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第41章
マンション前の街灯の灯りがちかちか点滅し、切れかかっている。
マンションの正面玄関を覆う植え込みは影を深くしていた。
その影がすーっと伸びて、人一人分の影が切り離された。
豊高はぎょっとする。
人影がくっきりと現れた。顔はまだ見えない。ゆらゆらと輪郭は揺らめき、こちらに近づいてくる。
豊高は身の危険を感じ、玄関に駆け込もうとする。しかし、思ったよりも長い腕に捕まった。
振り払おうとする豊高の手を、静かな声が静止した。
「今日は帰るな」
その声は、久しぶりすぎて、懐かしさすら覚えた。
豊高は声の主の方を見る。
黒い髪、恐ろしいほど端正な顔立ち。深い茶色のトレンチコートに包まれた体は少し痩せたようにも見えた。驚きすぎて口をぱくぱくさせる豊高に
「もう名前を忘れたのか?」
楓はくすりと柔らかく笑った。
「なんで、家知ってんの?」
豊高は怖くなる。
久しぶりに見る楓の顔は美しかった。月も、街灯も、彼と一緒に写ればまるで絵画の背景になったようで、現実感を失わせていく。
「話は後だ。見つかる前に行く」
「は?誰に?」
「立花康平に」
「はあ!?てか何で親父のこと知ってんだよ!」
「それも後だ」
「ふざけんなよ、何でお前の言うこと聞かなきゃなんないんだよ!」
「殺される」
豊高は耳を疑った。
「このままでは、立花康平に殺される」
咄嗟に反論しようとしたが、顔半分目掛けて飛んでくる拳を思い出し何も言えなくなる。
楓の手は、声は、小さく震えていた。弱々しい部分を目の当たりにした豊高は戸惑う。
楓は大人しくなった豊高の手を引いていった。
楓の家は、あの洋館は最後に訪ねた時となんら変わっていなかった。
ほっとすると同時に、苦しんでいた時期に戻ってしまいそうで、どこか落ち着かなかった。
楓は戸棚に手を掛けるが、お茶はいらないと伝える。
「そんなことより、何で連れてきたんだよ」
「ん」
豊高の腕に、タオルとパジャマが押し付けられた。
「風呂、先に入れ」
「は?!」
「すまない、少しだけ、休ませてくれ」
楓は椅子にどさりと乱暴に座り、背もたれに身体を預けた。
豊高は頭に血が上りそうになり、浴室に向かった。
熱いシャワーで身体を温めた後、キッチンに戻ると楓は椅子に座ったまま寝息を立てていた。
豊高はため息をつく。
起こそうと身体を揺らすと、わずかにコートとシャツがはだけて素肌が覗く。滑らかに流線型を描く鎖骨とすっとした首筋が妙に艶かしく、思わず目を逸らす。
しかし、僅かに見えた青あざが目に止まった。こんなところ、何処で打ったのかと呆れて少しシャツの襟元をめくり上げる。すると、もう一つ痣が見つかった。
豊高はそれを凝視する。足先が、冷たい床に冷えていく。
コートの胸元を開くと、その下のシャツはボタンが弾け飛んだ跡があった。その奥を暴くと、赤や青、紫といった、色鮮やかな痣が散らばっていた。
楓は、何者かに、暴行を受けたのだ。
「大丈夫だ、ユタカ」
暖かさが体を包む。豊高は楓に抱き寄せられていた。強い力だった。
「大丈夫じゃ・・・・・っ!」
もがく豊高に腕を緩めるも、離しはしなかった。
楓は深く息を吐き、豊高の匂いを確かめるように鼻で大きく息を吸った。
「・・・・・・会いたかった」
豊高はキュッと胸が締めつけられ、何も言えなくなってしまう。
「少し、変わったな」
楓は豊高の顔を華奢な掌で包み込む。そして大きな瞳を覗き込んだ。
「力がある。前に、進もうとしている」
嬉しそうな口調とは裏腹に、悲しそうな笑みだった。
「・・・・・置いて、いかれる気がする?」
豊高がそう言うと、楓は少し目を見開いた。
「俺も、そんな気がするんだ」
「誰に?」
「先輩とか、友達・・・・・?」
「周りを見ている証拠だ。下を向いていた頃とは、違う」
自分が少しずつ、前に進んでいることが確かめることができ、嬉しさが広がっていく。
「・・・・・風呂に入る」
楓はふらつきながら立ち上がる。
「・・・・・大丈夫?」
「ああ」
「誰に、やられたんだよ」
一瞬肩がぴくりとしたが、振り返り微笑を浮かべる。
「大丈夫だ」
「嘘だ」
「嘘ではない」
「じゃあっ、これっ・・・・・!」
豊高は楓の胸倉を掴む。その内側には痛々しい暴行の痕がはっきりと残っている。
「また階段から落ちたとか言う気かよ!この大嘘つき!」
豊高の手は震えている。目が熱い。充血し涙が溜まり始める。
「言いたくない。駄目か?」
無表情でそう返す楓に、一気に脱力感に襲われた。怒りは一瞬で奪われる。
「そうかよっ・・・・!」
豊高は突き飛ばすように楓を振り払った。
「・・・・・すまない」
そう言う楓を無視し、豊高は椅子に腰掛け、楓から顔を背けた。楓はしばらく豊高を見つめていたが、やがてキッチンを後にした。
楓がキッチンに戻ってくると、豊高の姿はなかった。
パジャマが脱ぎ散らかされ、床に落ちていた。
楓は慌てて勝手口に駆け寄る。
靴がない。
まさか、と思いドアを開ける。
冷たい風が顔を殴り髪を逆立てた。顔をしかめ辺りを見回すが誰もいない。風だけが激しく吹き荒ぶ。
「・・・・・ユタカ・・・!」
楓も豊高と同じように、寒風の中に飛び出して行った。
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