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第37章
ハッと意識を取り戻すと、見知らぬ場所にいた。
半分視界が奪われ、白い壁、緑のソフトビニールカバーの椅子、非常口案内灯が目に映る。時々白衣を着た看護師たちが行き交っていた。
ここは病院の待合室であり、自分は連れて来られたのだと気づいた。
「豊高・・・・・?」
死角から声がした。そちらを見ると母親が涙を目にいっぱい溜めていた。
「あ、うん・・・・・」
豊高が半分呆けたままで答えると、母親はポロポロ涙を零した。
「え、何、なにがあったの?」
涙交じりに母親が話すには、豊高が父親に殴られた後、目は開いていても焦点が合わず呼び掛けに答えなかったことにパニックになり、思わず救急車を呼んだことを伝えられた。応急手当てをし一晩様子を見るためベッドの空きを探していた処だった。心療内科に診てもらう予定もあったという。
そんな大事になっていたとは露知らず、豊高はただただ気恥ずかしかった。
帰り際、看護師と医師に、母親は深く頭を下げていた。豊高は医師と看護師の顔をとても見られなかった。
しかし、心療内科の医師に話があると呼ばれた。
医師は、30代後半の男性であり、スポーツでもやっていたのか浅黒い肌をしていた。
「お母さんは話さなかったけど、それはどう見ても殴られた跡だよ」
豊高は息を呑んだ。
思わず医師の顔をまじまじと見る。
「誰にやられたかは無理に聞かないけど、きちんと自分の身を守るんだよ。誰かに頼ってもいいし、逃げ出してもいいから。僕も候補に入れておいて」
医師はそう言って名刺を渡した。
豊高はこくこくと頷いた。
お母さんによろしく、と言い残し、医師は朧な蛍光灯の灯りが光る廊下に、靴音を響かせながら去った。
名刺を持つ手が震えた。
ーーーー三村真紀
みむらまさき、とふりがながふってあった。
豊高は、その名前を何度も目でなぞる。
母親の恋人の名前を、たった今、初めて知った。
帰りはタクシーで帰宅した。デジタル時計を見れば深夜3時を回っていた。
「明日、学校休みなさいね」
豊高は小さくうん、と呟く。車の窓に流されていくネオンをぼんやり眺めていた。
「・・・・・なんで、父さん、あんな怒ってたの?」
母親は唇を噛む。ふるふると瞳が揺れていた。
「・・・・・今日、豊高のお友達来てたでしょ?」
「まさか、それで?」
「部屋に連れ込んで何をしていたんだって。でも、知らないって答えたら・・・・・」
「・・・・・頭おかしいよ・・・・」
豊高は怒りを通り越し呆れた。
「うん、本当に、おかしい。なんだか・・・・・」
声が冷たく、細くなっていく。幽霊のように虚ろな母親の横顔にぞくりとした。自分の母親のものではない気がした。
「もう、逃げようか・・・・・豊高」
「・・・・・・・どこに?」
「・・・・・・・・」
「・・・・・ねえ、どこに?」
それ以上、何も言えなかった。
母親の目は遠く離れた処を目指しており、心は豊高の傍にないことは明白だった。
帰宅しても、父親はいなかったが、豊高も母親も、それには一切触れなかった。
自室に入ると、乱れたシーツや布団が床にずり落ちていた。現実に起こったことなのだと自覚する。
再び横になると、僅かに石蕗の匂いが残っていた。瞼を閉じると、石蕗の暖かな眼差しが思い出される。心に温かさが灯るが、目の前に迫る拳がフラッシュバックし背筋が冷たくなる。
同じ日に起こった出来事とは思えなかった。
豊高は浅い眠りの中で夢を見た。
茶色いくるくる頭の幼い少年が、母親の手を引き何かわめいている。困り顔の母親の側に父親が寄ってきて、少年をひょいと肩車した。
少年は弾けるように笑い、若い母親は困ったような笑みを浮かべた。
親子は笑いながら歩いていく。
白い日差しが強くなる。
笑い声を残し、その後ろ姿が白く霞んで消えていく。
目が覚めると、ひどく寒かった。布団は跳ね除けられ、身体が凍りついたように冷たく、ガタガタ震えていた。
そして、胸に穴が空いたような喪失感を抱えていた。
なにか大切な夢を見ていたような気がしたが、忘れてしまった。
次の日は、一日中部屋に閉じこもっていた。
この世に一人きりな気分だった。
石蕗からメールが入っており、他愛もない内容だったが息を吹き返したような心地だった。しかし、石蕗と話すことが何故か躊躇われ、返信はしなかった。
ベッドから降りる気がせず、身体がマットレスに根を張ったように動かない。
何度か部屋の外から声を掛けられた気がするが、ひたすら微睡みと倦怠感の中を彷徨っていた。
目が覚めると、窓から光が差し込んでいた。
眠っていたらしい。あの日から、学校は休んでいた。
家の中にいるのは嫌だった。中学生の時に戻ってしまいそうだった。
しかし、出歩くことも憚られた。
救急車が呼ばれたことは近隣の住民に知れ渡っているだろう。平日の昼間に歩き回ることで、また噂の的にさらされることになる。
豊高は、部屋から出ることができなかった。
母親は、何も言ってこなかった。
何と言えばいいのかわからなかったかも知れない。
豊高の世界は閉じていく。
部屋に閉じこもって一週間ほど過ぎた。
家の中だけで生活しているためその感覚すら正しいのかわからなかった。もうどうでもいいと思うと同時に、早くなんとかしなければ、と逸る思いもあった。
どうにもできないまま、冬休みに入った。終業式は、出席しなかった。終業式があったということ、また、石蕗が部活を辞める日であることを思い出したのは、通知表とプリントが家に届けられてからだった。その程度のことだったのだろうか、と情けなさや悔しさ、苛立ちが沸く。
プリントを届けに来た担任は、家庭が大変そうだが頑張れ、としか言わなかった。
豊高は成績表やプリントの中身も見ずに、キッチンの机の上に放置した。両親には何も言われなかったため、それだけの成績は取れているようだった。
石蕗からはメールが頻繁に届き、クリスマスや正月といった歳時記を伝え、辛うじて豊高を外界に繋げていた。
母親とも父親とも話さず、ただ部屋の前に着替えや食事の用意が置かれているだけだった。
豊高はそれを見るたび、なんて情けないのだろう、と思うと同時に、数日経てばそれが当たり前のように思えてきてしまうことが恐ろしかった。
母親と久しぶりに話したのは、元旦の翌日だった。
ドア越しに、弱々しいノック音が部屋に転がり込んできた。
豊高は起きていたが無視をする。
「豊高、お友達・・・・・」
豊高は、まさか、とドアに目をやった。
扉越しに何やら男の声と母親の声が聞こえ、ガチャガチャとドアノブが揺れたかと思うと、
「おう、立花!」
とドアが開け放たれた。
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