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まよなかはこどものじかん
夜風が頬にぬるく、アスファルトに街灯の光が淡く反射する。住宅街の真ん中に児童遊園がぽつんと現れた。一本だけ植えられた桜のつぼみは膨らんでいて『桜の樹の下には』という有名な一文を思い出す時期になったと思う。
公園へ足を踏み入れたら、真っ白な街灯に照らされて、一人の男がブランコに座っていた。年は30歳くらいだろうか。季節外れのダウンコートを着て、下唇を噛んで嗚咽をこらえている。街灯の光が照らす頬は涙に濡れて光り、手には子ども向けの絵本を握りしめている。
そして、桜の木の枝には、黄色と黒のしましまのロープが風の動きに合わせて揺れていた。
『桜の樹の下には』。そう思った。
僕は急激に心臓が冷たくなるのを感じた。足元の砂利が小さく動き、スマホを持つ手が汗ばむ。110番か、119番か。初めて直面する事態に、呼吸が浅くなっていく。
ロープが風に揺れるたび、影が伸びたり縮んだりして地面に踊った。 それはまるでブランコに座る彼を誘う動きのように見え、僕はロープを外して土の上に落とした。
彼が顔を上げた。涙と鼻水で濡れた顔に、口角が不自然に上がる。
「ブランコに乗りに来たの? どうぞ」
泣き濡れた男に不自然な笑顔でブランコを譲られるという、不気味な親切は断りたかったが、もし彼が僕に断られた絶望で桜の樹の下に行ってしまったら困る。僕はブランコに腰かけた。鎖をつかむ指先が震えた。
「背中を押してあげようか」
彼の声が低く響き、背中に手が触れる。ブランコが軋みながら動き出し、風が耳元を掠める。揺れが大きくなるたび、街灯の光も揺れ、桜の木の影が伸び縮みした。
久しぶりのブランコは楽しかった。家族や友達に背中を押してもらった頃を思い出した。
彼のラバーサンダルが砂利を踏むリズムが続き、街灯の光が彼の横顔に柔らかい影を落とす。僕の様子を確かめ、のぞきこんでくる頬に、もう涙は流れていなかった。
「楽しかったです」
「そう、よかった」
揺れが止まり、鎖が軋んで鳴る。
涙が止まったとはいえ、見上げた男性の喉は緊張でこわばっているようで、まだ不安定に見えた。
「もしよかったら、少し話しませんか」
僕の誘いにうなずき、男性は隣のブランコに座った。
遠回りに少しずつ、好きな音楽の話や、最近行った美術館の話をするうちに、彼はいきいきと話し始めた。
「あの美術館は作品の展示には向かないけど、たたずまいがいい。何度も歩きたくなる」
全国を旅行した話に、何度も美術館が登場した。
「美術関係のお仕事ですか」
男性は即答した。
「絵本作家なんだ。でも、もうやめるんだ。全然書けないから」
絵本作家をやめることは、彼の中で一応既定路線らしかった。あんなに泣いていたから、本当はやめたくないのだろうけど。彼は言う。
「自分の中にある、子どもの心を見失った。木の枝が落ちていても拾いたくない。冒険もしたくなければ、秘密基地も作りたくないし、当たりくじ付きの風船ガムにもときめかないんだ」
僕は自分が子どもの頃の記憶と照らし合わせ、彼がかなり深刻な状況だと把握した。
彼は街灯の白い光を目に映しながら、公園を見回す。
「ここは子どもの頃、よく遊んだ場所なんだ。何か思い出すかと思って来たけど」
視線が足元の砂利に落ちる。裸足にラバーサンダルを履いていて、つま先が白っぽくなっていた。
僕は彼の冷えた身体を温めたいと思った。このままではやはり、桜の樹の下へ行ってしまいそうに思えた。
「僕と遊びませんか。滑り台もあるし、シーソーもある。鬼ごっこもできますよ」
手を引くと、男性は絵本を置き、ブランコから立ち上がった。
滑り台の表面は夜露で濡れていたが、構わず滑った。下から駆け上がり、駆け下り、その勢いでシーソーに飛び乗る。反対の端を彼が強く踏むと、僕の身体が跳ね上がり、思わず笑い声が出た。
「しーっ」と男性は唇の前に人差し指を立てる。続けて始めた鬼ごっこでは、男性のラバーサンダルが砂利の上を滑って転び、笑い声を立てた。
「しーって言ったのに」僕は仕返しに、自分の唇の前に人差し指を立てて見せた。
無言の鬼ごっこはいつの間にか全力疾走になり、止まりきれずに相手を抱きしめ、振り回すことで勢いを落とした。
空気が温かくなってきたと思ったら、空に明けの明星が光っていた。東の端がサーモンピンクに染まり始めている。
「おひさまがでてきたから、おしまい!」
そう宣言した男性は、直後に動きを止めた。そして噛み締めるようにセリフを繰り返した。
「おひさまがでてきたから、おしまい」
東の空で宵闇が溶けていく様子を見上げ、笑顔になった彼は、僕にもその笑顔を見せてくれた。
「書けるかもしれない、絵本を。書けるかも!」
太陽のような力強い語調に、僕のほうが泣きそうになった。言葉が出なくて、何度もうなずいた。
「俺、久しぶりに腹が減ったよ。よければ、川向こうのファミレスでも行かない? 朝メシを食おう」
「いいけど、書かなくていいの? アイデアが逃げちゃわない?」
「大丈夫。何度でも思い出せる」
スマホにもメモしたから、と画面を見せてくれて、僕は安心した。
僕たちは公園の出口に向かって歩く。彼は持ってきていた絵本を大切そうに抱え、目の前に横たわっていた黄色と黒のロープをしっかり踏んで、乗り越えた。小さく吐く息が聞こえ、その横顔は安堵したようにも見えた。
「僕、あの店のモーニングは、ターンオーバーエッグって決めてる」
「ターンオーバーって、黄身に完全に火が通ってるやつだろ? もそもそしない?」
男性はわかりやすく眉をひそめた。
「そんなの本当に子どもの感覚だよ。大人なら黄身が喉にちょっと引っかかるくらいじゃないと」
優越感にひたる僕を、彼は呆れたような目で見た。
「お前、ガムも噛まずに飲み込むタイプだろ?」
「ガムを飲み込む背徳感、いいじゃん!」
アスファルトに二人の影が並ぶ。それはもう親友の距離だった。
「ねえ、名前聞いてなかった。僕は……」
あさやけの ひかりが ぼくたちを おいかけてくる。
すこしずつ あかるむ おひさまを せなかに、 こどもの じかんを おいかけて、 ぼくたちは たのしく あるきつづけた。
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