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ブラック・アンド・ホワイト
ここなら誰も来ない、俺だけの秘密の場所だ。
入社三年目の春、そう思えるバーを見つけて通っていた。
私鉄沿線の住宅街の中にある店で、会社の人なんて絶対に来ないはず。
「ピアノ借りていい?」
俺は店の奥にある、グランドピアノの前に座った。
タブレット端末に楽譜を表示させ、右足でペダルを踏んで感触を確かめる。椅子の位置や姿勢を整えて、鍵盤の上に両手を置いた。
息を吸って、吐くのと同時に鍵盤を押す。
一音目からいきなり切ない音が出て、恋をすると、音色が変わるよなあと思う。
ショパンやベートーヴェンなど、片思いの辛さを生かした曲ばかり弾いて、次は何を弾こうかとタブレット端末の画面に指を滑らせたとき、不意に聞き慣れた声がした。
「高梨さんの意外な一面を見ちゃった」
「しゅ、しゅしゅしゅ主任っ!」
俺の口から裏返った声が出た。かっこ悪ぃ。でもまさかこんなところで会うと思わなかったし、何の心の準備もしてなかったけど、これは第二営業部トップの成績をとったご褒美なのかな。神様ありがとうすぎる。
「こんなところで会うなんて奇遇だね。高梨さん、ピアノ、すっごく上手いね」
「ど、どうも」
「演奏を聴かせてもらったお礼に、一杯ごちそうしたいな」
主任は小柄で童顔で爽やかで健全で、バーのイメージはない。
「ってか、主任って酒、飲めるんですか?」
「飲めるよ! 僕ってそんなに童顔?」
頬を膨らませ、唇を尖らせる姿が、ますます可愛い。写真撮りたい。
主任は黒ビールと牛乳を混ぜた甘いブラック・アンド・ホワイトを飲んでいる。その可愛さに我慢できず、俺はスマホを取り出した。
「写真撮ってもいいすか」
「いいよ」
嫌がるかと思いきや、グラスを持ってにっこり笑った。
寄って、引いて、右から、左から、俺は連射モードで撮りまくった。
「高梨さんって、面白いね。そういう人、好きだよ」
「す、すすすすす好きって、好きって」
「どういう意味にとってもいいよ」
楽しそうに酒を飲み、主任はバースツールから滑り下りた。
「僕は火曜日以外は来ないようにするから、高梨さんはこれからも気にしないで来て」
帰ろうとする主任の背中に慌てて声をかけた。
「それなら俺も火曜日に来ます!」
「そう。じゃ、火曜日の夜の出来事は、これからずっと内緒にしようね」
俺が胸を押さえて息を止めているあいだに、主任は店から出て行った。
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