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疲れすぎて、ふわふわ(1/3)
好きな人と同じ部屋で、二人きりで残業なんて緊張しちゃうな、なんて思ってる余裕もないくらい納期に追われていた。
「赤木さん。このCNNの実装、効率悪すぎます。アルゴリズムから見直すべきです」
後輩藍沢の容赦ない言葉が、疲弊した俺の心に突き刺さる。
一番かっこいいところを見せたい人に、こんな指摘をされるなんてつらい。しんどい。消え去りたい。
でもだからって男相手に片思いしてるなんて、片鱗すら見せてなるものか。見せるべきは、ミスを挽回する先輩らしい姿だ。
(よし。ミスった分、取り戻してやる! アルゴリズムを見直して、CNNを軽量化してやる。エッジで動くように最適化して、精度も落とさないからな。見てろ!)
気合いを入れ直して、両頬を自分の手で叩いたら、ワイヤレスイヤホンが耳からこぼれ落ちた。座ったまま慌てて椅子を引いたら、キャスターがイヤホンをバリバリと踏み潰してしまった。
「あああああ」
お気に入りのゼンハイザー! ごまんえんもしたのに。
思わず椅子から降り、分解されてしまったゼンハイザーを手のひらにのせて弔っていたら、藍沢が席を回り込んできた。
「それ、去年出た最新モデルじゃないですか。あーあ」
あーあ、なんて言われて、ますます落ち込む。
「僕、今日はもうダメかも」
抱えた膝に額を押しつけ、ちょっぴり浮かんだ涙をチノパンの膝に吸わせた。
「コンビニでイヤホンと晩ご飯、買ってくる……」
しおしおになってコンビニへ行き、Bluetoothイヤホンとサンドイッチを買った。
自席に戻りサンドイッチを食べながら、何の思い入れもない安物のBluetoothイヤホンを耳に突っ込んで長押しした。
「ペアリングモードに入りました」と小さなアナウンスが聞こえ、僕のスマホに接続候補が上がる。でも僕が新しいイヤホンの名前をタップするより先に、「ペアリングしました」というアナウンスと聞き慣れない音楽が耳に流れ込んできた。
「え、なに?」
顔を上げると、藍沢が自分のスマホを弄りながらこっちをチラ見して、いたずらっ子のように肩をすくめてニヤッと笑った。
「俺のおすすめ流しといたんで。ブライアン・イーノです」
「あ、そう。ブライアン・イーノ」
ブライアン・イーノなんて名前くらいしかしらないけど、正直疲れすぎていて頭がぼんやりし、エラーメッセージが目に霞んでいて、抵抗する気力はどこにもなかった。
それにまさかそんないたずらをされるとは思っていなくて、そっちの感情のほうが忙しかった。僕は緩みそうになる口元を食べかけのサンドイッチで隠し、モニターに向かった。
(同じ音楽を聴いてる)
彼の耳に嵌る白いイヤホンを見て、僕はどきどきした。
そして彼が好む音楽の世界に、二人で一緒に身を浸す喜びは、僕の身体に明るいエネルギーを与えてくれた。
ピアノの単律に気を取られるうち、シンギングボールのような打楽器の波紋が広がる音色に包まれて、雑念が溶けていく気がした。いつの間にか外界から遮断され、コードのことだけが頭に浮かんだ。
コードに没頭しているうちに時間が溶けたらしい。左側に人がしゃがむ気配で顔を上げたら、藍沢が笑っていた。
「削ぎ落としすぎて、めっちゃいいコードじゃないですか」
同時に熱いコーヒーが差し出されて、僕は小さく頭を下げた。
「俺、赤木さんのアツいところと、生意気な後輩の話にも耳を傾けてくれる度量の広いところ、めちゃ好きです」
「生意気な後輩じゃない。先輩にもおそれず、きちんとミスを指摘できる、しっかりした後輩だよ」
僕の返事に笑った藍沢は、しゃがんだまま僕に頭を差し出した。
「なでて。ごほうびに、なでて」
「髪型が崩れちゃうだろ」
それでもしつこく頭を差し出してくる。藍沢も仕事に疲れて、深夜のテンションになってきたのかもしれない。
僕はジェルでぱりぱりする髪の表面だけをそっとなでた。
「赤木さんの頭もなでてあげます」
「いいよ、そんなの」
めちゃくちゃなでてほしかったけど、好きバレは避けたい。コーヒーをすすってごまかしていたら、藍沢は立ち上がって僕の背後に立った。
「バックハグしてあげます」
断るより先に腕の中に包まれた。藍沢の頬が僕の髪に押しつけられているのがわかる。
「癒すつもりだったけど、俺のほうが癒されるなあ」
こいつも相当疲れてるな。ずっと僕を抱きしめているので、困り果てて胸の前にある腕をそっと叩いた。
「社内でこういうことは、しない」
「社外ならいい? じゃ、テストを走らせて、早く帰りましょう。もう終電ないけど」
僕を左手で抱き締めたまま、右手でスマホを操作し始めた。
「今日のところは、とりあえずビジホにしておきます? 俺はラブホもいいなって思ってるんですけど」
タップひとつで、ずらりとラブホテル情報が並ぶ。
「どういう部屋がお好みですか? カラオケ付き? 温泉付き? マッサージチェアとか、足湯とか、癒されるやついろいろありますよ。先週からずっと、マジでハードだったから、癒されましょう。ね?」
「たしかに癒されたい。マッサージチェア、いいな」
連日の残業で本当に疲れていたので、高級マッサージチェアや大きなバスタブは、とても魅力的だった。
「じゃあこの部屋を予約しましょう」
簡単な操作で部屋が決まって、僕たちは会社を出た。
24時間営業のドラッグストアに立ち寄って、夜食や朝食を選んでカゴに入れていく。
店の中をぐるりと歩いて、藍沢が足を止めた。そこには薄さを表す数字が書かれた箱が並んでいる。
「ひょっとして、僕とするつもり?」
「俺は、そういう流れになってもいいかなと思ってます」
藍沢は笑ってコンドームをカゴに入れたが、その白目は充血していた。僕は実現難易度は高そうだと思いながら、ローションをカゴに入れた。
「とりあえず僕たちもテストを走らせるってことでいい?」
「もちろんです。めちゃくちゃ優しくするし、がんばります」
明日の朝にはきっと、どちらのテストの結果も出るだろう。
そして仕事と恋愛どちらについても、僕たちはやめるとか投げ出すとかしないで、根気よくデバッグ作業に取り組むんだろうなと思った。
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