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損壊と隠滅(1/3)
北側に大きく開口したアトリエ。片流れのトタン屋根から、ほつん、ほろほろ、ほつん、ほろほろと音が聞こえる。
桜の花が盛りを終えて萼ごと屋根に落ち、風で転がる音だった。
俺はチェーンソーで荒取りしたクスノキの塊にノミを打ち込み、女性の体を浮かび上がらせていた。
前に出した足に重心を移し、力強く一歩を踏み出す。
寿命を終え、死体として目の前にやってきた丸太に、どうやったら命を与えられるか。
近頃はそんなテーマばかりを考え、追っている。
クスノキにとって二度目の人生、木から人間へ姿を変えての転生。
木として生きていた時は、誰かに見てもらおうなどと考えず泰然としていただろうに、今、俺はこのクスノキを見てもらうために彫刻している。クスノキはそんなことは望んでいなかっただろうに、俺は売れたい。見てもらいたい。見る人の心を動かしたい。
ノミの刃を立て、木づちで打つ。木肌が滑らかに裂ける感触が手に伝わっていたが、突然ガリッと硬い抵抗が腕に跳ね返ってきた。節だ。濃い茶色の渦が木目に浮かび、刃先を嘲笑うように硬く締まっている。何もかも信じられなくなって、刃がはじかれるたび、もしやこの丸太に残された死んだクスノキの残留思念が、俺の作業を阻んでいるのではないかと思う。
「ちくしょう。どいつもこいつも俺のことを嫌いやがって」
暗く行き場のない感情は、ドアが開くと同時に吹き飛ばされた。
「ねえねえ、竣! 聞いてよーっ! 限定の桜餅、買えちゃったあ!」
バカでかい声に俺は誰何もせず怒鳴る。
「うるせえぞ、瑶平!」
「そんなこと言っていいのかなあ? 一日50個限定の桜餅、買えたんだよ! 食べよー!」
作業台の上に散らばるクスノキの削りカスと、まだ新しい高級な絵の具のチューブを適当に押しやって、瑶平は和菓子店の包みを並べた。
「ここ、おむすびとおいなりさんと海苔巻きもおいしいんだって。画廊で教えてもらったから、買ってきちゃった」
さらに三つの包みをどん、どん、どんと並べ、ペットボトルのお茶を、使いっぱなしで洗っていないマグカップに注いだ。カップの底で乾いていたコーヒーがお茶の緑に溶けていく。
瑶平には、画廊の知り合いがたくさんいるが、俺にはいない。瑶平はこの大きなアトリエを建てて維持する資力があるが、俺にはない。
それらの格差に目を向けると気が差すが、俺にはクスノキを刻むことしかできない。
「順調そうじゃん」
削り始めたばかりのクスノキを見て、瑶平は目を細めた。生まれる前の胎児を愛おしむ母親みたいな表情だった。
「どうだか。午後は節をえぐり取る作業からだ」
電子タバコを握り、フィルターのカプセルを噛んで、深く息を吸い込む。
瑶平はクスノキの前まで歩いていき、腕組みをした。軽く上体を引き、あごを引いて上目遣いで作品を見る。
「節、残しても面白そうだけどな。どんな人間の身体にだって、美しくない部分のひとつくらい、あるものだろ」
その言葉には一理あるような気がした。やわらかなクスノキの身体に硬い節を残すのも、悪くないかもしれない。
そういう瑶平のキャンバスは、布目を潰すように赤や青の絵の具が塗られたきり、放置されていた。最新のヘッドホンが掛けられ、ノイジーな音楽を聴かされ続けている。
「お前、追い込まれねぇの?」
「めちゃくちゃ追い込まれてるよ。絵に音楽を聴かせて情操教育したら何とかならないかなって思うくらい。回顧展は決まってるし、注文もいろいろあるし。でも描けないんだからしゃーなし。ダメならごめんなさいって言うしかないよね」
あっという間に桜餅と道明寺を食べ終えて、いなりずしとかんぴょう巻きに手を伸ばす。
「普通、甘いものはしょっぱいもののあとに食わねぇか」
そんな俺の疑問は無視して、瑶平は指先を舐め、ごちそうさまと立ち上がった。
キャンバスの前に立ち、ヘッドホンで耳をふさぐ。軽く飛び跳ね、それから頭を左右に激しく振って、踊り始めた。
「ひゃっほーう!」
「うるせぇぞ」
何も聞こえていないとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。
「自由でいいよな」
俺だって同世代の作家と比べたら、かなり自由なはずなのに、人間の欲望は果てしない。
ため息をついて切り上げ、またクスノキに向かった。
「ひゃっほーい!」
瑶平の声を聞きながら、ノミをあてていく。
気づいたら、アトリエの中に黒い影があった。
「うわ、びっくりした」
夢中になりすぎていて、来訪者に気づかなかった。
「いえーい!」
相変わらず瑶平は耳をヘッドホンでふさぎ、頭を振って踊り狂っている。俺が代わりに立ちあがり、頭を下げる。
「お世話になっています。瑶平は、今はちょっと話しかけられないかも」
ビジネススーツを着た男性は、眼鏡の奥の目を細める。
「瑶平先生の鮮烈な色使いと、見る者の目を開かせる才能は素晴らしい。彼の徹底した歓喜へのこだわりと哲学は、熱心なコレクターから通りすがりの人まで、幅広く訴求する力がある」
画商は眼鏡の奥で目を細め、瑶平の踊る姿を値踏みするように見つめた。
「昼間、だいぶ落ち込んでいらしたので、様子を見に来ただけです。よろしくお伝えください」
名刺と和菓子店の包みを俺に託し、静かにアトリエから出て行った。
相変わらず、俺の作品には目もくれない。
「今さら、あいつに買ってもらいたいとも思ってねぇけどな」
強がりを呟いて、名刺と和菓子店の包みを一緒に冷蔵庫へ放り込み、足でドアを閉めて、再びクスノキの前に座った。
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