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第28章

廊下の窓からは、一粒の星の光さえ届かず暗かった。楓の持つランプだけが頼りだ。 壁に取り付けられた燭台は蝋燭がついておらず、鎌首をもたけだ蛇のような黒いシルエットだけが浮かび上がる。 どこか別の国にいるような心地だった。この屋敷はまるで幻想を生み出す装置だ。 廊下を歩くうち、豊高の脳に酸素が巡る。意識がはっきりしてきて、幻想は霧散していく。 「楓、どこいくの?」 未だ熱に浮かされる声で聞いた。 振り向かず、力強く手を引く楓に不安を覚える。 黒いカーディガンが揺れ、楓の姿は暗闇に溶け込んでしまいそうだった。闇の奥へ奥へと誘われているようで、段々怖くなる。 「楓っ・・・・・・」 悲痛な声が空気を裂く。楓は何も答えない。 背中がざわついた。顔から血の気が引いていく。 「なあ、ごめん、帰らなきゃ、俺」 ぴたりと、楓が止まった。 そして振り向く。なんの感情も感じさせない表情だった。豊高は言葉を間違えたと瞬時に悟った。 「だめだ」 抗う間もなく壁に押し付けられ、噛み付くようなキスをされる。 目を剥き思わず突き飛ばした。 が、大して距離は開かず、わずかに身体が剥がれただけだった。呼吸が浅く、早くなるが、恐怖より驚愕が勝っていた。 豊高のほほを風が掠める。壁に打ち付けられた楓の拳が震えていた。何かに必死に堪えている事がわかった。楓の身体は熱かった。 普段は中性的な雰囲気で柔らかな物腰だが、やはり男性なのだと改めて認識した。 「帰したくない・・・っ・・・」 楓の声は少し震えていた。 痣になった部分を親指の腹で撫ぜられる。 豊高は、あの時読み取れなかった楓の感情の正体を理解した。大切な人間を傷つけられた、悲しみと怒りだったのだ。 滅多に感情を出さない楓がここまで自分のために怒り、傷ついていることに衝撃を受けた。 暴れる感情を押さえつける楓とは対象的に、豊高は冷静さを取り戻していった。 「楓、・・・大丈夫、だから」 そう言うのがやっとだった。 「大丈夫」 それしか、言えなかった。楓は顔を覆う。声は震えていた。 「・・・・・すまない」 「・・・・・・ううん」 「帰せない。帰したくない」 「だから、」 「だめだ!」 吠える楓の整った歯並びが見え隠れする。 獰猛さを感じ、剥き出しの男性の部分を垣間見た気がした。 「お前を、 ・・・立花康平には渡せない」 「え・・・」 なぜ、父親の名前を知っているのか。なぜ、その名前が今出てくるのか。 次から次へと想像や予測が脳から這い出てきて、頭の中で絡まっていく。楓の顔が手の影からゆっくり現れる。眉間に刻まれた溝、黒く濁った瞳。震える唇から言葉が落ちる。 「・・・・・すまない」 苦悶の表情だった。 「・・・俺は、酷い嘘吐きだ」 楓は俯いてしまった。 「・・・・・なんで?」 楓は答えなかった。 「とりあえず、落ち着けよ、どっかで座って」 近くの部屋のドアを開ければ、調度よさそうなソファが見えた。しかし部屋の奥のベッドに目を止めると、豊高は閉口しドアを閉める。が、楓が扉に手をかけ阻止した。豊高の手を引いてベッドまで連れて行き、抱き締めてそのまま倒れこんだ。整えられた真新しいシーツに身体が沈む。 ランプの光は遠い。楓の姿は黒い影になる。得体の知れない怪物に襲われている気がして、震えが止まらなくなる。 「・・・・・やめろよ」 声を搾り出す。身体は硬直していた。 「楓、どいて・・・・・」 楓の手が豊高の髪を梳いた。そんな些細な動作にさえも、声にならない悲鳴が上がる。抱擁は息苦しいほど強く抜け出せない。 そして、ゆっくり楓の上体が起こされる。 顔は見えない。ベッドに磔にされた豊高は、楓の一挙一動に神経を張り巡らせる。 「最初から、犯すつもりだった。ユタカを」 豊高の中で、何かが音を立てて崩れた。 「だが、できなかった」 徐々に目が慣れ、ぼんやりと身体の輪郭が見えるようになってきた。 「馬鹿だな、俺は」 淋しげな言葉が通り過ぎた。 「・・・・・?」 「俺が怖いか?」 楓の髪がさらりと揺れる。気配がした。少し、豊高の顔に近づいたようだ。豊高は泣きそうになりながら顎を引く。 「手遅れ・・・だったのか?」 豊高は怪訝そうな顔をする。 楓の表情も、言っていることも分からなかった。 「関係を持ったのか?」 わからない。 その一言が出ず、口をパクパクさせた。 楓は音もなく豊高にのしかかる。心臓が口から飛び出しそうになった。 だが、それだけだった。 身体を重ね、体温や鼓動や身体の奥に隠された気持ちを探ろうとしているようにも思えた。 「なぜ、そんなに怯える?」 吐息が首筋をくすぐった。豊高は呻き声を漏らし反対側に首を捻じる。楓はため息をつき、身体をずらして豊高の横に寝転がる。そのまま豊高の身体を腕の中に包み込んだ。 「暫く我慢してくれ」 豊高はきつく目をつむり、身体を強張らせる。 「・・・何もしない」 それだけ言うと、楓はじっとしていた。豊高は暫く身構えていたが、楓の動く気配はなかった。勝手に怯えている自分が馬鹿馬鹿しくなり、身体の力を抜く。 身じろぎすると、楓の腕が柔く緩んだ。 眠ってしまったのだろうか。 「楓・・・・・・」 頭の上から、ん?と柔らかな声が降る。 「楓が、怖いんじゃない。昔、その、嫌なことがあって・・・」 「そうか」 楓の胸が、ほっとしたように膨らむのが分かった。 「悪かった」 「うん」 豊高は、その場から動けずにいた。どうしたらいいのかわからなかった。また、暖房もない部屋は寒く、楓の体温が心地よかった。 豊高はそのまま微睡み、眠ってしまった。

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