろす。 「ユタカ」 「ん?」 「見苦しい所を見せたな」 やはりいつもと違う態度を表していたらしい。 「いいよ」 豊高は目を伏せた。どんな表情をすればよいのか、分からなかったのだ。 「・・・その、今日は帰る」 妙な気分だった。今日は何もかもしっくりこない。 豊高はコートに袖を通し、楓に背を向ける。と、つんと裾を引っ張られた。 僅かに眉を寄せ唇を開き、楓の表情から心配の色がうかがえる。 それとは裏腹に、袖口から覗く手首は細く、包帯がバラバラの手足を辛うじて繋ぎとめているようで、とても脆く見えた。突き飛ばそうものなら崩れ落ちてしまいそうだった。 豊高は僅かな衝撃すら与えぬよう、自然と動きがゆっくりになる。そっと、そっと。 楓の身体が壊れてしまわないように、豊高は楓を抱きしめたのかもしれない。

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