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After The Garden

「お疲れっす。お先っすー! 俺、帰りまーす!」  なんでそんなに大きな声で退勤を宣言するんだろう。営業部から聞こえてくる声に、僕はため息をついた。 「おい辰巳、ちょっと待てよ。あの提案書のドラフト、今日中にチェックしないと明日、間に合わないぞ」 「えー、マジすかあ?」  ほらやっぱり。帰るときに目立ったら負けなんだよ、この会社は。  僕はパソコンの電源を落とし、カバンを抱えて静かに立ち上がった。 「深川くん。次期予算の資料、今日中にまとめておいてくれって部長が言ってたけど」  先輩がメガネの奥の目を光らせる。 「ぶ、部長には、今日中は厳しいけど明日ならって伝えてありますんで」  しらばっくれたけど、こういうときに限って背後に部長がいる。 「聞いてないわよ。明日の朝イチでクライアントに予算案を提出するんだから、今日中に数字を確定させてってね」 「……はい」  心の中で舌打ちしながら、僕は椅子に座り直した。  部長の確認がとれたのは一時間後だった。僕は満員電車に身体を押し込み、エスカレーターを横目に階段を駆け上がり、雑居ビルの三階にある漫画喫茶に飛び込んだ。  受付で会員カードをかざし、奥の半個室席に急ぐ。 「辰巳っ! 遅くなって、ごめん!」 「おー、深川。お疲れ。一太郎のやつ、全然動かねぇよ」  ネクタイを外した辰巳はソファに座り、画面がフリーズしたパソコンを見ながら、ポテチを食べていた。日本語ワープロソフト一太郎は、最初のページを表示したまま微動だにしない。  ドリンクバーでアイスコーヒーを持って来た僕は、一緒に動かない画面を見る。 「今回僕たち、15万字も書いちゃったもん。しばらく動かないよ」  目の前には編集前のテキストを打ち出した紙の束があって、その厚さを指で挟んで測る。 「文字だけの俺たちですら、こんなに時間かかるのに、絵師さんはどうやって編集してるんだろうな」 「パソコンのスペックが違うんじゃない? それに絵師さんは一太郎使わないと思う」 「ハードディスク買うかぁ」 辰巳はそう言って立ち上がり、ラノベコーナーから『棘の庭』というBL小説を持って来た。 「それ読んでたら、一太郎を待つ時間なんてあっという間だね」 「こういうブレない、信念を貫く攻を書けるようになりたい」 「辰巳ならすぐ書けるよ。僕も鋭い棘で人を近づけない孤高の受をもっと書きたいな」  僕たちはこのBL小説をきっかけに知り合った。  入社式で『棘の庭』を落とし、隣の辰巳に拾われて死にたくなった。  でも彼は膝元で本を返し、「俺も持ってる。いいよな」と言った。こんなに陽キャっぽい男がBL小説を持っているとは。  でも、コーヒーショップで語り始めたら、辰巳のBL好きは筋金入りだった。僕と同レベルの腐男子を会社で見つけるとは思わなかった。  僕たちは意気投合し、一緒に小説を書き始めた。辰巳が攻、僕が受を担当して長編を書いたり、短編を持ち寄って合同本を作ったり、存分に同人活動を楽しんでいる。 「あ、コイツ動いたんじゃね?」  辰巳がポテチの手を止めてマウスを触ろうとする。 「まだ触っちゃダメ! PDFが全部表示されるまで待てって。一太郎を困らせないで!」  僕は思わず声を上げ、隣の席から視線を感じて縮こまる。 「落ち着けって、深川。最悪、印刷所の入稿を一日遅らせればいいんだから。まだ2営業日便の枠は空いてる」  辰巳が肩を叩いて笑う。 「やだ。サークル費の無駄遣いだよ! 絶対明日の朝八時までに入稿する! 辰巳は発想が営業部すぎる」  僕はわざとらしく舌打ちして見せた。  辰巳がホットコーヒーを持ってきてくれて、僕はそれをすすりながら一太郎とプリントアウトしたテキストを睨む。 「うわあああああ。誤字見つけちゃったあ」 「この期に及んで見返すなよ。見返したら絶対出てくるんだから」  エナジードリンクを飲んでいた辰巳が、呆れた顔で言う。 「でも直さないと買ってくれる人に申し訳ないだろ! あれだけチェックしたのに!」  僕が紙を握り潰しそうになると、辰巳が手を掴んだ。 「いいか、深川。冷静に聞け。今から本文のファイルに戻って修正して、数文字のズレを後ろに送って約200ページ動かす、それからもう一度PDF変換する。一太郎は明け方まで作業だぞ? 明日は平日なんだから、社会人として睡眠時間は捨てるな」 「明日の朝、起きてすぐに入稿するもん!」  僕のかたくなな態度に辰巳は呆れ笑いしつつ、一緒に校正してくれた。  冒頭から奥付まで、誤字脱字やコピペミスがゾンビのように湧いてくる。 「やっと終わった……」  朝五時、漫画喫茶のソファで僕が目をこすると、辰巳が僕の頭をくしゃくしゃなでた。 「お疲れ、深川」 「んー。お疲れ、辰巳」  大変な思いをするたび、もう二度と小説なんて書かない。同人誌も作らない。そう思うのに、J.GARDEN当日、会場に着く頃には全部を忘れている。慌ただしく設営して、友だちに会って歓声を上げ、机に並べた同人誌が売れていくたび、心の中で拝んだ。  少部数しか作らなかったとはいえ、完売はうれしい。  僕たちは繁華街の個室居酒屋で打ち上げをした。  設営の慌ただしさを語って笑い、自分たちが書いた作品を振り返り、心置きなくBLの話をした。 「入稿直前に辰巳が書き足した『お前がその心の棘でどれだけの人を刺してきたのかなんて、俺には関係ない。その棘を最後に折るのが、俺の役目だ』ってセリフがすごくいいなって。感情が押し殺されてるのに伝わってくるの、上手いなって思った」 「俺たちのベースは『棘の庭』だから、そういうのは書きたいし、刺さるよな」  アルコールに強い辰巳が耳を赤くしていて、ちょっと照れている。 「深川も『冷たい声で言い放ちながら、僅かに視線を逸らした』って描写がクールで、上からな言い方だけど、めっちゃ上手くなってるじゃんって思った」  褒め言葉の反撃を食らって、僕も顔が熱くなる。  辰巳はハイボールを飲み干して言った。 「次はサラリーマンのオメガバース書こうぜ。ヒートして早退したオメガの部屋に、同僚のアルファが見舞いに来て慰めるんだけどさ。うなじは噛まないし、告白もしない」 「いいね。その強い自制が実は愛情表現なんだけど、オメガには伝わらなくて、優しさだけが伝わって、両片思い!」  物語の主線が決まって、僕たちはまた乾杯した。  店を出ても飲み足りない気分で周囲を見回していたとき、辰巳が言った。 「ウチ来る?」  ありがたく誘いにのって、辰巳の部屋に行った。  BLドラマをテレビに映しながら、僕たちはベッドに寄りかかって床に座り、缶ビールを飲んだり、カップ麺を食べたりした。  アルコールと糖質が僕に眠気を運んできた。  辰巳の肩に頭をのせ、ゆっくりまばたきをする。BLドラマでは、告白が成就してキスシーンが展開されていた。  缶のハイボールに口をつけながら、辰巳は不満げな声を出す。 「BLって、恋愛が成就するタイミングが遅いよな」 「恋愛成就までの過程を、ハラハラドキドキしながら読ませるものだからじゃない?」  僕たちだって、いつもそういう構成を心がけて書いている。今さら何を言い出すのかと思ったけど、辰巳は寂しそうに呟いた。 「成就したら、終わるってことか」  この先も楽しいことを続けたい僕は驚いてフォローした。 「続編を書けばいいんじゃない? 同人誌なんだから、自分たちが書きたいように、いくらでも書けばいいよ」  床の上にあった僕の手に、辰巳の手が重なった。 「このBLは、続編ありそうか?」 「どのBL?」  疑問を口にしながら、僕は辰巳の手を握り返していた。  互いの顔の距離がすごく近くて、辰巳は軽く首をかたむけて、さらに顔を近づけてきた。  さすがにもう25歳の社会人なので、いつでも冗談に変えて引き返す余白を残しながらの接近だったけど、辰巳が作り出す甘い空気に酔っ払って、僕も自分から顔を近づけた。  柔らかな唇が触れ合ったのは一瞬だった。子どもみたいなキスに、逆に僕は驚いた。  読んだ僕がちょっと引くほど濃厚なベッドシーンを書くやつが、こんなキスで済ませるの? という意外な気持ちだった。いや、僕だってノリノリで触手姦を書いて、返答に困らせてるんだけど。 「書くのとするのは、全然違う」  辰巳はそう呟いて立ち上がり、テーブルを片付け始めた。  何? 何だったの、今の? 取材? 次に書くオメガバースの取材?  次の日、営業部で同僚と冗談を言い合いながら動き回る辰巳はいつも通りで、僕のほうが自分の唇を触って考え込んでしまった。  まさかこんなふうに僕に考え込ませ意識させるための仕掛けだったのか、本当にただの取材だったのか、酔って性欲を持て余したのか、いや本当にただの取材だったのか。ただの取材だったのかもしれない。きっとただの取材だったんだろう。でも。  BL小説を書いているから、キスの意味をいくらでも思いついて、僕は混乱の三時間を過ごした。  昼休み。待ち構えていた僕は、営業先から戻ってきた辰巳を資料室に引っ張り込んだ。 「僕、今日は辰巳のおかげで全然仕事にならなくて、いい迷惑なんだけど?」 「なんで? 出張報告書なら先週提出したけど?」 「出張報告書は受け取った。お疲れ様。添付の請求書が間違ってるからあとで差し戻すけど。そうじゃなくてっ!」 「しっ!」  思わず大きくなった声に、辰巳が唇の前で人差し指を立てて見せる。  僕はひそひそ声で辰巳をにらみつけた。 「昨日、なんで僕とキスしたの?」 「キスなんかした?」  もういいと歩き出す僕の腕を、辰巳は笑いながらつかんで引き寄せ、「ごめんごめん」と言って壁に押しつけた。顔の脇に手をつき、にっこり笑う。 「ちゃんと覚えてるって。ここはひとつBLらしく、壁ドンで話そう」  脚の間に膝を突っ込んで僕を壁につなぎ止めてから、辰巳は言った。 「俺のことをもっと意識してほしかったから。お前、鈍感すぎるんだよ」  呼吸を止めて一秒、辰巳が真剣な目をしたから、僕は何も聞けなくなったのに、直後に破顔した。 「……っていう設定で書くのもいいよな?」  コイツの真意はどこにあるのか。僕にはさっぱりわからなかったけど、とりあえず辰巳のネクタイを引っ張って顔を近づけ、キスをした。 「そっちがその気なら、このくらいやり返す受を書くから、そのつもりでね」  次の原稿の攻と受がどんな恋愛をするのかは、僕たち次第かもしれない。
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