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第二十八話

 今宵の闇と、暗い雲のかかった神秘的な月の光は、悪魔が誘惑しにきてもおかしくないおどろおどろしさがある。  ジャンは女王との約束の場所で、邪神信仰に没頭する信者のように、月に祈りを捧げ立ち尽くしていた。  自分の夢や欲望を、神や悪魔が魔法で叶えてくれることなどありえないというのに  ジャンは、もし願いを叶えられるなら、メフィストフェレスと契約したファウストのように、魂を賭けてもいいと愚かな事を考えてしまうほど、追い詰められていたのだ。  おかしな妄想に囚われはじめた自分に、一人苦笑いを浮かべたその時、女王は静かにジャンの前に現れた。 「どうしたその顔は?私が約束を破るとでも思ったか?」  老齢でありながら、力強く女性らしい艶やかさを失わぬその声は、彼女が神に選ばれた女王であることを確かに示している。 「いいえ陛下、必ず来てくれると信じていました」  ジャンは掌を差し出し、女王を窓辺へとエスコートする。夜空を眺め、どう話しを切りだそうか考えていると、女王はいつものように沈黙せず、月を見つめたままジャンに尋ねてきた。 「おまえも随分大胆な事をしたな?私の機嫌を損ねると考えなかったのか?」  女王の変化に驚きながらも、心を割って話そうという意志を感じとったジャンは、素直な気持ちを口にする。 「もちろん考えました。ただ、陛下は私がいない方がいいのかもしれないとも思ったのです」 「なぜ?」 「陛下はこの場所で初めて私を見た時、もうこの世にいないエセックスと呼び、どこか懐かしむように私を見つめていた。 しかし、私がジャンだと分かると、陛下は途端に興味を無くし夜空を眺め始めた。その後、何度ここでお会いしても、エセックス伯と間違えた時以外、陛下が私に関心を示すことはありませんでした。ですから…」 「拗ねて昨晩来なかったというわけか?」 「いえ、拗ねたわけでは…」  ジャンの言葉を待たず、女王は語り始める。 「初めておまえを見た時、私は出会った頃のエセックスを思い出した。もう10年以上前になる、あれは20代のうらわかき青年だった。 だから私は、おまえに関心を抱かぬよう、自分から遠ざけるようにしたのだ」  思いもよらなかった女王の本音に、ジャンは驚愕した。 「今は亡きウィリアムも、おまえの父も、あの男は駄目だと何度も進言してきた。 だが私は、あれの少年のような求愛が可愛くて仕方なかったのだ。例え全て、借金から逃れるための演技だったのだとしても…」 「おそれながら、私は彼が、借金のためだけに演技ができる人間とは思えません。 私も一度だけエセックス伯にお会いした事がありますが、彼は私がヘッドヴァン家の人間だと分かると、あからさまに顔を歪め不快感をあらわにしました。正直、あれだけわかりやすく感情が表に出てしまう人間に、そんな器用な事が出来るとは…」   エセックスに対する率直な印象を述べると、女王は心底面白いというように笑う。 「一度会っただけなのに中々鋭いな。 私はあれの、率直で素直なところがとても気に入っていた。腹が立てば相手が誰であろうと怒り震え、嬉しければ全身で喜び笑う。本音を隠し、相手の思考を探りながら出世していく事こそ宮廷で生きていく賢い方法だと言うのに、私はあれにその術を教えなかった。 感情的で、ロマンチストで、青くて、血気盛んで、そんな愚かな男のままでいて欲しかった。 結局私のエゴが、あれを死に追いやったのだ」  感情を抑えているのか、淡々と語る女王の顔には、後悔も悲しみも映しだしてはいない。 「エセックス伯を死に追いやったのは彼自身の愚かさです。彼こそが、陛下への愛よりも自身のエゴに走った。陛下が責任を感じる必要などありません」  ジャンの言葉に、女王は微かに微笑む。 「おまえは見た目はあれに似てるが、中身は全く違うな。ここで初めて会った時も、私に気に入られたい一心で甘い言葉でも囁いてくるかと思ったが、おまえはただ黙って私の側にいるだけだった。おまえの望みはなんだ?エセックスやローリーのように、私に取り入り出世してやるという欲も感じない、おまえの兄アランのように、清廉な愛国心があるようにも見えない。なのになぜ、ここまでして私に近づいた?」  この話しの流れに乗らなければ、女王に嘆願するチャンスは二度とないと思ったジャンは、決意を固め、正直に心の内を告げる。 「陛下の言う通りです。恥ずかしながら、私には男らしい出世欲も、兄のように純真な正義感も持ち合わせてはおりません。 私は、エドワード伯爵の釈放を嘆願したく、陛下のお側へ参りました」 「エドワード?ああ、懐かしい名前だな、最近ロバートからも同じ名前を聞いたばかりだ。エセックスと通じていた証拠が新たに見つかったらしいな。あの事は全てロバートに任せてある。私がその事で動くことはない」  にべもなく断られるも、ジャンは必死に食い下がる。 「恐れながら陛下、エドワード伯爵は今でも陛下を愛する僕です。エセックス伯に協力することなど絶対にありえません」 「私を愛する僕?あれは昔、私の侍女に手を出し妊娠させたのだぞ!ローリーも、エセックスも、エドワードも、皆結局同じだ!私を女として一番愛する者など、もうこの世には誰もいない!」 「エドワード伯爵は違います!彼は私に、とても重大な罪の告白をしました」 「罪の告白?ほう、侍女と姦淫した罪か?それとも、エセックスと共謀した罪?」  女王は皮肉を言いながらも、ジャンの言葉に興味を示す。これを言うことが正しいのかはわからなかったが、もう引き下がることはできない。 「エドワード伯爵は、陛下を1人の女性として愛し、心の中で、第七戒を破りました」  出エジプト記20章14節、モーゼの十戒第七の戒めは、姦淫してはならぬというもの。  これを女王陛下に言う事は、女王の威光を穢す侮辱ととられてもおかしくない。だが女王は、ジャンの言葉を微動だにせず聞いている。 「エドワード伯爵は、唯一絶対の女神である陛下にそのような想いを抱いた自分を責め、苦しみ、どんなに足掻いても、陛下と結ばれる事は叶わないのならと、陛下の代わりに侍女を汚すことで欲望を果たしたのです。 私が、女王を愛していたならなぜそんな馬鹿な真似をしたのかと尋ねた時、エドワードは、人間は、神が創造した中で一番愚かな生き物だと言っていました。私も…」  そこまで言って、ジャンは言葉を止める。  エドワードの事を話していたはずなのに、ジャンはいつの間にか、もうずっと会う事すら叶わない、ロイに対する自分の思いを重ねていたのだ。 「私もなんだ?」 「エドワードの気持ちが理解できます。男とは、なんと愚かな生き物なのかと…」 「おまえにも、そんな相手がいるのか?」 「…いいえ、ただの想像です」  女王の問いを否定しながらも、ジャンは、破滅を知りながら欲望に支配され突き進んでしまったエドワードの気持ちを、今は理解できてしまう自分に気づく。 「なるほどな、だが、例えエドワードの行動が愛ゆえだったとしても、それがエセックスと通じていない証拠にはならぬ。そもそもおまえはなぜ、そんなにエドワード伯爵を助けたいのだ?」 「陛下がお聞きになっているか分かりませんが、私は劇作家です。貴族が着くべき職業ではないと父に反対されていますが、エドワード伯爵は、私の処女作ディアフォトスをオーク座で公演し、私のパトロンになってくれました」 「ディアフォトス?どこかで聞いた事があるな」  女王は顎に手をあて考えこんでいたが、やがて思いだしたように語り出す。 「私の最も大切な友人ノッティンガム伯爵夫人が、ディアフォトスの事を話していた。 確か、カインとアベルをモチーフにした兄弟が一人の女性をめぐり争う愛憎劇で中々面白かったと」 「本当ですか!」  思わぬ女王の言葉に、ジャンは喜び声をあげる。 「ああ、私も見に行きたかったが、エドワードがパトロンをしている劇団だと聞いたので行かなかった」  完全に避けられているエドワードに同情しつつも、自分の作品を女王が知ってくれていたことに感動し、ジャンの声は自然と弾む。 「彼が劇団を作ったのは陛下の気を引くためだったのですが、陛下はその事に気付いておられたんですね」 「全く、見えすいた手を使うバカな男だと思っていたよ。だが、おまえの戯曲は観てみたい。ここ最近の政治色の強いものにはうんざりしていたが、本来演劇は政治的な思想を主張するものではなく、しばし現実から離れ、美しい物語に心を浄化され恍惚を得る一時の夢だ」 「私も、陛下と全く同じ考えです」  深い共感を示すジャンに、満足気に頷いた女王は、突然思いついたようにジャンに提案する。 「ジャン、こういうのはどうだ? このヘッドヴァン家の屋敷にエドワードの劇団を呼んで、おまえの書いた戯曲を御前公演し、私がおまえの戯曲を気に入ったら、エドワード伯爵の釈放に口添えしてやろう」 「いいのですか!陛下」 「そのかわり、気にいらなければ私は何もしない。それでも構わぬか?」  もちろん本音を言えば、絶対に口添えするという確約が欲しい。だが、目の前に現れた幸運の女神の前髪を掴まないなどという選択肢が、ジャンにあるはずもなかった。 「構いません。陛下に見て頂けるだけでも、私にとって身に余る光栄です」  ジャンは女王の前に跪き、深く感謝の意を表す。 (部屋に戻ったらすぐトーマスに手紙を書かなくては!)  嘆願が成功したとは言えない。  でもこれは、オーク座に女王からチャンスを与えられたということ。成功も失敗も、後は全て、トーマスとオーク座の俳優達に託されたのだ。

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