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損壊と隠滅(2/3)

 気づいたら真夜中だった。  節は、女性像の左肩に残ることになりそうだ。瑶平の言葉が頭にこびりつき、削る手が止まったままになっている。  まだ上半身の輪郭を彫り出しただけだが、手応えはいい。  ほっと息をつくと、疲労と眠気が襲ってきた。  アトリエの隅に置いてあるマットレスには、すでに瑶平が眠っている。  そして立てかけられたキャンバスは、半年前から何も変わっていない。  真っ白なキャンバスに、鮮烈な青と赤の色があるだけだ。絵の具を厚く塗ったところはすでにひび割れ、剥落しているところもある。  あれだけ踊り狂っていても、そこに瑶平が得意とする多幸感はなく、こいつ、本当にスランプなんだなと思う。  瑶平の隣に疲れた身体を横たえて、間近にその顔を見る。  色白でまつ毛が長く、鼻の先が丸っこくて、小作りな唇がふっくらしている。カールした髪とあいまって、よく天使のようだと評される。  しかし今、薄く口を開き、すうすうと寝息を吐く頬には影が差し、顎も異様に尖っている。肩に手を置けば、骨の形がダイレクトに伝わってきた。 「どうにもしてやれねぇもんな」  自分で突破口を見つけるしかない。  俺は瑶平の髪を自分の指に巻きつけながら、いつの間にか眠りに落ちた。  翌朝、髪を触られる感触で目が覚めた。  気配や匂いで瑶平が触っているとわかったが、目が開かない。そのまま放置しているうちに、手櫛で髪を梳きはじめ、その小指が耳に触れるようになった。 「なんだ、家賃の請求か」  ぼやけた声で問うと、耳に甘い息がかかった。 「うん。今月分がほしいなって」  その言葉に、萌芽するように身体が目覚めた。目を開けた俺の視界に、髪を濡らした瑶平の照れた笑顔が、朝光のように満ちていた。 「俺もシャワーを浴びてくる。準備しとけ」  学生時代から、俺たちのあいだには、たまにこういうことがあった。  今は、アトリエの家賃として、行為の相手を求められている。  互いにほかの男を知らないから、世の中にはもっと相性のいい男がいるかもしれない。しかしそんなものを探す時間があったら、自分の作品と向き合っていたかった。  洗った髪を適当に束ねて、仰向けに寝る瑶平に覆いかぶさる。俺の髪から雫が垂れ、瑶平の頬に落ちた。 「冷たい!」 「悪い」  瑶平が笑い、俺も少し笑うが、視線が絡むと笑みは消え、ゆっくり唇が重なった。  唇と手のひらで肌に触れ、甘い声を聞きながら、互いの興奮を高めていく。  瑶平は何度か苦しそうに喘ぎ、身体を震わせてから、俺の腰にまたがった。 「ああっ。めっちゃ気持ち、いい……っ」  俺の硬さを受け入れながら、瑶平は尖った顎を上げる。そのまま痩せた腰を揺らして、快感を追いはじめた。  彼の裸体は、彼の苦悩をそのまま表しているようで、俺は思わず起き上がり、その上体を抱き締めた。 「んっ、竣……っ。いきそう」  その言葉に俺は腰を突き上げる動きに変えた。 「あっ、あっ、竣。いっちゃう」 「いいよ。いけよ」  スランプで苦しむ日々を、一瞬でも忘れられるなら、いいじゃねぇか。そう思ってさらに強く突き上げ、瑶平は恍惚とした表情を浮かべて崩れ落ちた。全身から力が抜け、わずかに笑む姿を見て、俺は安堵を感じた。  結局、午前中はセックスだけで終わった。何度遂げても、しばらくすると性欲がこみ上げてきて、求めあってしまう。  昼になる頃、ようやく身体は落ち着いて、事後特有の甘く優しい時間が訪れた。  すっかり乾いた髪をなであい、頬やこめかみにキスをして、互いの身体に毛布をかけ合う。  鼻先が触れる至近距離で、久しぶりに憂いなく笑う瑶平の顔を見た気がした。 「めちゃくちゃ満たされちゃった」 「それは何より」   クスノキの節と同じように、痩せて骨の浮く左肩をなでていたら、深く脚を絡めてきた。 「ねえ。僕たち、もっとひとつになったらいいと思わない?」  唇を重ね、俺の舌をたっぷり絡めとってから、瑶平はベッドを出て行った。  裸のまま床に落ちていたクスノキの欠片を拾い、そこへチューブの絵の具を直接塗りつける。赤、青、白、黄色と筆で伸ばして、濃さを変え、その結果を俺に見せた。 「かなり色が沈むな。下地剤を塗らないと」 「キャンバスの色をここに再現するなら、ね。でも僕は木と絵の具を混じり合わせたい。木と絵の具が離れられないくらい、深くつながったらいいんじゃないかなって」  俺もベッドから出て、裸のまま瑶平の隣に立った。 「こういう、木肌の荒れたところはかなり滲むぞ? いいのか?」  赤の絵の具は木目に染み込み、その端は水に絵の具を落としたように滲んで広がっていた。ほかの青も白も黄色も、やはりキャンバスの上のような明るさはなく、木目や木の油分に影響を受けてむらを作っていた。 「僕は、これこそがいいって思うんだけど、どうかな? 二人の細胞膜を越えて命が結ばれるみたいに、木と絵の具が深く結ばれて、そこに命が宿ったら素敵じゃない? 僕、そういうのをすごくやりたい。竣と一緒に、やりたい」 「神秘的で、ロマンチックだな。でも悪くない」  俺は今まで、着彩はしないでやってきた。でも、瑶平の絵が俺の彫刻に染み込んで命を結んだら、面白いものができるかもしれない。 「一緒にテーマを追えると思うか?」  俺の問いに、瑶平はうなずいた。 「できるよ。ちゃんとコミュニケーションがとれるなら」  艶のある声と同時に抱きついてきて、俺たちは立ったまま身体を繋げた。 「今日の僕たち、サルなのかな?」  瑶平は笑い、俺も笑いながら、細い腰を捕まえて、さらに後ろから貫いた。  色を塗った木片を持ったまま、瑶平は鼻にかかった声を上げていた。 「あんっ。竣、激しすぎ! またいっちゃう」 「俺も。いきたい。いきそう」 「来て、竣」  振り返った瑶平と貪り合うようなキスをしながら、俺は彼の体内で射精した。  呼吸が落ち着くまで抱き合い、互いの首にキスを繰り返していたら、瑶平が小さく息を飲んだ。  視線を辿って振り返ると、画廊の男がいた。 「すみません。お取込み中とは思わず」  俺は作品を覆う布で瑶平の身体を覆い、シャワーを浴びに行かせた。  脱ぎ捨てていたジーンズを拾い上げて履き、手と顔を洗う。それからコーヒーを淹れて、差し出した。 「お見苦しいところを。失礼しました」 「いいえ。お二人が恋人同士だったとは思わず」  恋人同士になったことはないが、家賃の支払いですと言うのもよくない気がして黙っていた。  シャワーから戻ってきた瑶平は照れ笑いしながら「すみませんでした」とだけ言い、すぐに試し塗りした木片を画廊の男に見せた。 「これ、よくないですか? 色の沈み具合や絵の具の染み込み加減が面白いなって思って。僕、竣の彫刻に、描いてみようと思うんです」 「これを?」  画廊の男は、明らかに乗り気でない顔をした。彩度の落ちた絵の具からは、瑶平が得意とする多幸感は感じにくいと言いたげだった。 「こういう取り組みもよろしいですが、お約束の絵もございますので、ね?」  瑶平の目をまっすぐ見ながら言い含めた。瑶平は一応うなずいたが、お約束の絵を描く気がなさそうなのは、誰の目にも明らかだった。  画廊の男はスーツの裾に着いた木屑をいまいましそうに払う。瑶平の姿に目を細めて何かを呟き、俺の作品を無視して去って行った。

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