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損壊と隠滅(3/3)
瑶平はクロッキー帳を広げ、全体の構図や木肌に滲ませるためのモチーフを次々スケッチし始めた。
俺にも木片を削らせ、染み込む色の変化も試している
以前の瑶平なら、クロッキー帳を広げても黙りこくったまま一日を終えていた。今はやわらかな鉛筆で、窓の外に見える木や花、空に浮かぶ雲などを次々に捉える。
アトリエに好きな音楽を流し、小さな声で歌いながら朝から晩まで手を動かし続ける姿が、久しぶりに楽しそうで目が輝いていた。
俺もその様子に安堵して、作業に取り組みやすくなり、クスノキの丸太の中から、女性が一歩前へ踏み出す姿が浮かび上がってきていた。
今日は着彩したスケッチや木片をテーブルに並べたまま、瑶平は美術館へ打ち合わせに出かけた。
一人きりのアトリエに、瑶平の好きな音楽とノミを打つ音が交じり合って響く。
像の左耳を彫り進めていたとき、多幸感にあふれたアンビエントに、聞き知った足音が重なった。返事など期待しないノックが響き、すぐにドアが開く。
「失礼します」
画廊の男だった。この男の、自分がアトリエに自由に出入りできると思い込んでいる姿勢は好きになれない。瑶平が世話になっているから、飲み込んでいる。
「瑶平なら、出かけてます」
「存じております。あなたにお話がある」
剣呑な雰囲気に、俺は目を逸らした。
「今、手を離したくないんです。このままでも?」
「結構です」
画廊の男は眼鏡を押し上げ、低い声で切り出した。
「瑶平先生と別れてください」
俺はミスって耳の上の部分を削り取った。思わず舌打ちをして、材から彫刻刀を離し、深呼吸した。
「俺たちの関係は、俺たちが決めます」
相手につられて感情的にならないように、努めて落ち着いた声を出した。だが、男の声は大きくなる。
「このままでは瑶平先生が潰れます。私が見い出し大事に育てた金ヅルを、あなたごときに潰されてはたまらない」
「金ヅル?」
「金ヅルですよ。貴重な金ヅルは、あなたとアトリエを共有し始めてから、まともな絵が描けてない。木っ端に汚い色を塗るなんて、俺が教えてきたことが台無しだ」
テーブルの木片を見下ろし、さも汚いものを見るような目で顎を引いて、首を振る。
「でも、瑶平が今やりたいのはこれだ」
「売り物にならないでしょう。俺が育てた金と才能を潰す気か、彫刻家気取りが!」
「てめぇ」
ノミのハンドルが手のひらに食い込んで軋む音がする。その力にこもる殺意に気づき、俺はノミを床に置いて、安全な方向へ急いで蹴り飛ばした。
「帰ってください」
怒りに震える声を抑えたが、画廊の男は薄く笑った。
「帰るのはお前だ。瑶平先生のそばにいたいなら、彫刻なんかやめて、セックスだけしてろ。ディルド野郎」
俺は立ち上がった。その時、朗らかな声が響いた。
「ただいまー! ねえねえ竣、美術館の人がね。もしこの作品が仕上がったら、来年の回顧展で展示室の一番最後に展示しませんかって! 楽しそうじゃない?」
瑶平が弾んだ声で飛び込んできて、男を見て足を止めた。
「ああ、こんにちは。何か?」
「何か? じゃありません! 専属契約を解除するだと? そんな話が内容証明一枚で済むと思うな!」
男が眼鏡を乱暴に直し、声を荒げる。
その姿を、瑶平は静かに見つめて、落ち着いた声を出した。
「何度もお話ししたじゃないですか。何年もお話ししてきたじゃないですか。僕は同じ絵を描き続けることはできないって。どんなに売れるとわかっていたって、過去の作品を真似て適当に色を塗っただけのものにサインを入れることは、僕にはできませんって!」
初めて聞く話だった。俺は息を呑んだ。瑶平がそんな苦しみを抱えていたなんて、全然気づかなかった。
瑶平は堰を切ったように話し続けた。
「育ててくださったのは感謝しています。でも、僕は人間なんです。同じ場所にとどまることはできない。死ぬまで進化し続けるんです。お望みの絵があるなら自分で描いて、AIでも3Dプリンターでも使って、好きなだけ量産して売ってください。サインが必要なら、ご自分のサインを入れればいいでしょう。僕は、あなたと関わっている限り、僕の絵を描くことはできないんだ! 苦しいんです。もう契約は解除させてください!」
心がひりつくような声に、男の怒声が重なった。
「こんな男と関わるからです! 余計なものは見聞きせず、あなたはあなたの道を進めばいいのに!」
俺は静かに立ち上がり、瑶平を背後にかばった。
「余計なものを見聞きせずにいたら、瑶平は今でも金ヅルとして搾取されていた。そういうことですよね。瑶平をプリンターとして消費しようとする下賎な奴に、作品は任せられない。帰れ!」
画廊の男は俺たちを睨みつけ、「画商のつかない苦労を味わえばいい」と吐き捨てて帰って行った。
瑶平は大きく息を吐いて、椅子に座った。
「ごめんね、巻き込んじゃって。ずっと辞めたい、次の契約更新はしないって言い続けてたのに、聞いてもらえなくて。先に画廊を辞めた人に聞いて、内容証明を送ったんだけど」
こめかみを押さえてもう一度大きく息を吐いていて、俺はそっと背中をなでた。
「俺のことなんか、いくらでも巻き込めよ。こんなトラブルになってるなんて知らなかった」
「竣はこれから売れる人じゃん。変な噂が回ったら困るもん」
「売れてないから、何を言われても平気なんだろうが」
泣きそうな瑶平の顔を自分の胸に押しつけさせて、その髪に自分の頬を擦りつけた。
「未来のことを考えよう。作品名は、何にする?」
「作品名? もう考えちゃうの?」
瑶平の目は秘密基地を作る子どものように、キラキラと輝いていた。俺はその目を見返し、抱いていた肩をゆさぶる。
「楽しそうだろ?」
「うん! 竣のことを抱きしめてキスしたいくらい、楽しい!」
俺が唇を差し出すと、瑶平は俺の首に両腕を絡めて、唇を押しつけてきた。俺も瑶平のキスに応え、その背中に両腕をまわして、しっかりと抱きしめた。
春の光がアトリエに満ちて、俺たちを包んでいた。
展覧会の最後に展示された作品には、『損壊と隠滅』とタイトルをつけた。木を削って損壊し、その上から油絵の具で隠滅して作ったからだ。
俺たちが削り、塗り重ねた跡は、人間の傷や喜びに重なる気がした。一度は死んで材になったクスノキが再び歩きはじめる姿に、あふれる花の多幸感が寄り添う。過去に花を手向け未来へ向けて歩み続ける人生を、静かに祝福しているように見えた。
「ちゃんとした場所に置くと、もっとコンセプトが際立つね」
「アトリエはごちゃごちゃし過ぎだ。また大掃除しないとな」
「僕、掃除は苦手」
「知ってる」
多くの鑑賞客の中から一緒に作品を見て、俺たちはそっと指を絡めた。
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