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Coffee Stain(2/5)
アウターを着る季節でよかった。
先生はスプリングコートを羽織り、とりあえず道を歩ける状態だった。
「お待たせしました。まいりましょう!」
「僕、今日中に仕上げたいラフがあるから、早く帰りたいんだけど」
「買い物が済んだら、すぐにお送りしますから!」
渋る先生をタクシーに押し込む。ドライバーに行き先を問われて
「普段、先生はどちらのお店で服を買われるんですか?」
「ウニクロ」
「へ? ウニクロ?」
それは俺も愛用するアパレル量販店の名前だった。意外過ぎて顔をのぞきこんだら、先生は困ったように俺の目を見返してから、噴き出した。
「そう、ウニクロ。普段はウニクロを着てるのに、今日に限って限定モデルを着ちゃったんだ。よりによって!」
先生は肩を揺らして笑い、俺は初めて見る笑顔に心臓が跳ね上がった。
結局、先生の希望で、繁華街の巨大なウニクロへ行った。
「えー、本当にそれでいいんですかあ?」
予想の20分の1の金額に、俺は肩と背中の力が抜けた。
「結局、君の給料で買うことにしたんでしょ? 年収に対するパーカーの値段の割合は、こんなものだよ。無理しないで」
俺がレジで決済し、自分の年収の20倍がいくらになるかを計算しているあいだ、先生はパーカーを自分のトートバッグに入れて肩にかけた。そして、まっすぐに俺の目を見た。
「パーカーについてはこれで手打ちにするけど、お説教はちゃんとあります」
俺は背筋を伸ばして返事した。
「はいっ! 拝聴しますっ!」
「声でか。だる」
「すみませんっ! コーヒー代もちゃんと給料から出しますっ!」
「そのくらい、マジで会社から出してもらいなさい。この先、続かなくなるよ?」
呆れた顔の先生は、僕の給料に見合った喫茶店へ入っていく。
「さて、お説教です」
ブレンドコーヒーを一口飲んだ先生は、脚を組み、腕を組んだ。
「は、はい。覚悟はできております」
俺はぴったり膝をそろえ、両手を握りこぶしにして、肩に力をこめ、可能な限り首をすくめた。
「絵を描くって、すっごく大変なの。知ってる?」
先生はコーヒーに染まったクロッキー帳とシャープペンシルを取り出し、目の前のコーヒーカップを描き写しはじめた。
それは魔法を見ているみたいだった。大まかに位置を決める線、全体の輪郭、中心線、さらに輪郭、濃い影、薄い影と描いていくが、まるで紙の向こうに誰かがいて、こちらに向かってコーヒーカップを押し上げてきているように見える。
「これは君に説明するために、とてもざっくり描いているけど」
そう言いながら先生は、指の腹で紙面を擦った。それだけでまた立体感が増して、陶器の滑らかな表面に艶が出る。
「すご……」
コーヒーカップと紙のあいだに視線を往復させながら、俺に説教を続けた。
「一冊の本がきっかけで、高校三年生になってから、美大に行こうと思うようになったんだ。デッサンが一番苦手で、受験まで時間との戦いだった。最初は自分の目が養われてないから、自分の描いたものすべてが世界一の傑作に見える。でも、だんだんわかってくるんだよね、自分の目も技術も美大に入れるレベルじゃないってことが。今はデッサンなんてしなくても、パソコンで写真を取り込んで、描画ソフトで輪郭を抽出すればいい。自分は何をやってるんだろう、先生はなぜ僕が描いたものを否定ばかりするんだろうって、そういう心の葛藤をしながら、リンゴとか石膏像とかを紙に描く。ひたすら描く」
カップに描かれているバラが、紙の上に再現されていく。先生は黒のシャープペンシルしか使っていないのに、なぜか俺の目には中心が赤くて、外側がピンク色のバラに見えていた。
「美大に入ったら楽になるかと思ったら、地獄だった。みんなすごく上手くて、感性も想像力も豊かでさ。自分の学年だけでも、そんなすごい人が1,000人いる。1,000番目の僕が芸術を語ったって、生きていけないんだと気づいた」
「それで、今のシンプルな画風に行きついたんですか」
「うん。『こんな絵、誰でも描けるよ』ってよく言われるけど、僕が描くまでは誰も描いてない。僕のあとに描く人はみんな模倣だからね」
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