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第44章
家に帰ると、当然のようにマンションの前に楓が待ち構えていた。豊高の全身をじっと眺める。
「・・・・・家に、帰ったんだな」
表情の濃淡が淡いのはいつものことだが、瞳の奥でチリッと小さく火花が散った。
「・・・・・ごめん、でも、何もなかったから」
楓は益々表情を強張らせる。
「ごめん・・・なさい」
「・・・・・」
楓はつかつかと歩き豊高の目の前まで来ると、豊高の顎を掴んで正面を向かせた。
「・・・怪我は?」
「なかった」
言い終わらないうちに、楓に抱き締められ豊高は狼狽える。誰かに見られていないか、瞬時に神経を張り巡らせた。
「ごめん、ここ外だから」
楓は名残惜しそうに離れる。
「あのさ、今日は帰って。楓ん家には行けない」
豊高は握った手に爪を立てる。
「・・・・・ちょっと今、余裕ない」
昨夜、家に帰っていたら
楓の家に行かなかったら
楓が、連れて行かなかったら
そう思わずにいられなかった。
感情のままに喚き、楓を責め立ててしまいそうだった。
「・・・帰れよっ!」
怒りや憤りが吹き出し、豊高は焦り始める。抑えきれなくなりそうだった。
「なにがあった?」
あくまで静かな楓の声に、脳が沸騰する思いだった。
「・・・・・っ」
脳の神経が、焼き切れそうになる。
頭痛がひどい。
「母さんが、入院してる」
楓は目を見開いた。
「・・・・・父さ、あの男に・・・」
唇が、肩が震えていた。怒りと悔しさで視界が熱く滲む。楓は察したらしく、
「わかった・・・」
と言葉を重々しく断ち切った。
「俺が、悪かった」
豊高はどこまでも冷静な楓に、発作的に拳を肩まで振り上げた。父親の顔がよぎったが、制止できず楓の顔に目掛けて振り抜いた。倒れこそしなかったが、楓の頬がみるみるうちに腫れあがる。豊高は拳を凝視しながら、ゆっくりと指を解き愕然とした。
怒りは爆散したが、嫌悪感が広がっていく。
骨や肉を捉えた感触が、音が、何度も再生される。
あの男と同じ血が流れているのだと思うと眩暈がした。
「・・・・・大丈夫だ」
楓の手が豊高の手をそっととる。腫れていく頬を押さえることもなく、豊高を見つめる。
「お前は、父親とは違う」
楓は、目に涙を溜めた豊高の頭を優しく撫でた。
豊高は楓を家に上げ、頬の手当てをした。保冷剤をタオルに包み楓に渡す。
「・・・・・ごめん」
豊高はようやく謝罪することができた。
「いい」
楓はタオルを受け取り頬に当てる。保冷剤の冷気に、微かに吐息が白く曇った。気怠げに頬杖を付き、しなやかな指が纏わりつく。楓は何をしても色香が付きまとっていた。
豊高は、艶かしいが見てはいけないものを見てしまったような、妙な居心地の悪さを覚えて目を逸らした。
ティーパックで淹れた紅茶を差し出す。
「こんなんしかないけど」
「ああ」
楓は少し口角を上げた。柔らかな表情が見られほっとする。
と、豊高の携帯電話が震えた。三村、という名前が表示されていた。心臓がひやりとする。楓に断って席を立つと、恐る恐る耳に当てる。
『もしもし、無事だった?』
「はい、ありがとうございます」
『さっき、一緒に入っていった人がカエデさん?』
エに濁点がついた様な音が喉から漏れた。抱きつかれた所や殴ってしまった所を見られたと思うと、顔から火が出そうだった。
『ごめん、君一人で帰す訳には行かなかったし・・・。ところで、あの人、カエデさんでよかったんだよね』
豊高の頭に疑問符が浮かぶ。
『・・・名前が違うんじゃ人違いかな・・・』
三村の呟きに、息が止まりそうになった。
まさか、そんな、と楓の方を見る。
楓は豊高と目が合うと、何のことかわからないという風に瞬きした。あり得ないとは言い切れないのが不安を掻き立てる。信じたくないが、彼は嘘の数や隠し事が多すぎる。
「何かあったのか」
楓は極力小さな声で聞いた。
「あ、えっと・・・」
『ああそうだ、お母さん思ったより早く退院出来るみたいだよ』
「あ、わかりました。ありがとうございます」
『もうしばらく下に居るから、何かあったら連絡して』
豊高は礼を言うと、通話を切った。
「母さん、すぐ退院できるって」
「よかったな」
楓は目元を緩める。いつもと同じ笑みなのに、急に得体の知れない存在に見えてくる。
「三村さん。
って人が教えてくれた。心療内科医の」
楓の視線が左に流れた。何かを思い出す時のように。豊高は楓の反応を待つ。楓はそうか、とだけ短く答えた。次の質問をすることにした。
「楓は、親父と知り合いなの?」
「・・・・・座ったらどうだ?」
「誤魔化すなって」
豊高が睨み付けると、楓は観念したように、重々しく口を開く。
「・・・ああ」
と簡潔に肯定した。
「いつから?」
「・・・・・」
「楓なんで殴られたの?」
楓は黙ったままだった。豊高が納得するような答えを探しているようだった。豊高は容赦なく質問を矢継ぎ早に浴びせた。
「どういう知り合いだった?母さんは知ってた?いつ知り合ったの?
ーーーーー殺されるって、どういうことだよ」
楓はなおも言い淀んでいる。豊高の不安が膨らんでいく。
「どういうことだよっ・・・・!」
豊高は必死だった。
「アイツがクソ野郎だってことはとっくに分かってるよ!何言われてもショック受けるとかないから」
楓の顔に苦々しさが広がる。
「立花康平は、お前を愛している」
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