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第36章
想いは溢れてしまった。もう、取り返しはつかない。
豊高は澄み切った瞳で真っ直ぐ石蕗を見つめた。幼い子どものように純粋で、傷つきやすい目だった。
ああ、終わってしまった。
冷たい涙が流れる。
胸に秘めていた大切な何かが、少しずつ消えていく。
石蕗は唇に微笑を保ったまま頷く。豊高の目を真っ直ぐ見つめ返した。暖かい眼差しだった。
出会ってすぐ惹かれていったこと、
恋人の存在や、気持ちを伝えることに苦しんだこと、
学校で知らぬ間に石蕗の姿を探していたこと、
一目見れば、幸せな気持ちになったこと、
伝えたい事は沢山あった。
しかしまとまらず、ただ頭の中で様々な石蕗の表情が浮かんでは消える。
気持ちを伝えることができ、開放感を感じていたが、これで終わってしまう、という絶望がひたひたと豊高を満たしていった。
「・・・・・・すいません・・・」
豊高から謝罪の言葉がついて出た。
石蕗は笑みを崩さず、「コラ」と豊高の頭をはたく真似をして揺らした。
「謝んじゃねえよ。ありがとな」
石蕗の笑みが眩しく、豊高は直視出来なかった。
告白し、礼が返ってきたことに、もう死んでもいいとすら思った。
「でも、ごめんな。踊子が好きだから、お前とは付き合えない」
豊高は声が出ず何度も頷くしかなかった。
思いを遂げられなかったことが悲しかった。それ以上に、真摯に受け止めて答えを出してくれた事が嬉しかった。
「部活、ちゃんと来いよ?」
「鬼だ・・・・・」
豊高は力なく言った。
「来なくなったらズルズル来なくなるもんなんだよ。まあ、引退するけどな」
豊高は、あ、と間の抜けた声を上げる。
「いつから?」
「形式的には、今月いっぱい。まあ、試験がまだあるからちょくちょく顔出すけど」
「そっか・・・・・」
じりじりと、背中を焦燥感が焦がす。卒業という二文字が浮かぶ。
石蕗が、あと三ヶ月程でいなくなる。
たった1人で学校生活を送ることを想像してしまい、途方もない孤独に苛まれた。そして、恐怖も。
目の前が暗幕で暗く遮られていくようだった。
「ほら」
突然、目に光が飛び込んできた。携帯電話の液晶画面だった。
「これ、メルアドと番号」
石蕗は豊高にも携帯電話を出すよう催促する。豊高の携帯電話を取り、あっという間に連絡先を打ち込んでしまった。そしてニカッと笑う。
「振られたからって離れなきゃいけないわけじゃないんだし。てか俺は嫌だ」
その言葉にまた涙が出そうになったが、
「踊子から略奪してもいいぜ!やってみな!」
との一言に
「アホじゃないスか?」
と冷たく返したのだった。
それからは、漫画やゲームの話、TV番組の話、自分のクラスメイトについてなど他愛ない話をした。
石蕗と話すたびに、じわり、と暖かな感情が胸に広がっていく。思いを伝える前は熱い感情が胸を焦がした。今感じている暖かな気持ちは、それよりも心地よい。
もう、終わったのだ。
豊高の心は凪いでいた。
石蕗を好きになることで産まれた苦しみから、解放されたのだ。石蕗を好きになったことに、心から幸福を感じていた。
しかし、吉野について、あれから話題にでることはなかった。
石蕗が帰った後、豊高はベッドに寝転がる。自分とは違う人間の匂いがした。日に干したシーツに誰かが寝転んだ後のような穏やかな匂いだ。石蕗の匂いだと気付くと、頬が緩んだ。意識がゆっくりと遠退き、微睡みの中に溶けていく。
深夜、豊高の部屋を地震が襲った。
正確には、地震を思わせる大きな音、振動であった。危険を感じた野生動物の様に目が覚めた。
悪夢を見た後のように心臓がばくばくしている。
部屋を出ては行けないと、直感が告げていた。
家具に何か大きな物がぶつかる音や、硝子の割れるような音、怒号、甲高い悲鳴が絶え間無くドア越しに聞こえてきた。
まだ、悪夢の中だろうか、と豊高は妄想する。だが、物音や声が近づいてくるのが、はっきりと分かった。
ドアが軋む。
重機が激突したのかと錯覚するほどだった。
ベッドの上から動けなかった。
来るなと心の中で何回も唱える。
しかし、それも虚しく、ドアが破られる。
悪夢が、父親の姿をしてやってきた。
恐怖を通り越し頭の中が真っ白になる。
悪鬼の形相から雷のような怒号が放たれる。
何を言っているのかもはや聞き取れない。
豊高は、自分の顔半分に拳が迫るのを他人事のように眺めていた。
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